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検索語: “守り”

20件の記事が見つかりました

持っている人は、何を持っているのか

マタイによる福音書13章で、弟子たちは主イエスに、なぜ群衆には譬で話されるのかと尋ねます。その答えの中に、言葉がひとつ抜け落ちたような一文があります。 「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」 マタイによる福音書 13:12 (口語訳) 持っている人とは、何を持っている人なのでしょう。お金でしょうか。才能でしょうか...

心にかぶとを

恐れは、たいてい正面の扉からは入ってきません。見ているもの、指先で流しているもの、心の中で何度も繰り返している言葉——そのすき間から、そっと忍び込みます。 そして気づかないうちに、望みは少しずつ痩せていきます。 パウロは、望みをあなたの武具の一部として語ります。 「救の望みのかぶとをかぶって」テサロニケ人への第一の手紙 5:8 (口語訳) かぶと、(クラノス) κράνος — 「かぶと」。つまり...

バビロンのただ中で

信じる者は、神の基準を受け入れない世の仕組みの中で日々を送っています。これは今に始まったことではありません。イスラエルの民もまた、敵意に満ちた文化の秩序のもとで、七十年のあいだバビロンの捕囚として生きました。 預言者エレミヤを通して、神は神を知らぬ文化の中で生きるための、具体的な指示をお与えになりました。山の洞穴に身を隠せとも、普通の暮らしを捨てよとも、神はお命じになりませんでした。 「家を建てて...

人に気に入られたい心の正体

サウルは人を恐れて、王座を失いました。ダビデは神に愛されていることを知っていたので、王座を保ちました。この二人の王を分けたものは、人の承認の上に築かれた人生と、神の受け入れの上に築かれた人生の違いです。 人に気に入られようとすること――それは性格の問題ではありません。霊のありようの問題であり、聖書はそこに正面から触れています。「人に取り入る者」を指すギリシア語から、世論に膝を折った王の物語まで、聖...

倒れる者はひとりもいなかった

エジプトでの最後の朝を思い描いてみてください。 二百万とも三百万とも言われる人々が、たった一夜で奴隷の地を出て行きます。彼らはれんが作りの労働者でした。背中が鞭を知っている人々でした。その中には年老いた男も、白髪の祖母も、小さな子どももいます。ところが、その群れのどこにも担架は一つも見当たりません。杖にすがる老婆もいません。誰かに背負われている者もいません。 「そして彼らに銀と金とを携えて出させら...

主よ、わたしの目を開いてください

エリシャの召使いは、危険を見ました。エリシャは、現実を見ました。 軍勢が町を取り囲んでいました。馬があり、戦車があり、兵士がいる。召使いは、うろたえました。 人の目から見れば、彼は正しかったのです。神の目から見れば、彼は半分しか見ていなかったのです。 エリシャは、短い祈りをささげました。 「主よ、どうぞ彼の目を開いて見させてください」 列王紀下 6:17 (口語訳) すると、ほんとうの世界が立ちあ...

啓示を火に入れなさい

ある人が、御使が自分に現れたと語ります。終りの日にあって死に打ち勝つ鍵を、その御使から授かったのだと言います。 その言葉を信じるべきでしょうか。 いいえ。 御使が実在しないからではありません。御使は確かにいます。けれども神は、ご自身の言葉を飛び越えてお働きになる方ではありません。パウロは二千年前に、この問いに決着をつけています。 「しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたし...

与えられた地を歩く

「自分のものにする」と聞くと、私たちはたいてい戦いを思い浮かべます。地を取るとは、汗を流し、力を尽くし、勝ち取ったものをどうにか守り抜くこと——そんな連戦の日々を想像するのです。けれども神が約束の地についてヨシュアに語られたとき、用いられたのは、その思い込みを根もとから覆す一語でした。「わたしは、すでに与えた」。 「あなたがたが足の裏で踏む所は、わたしがモーセに言ったとおり、ことごとくあなたがたに...

ソーゾー — 救いも、いやしも、解放も、ひとつの言葉に

多くのクリスチャンが、「救われた」という言葉を知っています。けれども、その言葉の背後にあるギリシア語 — ソーゾー — が、同時に「いやされた」「救い出された」「全きものとされた」「守られた」という意味を持っていることを知る人は、それほど多くありません。一つの言葉が、そのすべてを抱えているのです。 これは小さなことではありません。神は初めから、救いをあなたのたましいのところで止めるおつもりなどなか...

希望の正体

わたしたちは「希望」という言葉で、少しつまずいているのかもしれません。 日ごろ使う「望み」は、どこか心もとない願いです。「雨が降らないといいな」「あの仕事が決まるといいな」。そこには不確かさがにじみ、結果はまだ宙に浮いたままです。 けれども聖書の言う希望は、投げたコインの裏表ではありません。それは錨です。 希望を表すギリシア語は (エルピス) ἐλπίς です。「たぶん」という意味ではありません。...

心の目を守る

使徒パウロは、エペソの信徒たちのために深い祈りをささげました。知恵と啓示との霊を受けるようにと願ったのです。そして、その霊的な知恵がどのように働くのかを、はっきりと言い表しました。それは、心の目が明るくされるときに起こる、と。 原文のギリシア語で「心」にあたる語は (ディアノイア) διάνοια — 「理解力、思い、想像」です。「明るくされる」にあたる語は (フォーティゾー) φωτίζω —...

喜びは、どこへ向かうか

踊ることは本能です。喜びを表すようにと神が造られたのです。ただ、その向き先と安全は大切です。 子どもに踊り方を教える必要はありません。音楽を鳴らせば、内側にあるものが自然に動きだします。 ダビデもそうでした。 「ダビデは力をきわめて、主の前に踊った」 サムエル記下 6:14 (口語訳) 喜びは、神が私たちの内に組み込んでくださったものです。けれども神は、その喜びがどこへ向かうかをも心にかけておられ...

孤独に、聖書はどう答えるか

人でいっぱいの部屋にいながら、ひとりだと感じることがあります。人の行き交うオフィス、席の埋まった礼拝堂、家族が囲む食卓。それでも、隣の席だけがぽっかり空いているように思えるのです。孤独は、まわりに何人いるかで決まるものではありません。いま自分が立っている場所と、自分が本当に知られていると感じられる場所との、その隔たりのことなのです。 聖書はこの主題を避けません。詩篇にも、預言者の書にも、主イエスの...

王の証印の下に

聖書において、油はただの調味料ではありません。それは聖霊と、その力を指し示すしるしです。 ヤコブの手紙には、病んでいる人に油を注いで祈る場面があります。癒すのは油そのものではありません。その油が指し示している、御霊の力です。 けれども御霊は、癒すだけのお方ではありません。守ってくださるお方でもあります。聖書はこう語ります。 「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救...

神はわたしに失望しているのか

また、やってしまいました。そのとき真っ先に心をよぎったのは、失敗そのもののことではありませんでした。神のことでした。「きっと、神はわたしに失望しておられる」。 この一言は、信じる者なら誰しも、どこかの時点で胸の奥に抱えるものです。無神論者の堂々とした反論でもなく、神学者の議論でもありません。声に出さず、ひとりでしまい込んでおく恐れ——自分を救ってくださったその神が、今は自分を見て首を横に振っておら...

からだは神の宮

敵の手口は、いつも決まっています。まず人を孤立させ、やがてその人自身の手で自分を損なわせるのです。マルコによる福音書五章は、ガダラ人の地で、墓場に住みついた一人の人の姿を伝えています。 「そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。」 マルコによる福音書 5:5 (口語訳) この人の状態には、三つのしるしがありました。ひとつは、人から離れて孤立していたこと。ひとつ...

みことばの畑を守る

旧約の時代、イスラエルの敵は収穫の時を待ち構えていました。作物が実ると、ミデアンびとが押し寄せて食糧を奪っていったのです。ギデオンが夜、酒ぶねの中で麦を打たなければならなかったのも、ただそれを隠すためでした。 ダビデには、自分たちの食糧を敵に渡すまいとした勇士たちがいました。その一人、シャンマという人は、レンズ豆の畑のただ中に立ちました。 「しかし彼はその地所の中に立って、これを防ぎ、ペリシテびと...

父がなさるのを見て

主イエスは、地上のご生涯を手さぐりで歩まれたのではありません。人間的な戦略や、ご自分の野心に頼られたのでもありません。主が生きておられたのは、ひとつの単純で力ある原則でした。父がしておられるのを見て、そのとおりになさる。ベテスダの池のほとりに立たれたとき、そこには大勢の病人が横たわっていました。それなのに主は、その群れの間を通り過ぎ、ただひとりの動けない人に声をおかけになったのです。その人を癒され...

悪魔が省いた一語

ヨルダン川で、父なる神がイエスを「わたしの愛する子」と呼ばれた、そのすぐあとのことでした。イエスは荒野に導かれ、悪魔が試みるために近づいてきます。表向きは、飢えのこと、力のことのように見えます。けれども戦いの芯にあったのは、「あなたは何者か」という問いでした。 悪魔が使った言葉を、よく見てみてください。 「すると試みる者がきて言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じ...

聖書が語る恐れ — 自由にする七つの真理

医者はパニック発作に薬を処方できます。カウンセラーは、思考の枠組みを組み替える術を教えてくれます。けれども聖書は、そのどちらにもできないことをします。恐れがどこから来たのか、だれがそれを打ち破ったのか、そしてなぜそれがもはやあなたの人生に立ち入る権利を持たないのかを、はっきり告げるのです。 恐れは、神が聖書の中で最も繰り返し語られた主題です。「恐れるな」という言葉は、聖書に三百六十五回以上出てきま...