レンズ豆の畑に立つ

ダビデには三十七人の勇士がいました。その名は、サムエル記下の終わりに、戦没者の碑のように並べられています。城門の攻防や、燃え上がる塔の物語を期待するところです。

ところが、そこに記されているのはこれです。

「彼の次はハラルびとアゲの子シャンマであった。ペリシテびとが一団となって集まったところに、レンズ豆の茂った地所があった。民はペリシテびとの前から逃げた。しかし彼はその畑の真ん中に身を置き、これを守って、ペリシテびとを殺した。こうして主は大いなる勝利を得させられた。」 サムエル記下 23:11-12 (NKJV より私訳)

レンズ豆です。ヘブライ語で (adashim) עֲדָשִׁים — 「レンズ豆」。この地方でいちばん安い食べ物、貧しい者の煮物です。エサウは、この一杯と引き換えに長子の権を売りました。

ほかの者たちは、その小さな畑を眺め、もっともな計算をしました。実りはわずか、敵は大軍。答えは見えています。彼らは逃げました。

シャンマは、畑の真ん中まで歩いて行き、そこで足を止めました。

彼の友エレアザルも、その前の日に、同じようなことをしていました。

「彼は立ってペリシテびとを撃ち、ついに手が疲れ、手はつるぎに着いたままになった。その日、主は大いなる勝利を得させられた。」 サムエル記下 23:10 (NKJV より私訳)

手がつるぎに着いたままになった。握り続けているうちに、放すことができなくなったのです。

この人たちは、名高い戦いで勇士になったのではありません。自分たちの食べ物を渡すまいとして、勇士になったのです。

あなたの畑はレンズ豆ではありません。だれも予定に入れてくれず、だれも守ってくれない、聖書を開いて過ごす三十分です。小さく見えます。山積みの用事に比べれば、何も生み出していないように見えます。今週のあらゆる事情が、退くための理由をもっともらしく差し出してくるでしょう。

パウロも、同じ構えと同じ武器を語りました。

「それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。」 エペソ人への手紙 6:13 (口語訳)

パウロはこの節を (stēnai) στῆναι — 「立つ」で結び、次の節を (stēte) στῆτε — 「立ちなさい」で始めます。口語訳では、十三節が「堅く立ちうるために」と訳され、十四節が「すなわち、立って」と受けています。そして、武器の名が挙げられます。(machaira) μάχαιρα — 「つるぎ」、御霊のつるぎ、すなわち神の言葉です。同じ畑、同じ武器、そして同じ、一歩も動かないという構えです。

その地を耕したのはあなたです。水をやったのもあなたです。朝が騒がしくなったからといって、明け渡してはなりません。

勇士は、名高い戦いで生まれるのではありません。だれも守る値打ちを認めなかった小さな畑で生まれるのです。

持っている人は、何を持っているのか

マタイによる福音書13章で、弟子たちは主イエスに、なぜ群衆には譬で話されるのかと尋ねます。その答えの中に、言葉がひとつ抜け落ちたような一文があります。

「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」 マタイによる福音書 13:12 (口語訳)

持っている人とは、何を持っている人なのでしょう。お金でしょうか。才能でしょうか。マタイは書いていません。主イエスはそこを開いたままにしておられます。読む者は問いを立てることもなく、つい読み過ごしてしまいます。

答えはほかの福音書にあります。種まきの譬は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に記されています。三人の書き手は、それぞれほかの二人が省いた言葉を書き留めました。三つの記事を並べてみると、欠けていた言葉が浮かび上がってきます。

マルコは「何を聞くか」を記す

「聞く耳のある者は聞くがよい」。また彼らに言われた、「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。」 マルコによる福音書 4:23-24 (口語訳)

マルコが重きを置くのは、聞く内容です。耳に何を入れるかが大切なのは、言葉がみな同じ力を持っているわけではないからです。人の意見やニュースの見出しにも、役に立つものはあるでしょう。しかしそのどちらも、神の言が生み出すものを生み出すことはできません。

「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」 ローマ人への手紙 10:17 (口語訳)

信仰が湧き出る泉はひとつです。まず問われるのは、そもそも自分が神の言を聞いているかどうかです。

ルカは「どう聞くか」を記す

「だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるであろう」。 ルカによる福音書 8:18 (口語訳)

ルカが重きを置くのは、聞く姿勢です。そしてルカは、それを先ほどの欠けた言葉と結びつけています。口語訳には表れていませんが、「持っている人は」の前には、原文で (gar) γάρ — 「なぜなら」 という小さな語が置かれています。「どう聞くかに注意しなさい。なぜなら、持っている人は……」。この一語が二つの文をつないでいます。持っているかどうかは、聞き方にかかっているのです。

持っている人とは、聞く心を持っている人です。 御言を聞きたいと願い、悟りたいと願う人です。その人に、更に与えられます。

二つの文は、どちらも主イエスが語られたものです。マルコは前半を、ルカは後半を書き留めました。原文では、マルコ 4:24 は (ti) τί — 「何を」、ルカ 8:18 は (pōs) πῶς — 「どのように」 となっています。口語訳もこの違いを「聞くことがらに注意しなさい」「どう聞くかに注意するがよい」と訳し分けています。二つを合わせると、教えの全体が見えてきます。何を聞くかに注意し、どう聞くかに注意しなさい、ということです。

両方が欠かせない

正しいものを、誤った聞き方で聞くことがあります。ある人は礼拝の席で膝の上に聖書を開きながら、手元では仕事のメールに返信しています。御言は耳には届いています。けれども心には届いていません。

誤ったものを、飢え渇くように聞くこともあります。ある人は、最後に聖句がひとつ添えられただけの自己啓発の話に、何時間も耳を傾けています。心は開かれています。けれども、そこに種がありません。

主イエスは良い地をこう説明されました。

「良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。」 ルカによる福音書 8:15 (口語訳)

どの地に落ちたのも、同じ種でした。違っていたのは、それを受けとめた心です。

ソロモンが求めたもの

神が若いソロモンに、何でも求めよと言われたとき、ソロモンが願ったのはただひとつでした。

「それゆえ、聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください。」 列王紀上 3:9 (NKJV より私訳)

「聞きわける心」と訳された言葉は (lev shomea) לֵב שֹׁמֵעַ — 「聞く心」 です。ソロモンが求めたのは、耳を傾ける心でした。神は彼に、それまでのどの王も持たなかった知恵をお与えになりました。持っている人に、更に与えられたのです。

ルカは、マタイにない言葉をひとつ添えています。「持っていると思っているもの」です。ここで用いられている (dokei) δοκεῖ — 「思われる、見える」 は、本人がそう思い込んでいることも、周りの目にそう映ることも含む語です。何年も説教を聞き続け、いかにも御言を手にしているように見える人がいます。けれども聞く心がなければ、持っているつもりのものは、指の間からこぼれ落ちていきます。

ソロモンが求めたものを、あなたも神に求めることができます。聖書を開く前に、説教の再生ボタンを押す前に、二つのことを確かめてください。これは神の言だろうか。わたしはそれを受けとめるつもりで聞いているだろうか。そして祈ってください。「主よ、わたしに聞く心をお与えください」。

群衆はみな、同じ神の言を聞いていました。けれども更に豊かに与えられたのは、それを受けとめようとして来た人たちです。

カイロスの意味とは?時計では測れない神の時

多くの人は時計に従って生きています。時間、締め切り、カレンダー。そうやって人生を測っています。けれども聖書は、時について別の言葉を使います。壁にかかった時計とは、何の関係もない言葉です。

その言葉が (カイロス) καιρός — 「定められた、恵みにかなった時」です。この一語を知ると、新約聖書のおもだった約束の読み方が変わります。

カイロスは分を数えません。時を刻むのではなく、時を告げます。神が整えられた好機、ふさわしい時とふさわしい場所が出会う瞬間、それがカイロスです。マルコによる福音書 1:15 の「時は満ちた」、ガラテヤ人への手紙 4:4 の「時の満ちるに及んで」、コリント人への第二の手紙 6:2 の「今は恵みの時」。その背後にあるのが、この言葉です。

ある祈りはすぐに答えられ、ある祈りは何年もかかる。そのわけを不思議に思ったことがあるなら、答えはしばしば、このギリシャ語一語のうちにあります。

この記事では、カイロスをギリシャ語の原意からたどり、クロノスと対比し、この語が現れる主要な聖句を歩き、そして神のタイミングがなぜ常に恵みのわざであって、決して罰ではないのかを見ていきます。


カイロス——ギリシャ語のことば研究

ギリシャ語の (カイロス) καιρός — 「定めの時、好機」は、ストロング番号 G2540 の語です。セイヤーのギリシャ語辞典は「定められた一定の期間。好機となる時、季節にかなった時、ちょうどよい時」と定義します。別の語義研究では「機会としての時、ふさわしい時、まさにその瞬間、恵まれた時」と説明されています。

これは中立的な時間ではありません。カイロスには質があります。神のご計画がぎっしり詰まった季節、神がちょうどよい瞬間に開かれる窓を指す言葉です。

この語は新約聖書に八十回以上現れます。主イエスの教えに、パウロの手紙に、ペテロの説教に、そしてヘブライ語の対応語を通して旧約の預言のことばにも顔を出します。そのほとんどの場合、文脈は好意的です。神が働かれる季節、開かれた機会の戸、刈り入れの時です。

主イエスが公の働きを始められたとき、まさにこの語を用いられました。

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」
マルコによる福音書 1:15 (口語訳)

ここで「時」と訳されているのがカイロスです。主は「時計が何時になった」と言われたのではありません。「神が定められた、恵みにかなった季節が来た」と言われたのです。神の国は人の予定表では動きません。カイロスによって動きます。


クロノスとカイロス——二種類の時

新約聖書は「時」を表すのに二つの異なるギリシャ語を用います。その違いを知ると、聖書の大きな原則がひとつ開かれます。

クロノス——時計の時

(クロノス) χρόνος — 「測られる時間」はストロング番号 G5550。「クロノロジー(年代順)」「クロノメーター(精密時計)」といった語のもとになった言葉です。秒、分、時間、日と、順に測られる時間を指します。数えられる時、腕時計で追える時、中で何が起ころうと一定の速さで進んでいく時です。

クロノスは量としての時。答えるのは「どれくらい長いか」という問いです。

カイロス——定めの時

カイロスは質としての時。答えるのは「これはどんな瞬間か」という問いです。

カイロスは何分過ぎたかを気にしません。その季節がどういう性質を帯びているかを示します。農夫はカレンダーの日付で刈り入れをするのではありません。実が熟したときに刈り取ります。その「熟した瞬間」がカイロスです。

クロノスの中で二十年を過ごすこともあります。待ち、祈り、約束を握って神に信頼する年月です。そしてただ一度のカイロスに、約束が形をとります。アブラハムとサラはイサクのためにおよそ二十年待ちました。けれども神のカイロスが訪れたとき、約束は現れたのです。

「約束の言葉はこうである、『この時に、わたしは来る。そして、サラに男の子が与えられるであろう』」
ローマ人への手紙 9:9 (NKJV より私訳)

「この時に」がカイロスです。クロノスの二十年、カイロスの一瞬。そこに奇跡が現れました。

この区別は、主イエスが弟子たちに言われた次の言葉も照らします。

「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない」
使徒行伝 1:7 (口語訳)

ここで「時期」と訳されているのがクロノス、「場合」がカイロスです。主はこう言われたのです。時計も、定めの瞬間も、父の御手のうちにある。どちらもあなたが管理する必要はありません。あなたの務めは、聖霊を受け、その証人となることです。


ヘブライ語の対応語——エト

旧約聖書はヘブライ語で書かれました。カイロスに対応するヘブライ語が (エト) עֵת — 「定めの時、季節」です。カイロスと同じく、定められた時、ふさわしい季節、恵まれた瞬間を指します。

伝道の書 3:1 が用いているのが、この語です。

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」
伝道の書 3:1 (口語訳)

ここで「時」と訳されているのがエトです。ソロモンは、人生は行き当たりばったりだとは言いませんでした。すべての出来事には定められた季節がある、と言ったのです。偶然に見えるものの背後に、神の配剤があるということです。

エトとカイロスのつながりは、伝道の書 9:11 ではっきりします。

「わたしはまた日の下を見たが、必ずしも速い者が競走に勝つのではなく、強い者が戦いに勝つのでもない。また賢い者がパンを得るのでもなく、さとき者が富を得るのでもない。また知識ある者が恵みを得るのでもない。しかし時と機会はすべての人に臨む」
伝道の書 9:11 (口語訳)

ここで「時」と訳されているのがエトです。旧約のギリシャ語訳である七十人訳では、この同じ語がカイロスと訳されています。そして「機会」に重ねて用いられているのが (カーラー) קָרָה — 「行き当たる、めぐり合わせる」。これは気まぐれな幸運ではありません。神が整えられた出来事、ふさわしい場所でのふさわしい出会いを意味します。

ソロモンの観察は明快です。人生で勝つのは、いつも一番速い者、一番強い者、一番賢い者とはかぎらない。勝つのは、ちょうどよい時にちょうどよい場所にいた者であり、それを整えられるのは神だけです。

もうひとつ、覚えておきたいヘブライ語があります。(モーエード) מוֹעֵד — 「定められた会合、祭り、指定された時」です。レビ記 23 章でイスラエルの祭りに用いられている語です。神のカレンダーは気ままではありません。どの祭りもモーエード、神とその民との約束された出会いでした。そしてそのひとつひとつが主イエスを指し示し、それぞれのカイロスにおいて正確に成就したのです。


カイロスが用いられる七つの重要な聖句

1. マルコによる福音書 1:15——時は満ちた

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」
マルコによる福音書 1:15 (口語訳)

主イエスは、神の国のカイロスが到来したと告げられました。マラキとマタイのあいだに横たわる四百年の預言の沈黙はクロノスでした。主が公の働きに踏み出されたその瞬間がカイロスでした。天は創世記 3:15 以来、この瞬間を準備してこられたのです。

2. ガラテヤ人への手紙 4:4——時の満ちるに及んで

「しかし時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった」
ガラテヤ人への手紙 4:4 (口語訳)

ここで「時」と訳されている語はクロノスですが、「時の満ちるに及んで」という表現が運んでいるのはカイロスの思想です。神はすべての条件が整うまで待たれました。福音が旅するためのローマの街道、聖書が広がるためのギリシャ語、パウロがどの町でも語れるようにするユダヤ人の会堂制度。神は早すぎることも遅すぎることもありません。御子を最善の瞬間に遣わされたのです。

3. 伝道の書 3:11——その時にかなって美しい

「神のなされることは、皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」
伝道の書 3:11 (口語訳)

「時」はエト、七十人訳ではカイロスです。神は物事をただ良くされるのではありません。美しくされます。そしてその美しさは、時と結びついています。早すぎる収穫は酸っぱい実を生み、カイロスの収穫は甘い実を生みます。神の遅れは拒絶ではありません。それは、神が何かを美しく仕上げてくださる過程なのです。

4. コリント人への第二の手紙 6:2——今は恵みの時

「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」
コリント人への第二の手紙 6:2 (口語訳)

ここで「時」はカイロス、「恵みの」にあたるのが (デクトス) δεκτός — 「受け入れられる、喜ばれる」です。セイヤーはこの語を「神の惜しみない恵みが豊かにあふれる時」と説明します。中立的な季節ではありません。神の恵みがあふれ、神が好意をもって聞かれ、願いをかなえてくださる季節です。パウロは、そのカイロスは「今」だと言います。私たちが生きているこの恵みの時代全体のことです。これについてはのちほどさらに見ていきます。

5. 使徒行伝 3:19-20——慰めの時

「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。それによって、主のみ前から慰めの時がきて」
使徒行伝 3:19-20 (口語訳)

「時」はカイロスです。ペテロはユダヤ人の群衆に、悔い改めは主のみ前から来る慰めのカイロスへとつながると約束しました。これは一度きりの出来事ではありません。繰り返し与えられる経験、神の臨在が民を生き返らせ、回復させ、新しくする季節です。

6. ガラテヤ人への手紙 6:9——時が来れば

「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」
ガラテヤ人への手紙 6:9 (口語訳)

「時が来れば」の「時」がカイロスです。カイロスが来れば、刈り入れが来ます。命じられていることは単純です。あきらめないこと。手を止めないこと。クロノスの遅れをカイロスの拒絶と取り違えないこと。あなたの刈り取りの季節は前にあり、神の定めの瞬間に必ず訪れます。

7. ルカによる福音書 4:19——主のめぐみの年

「主のめぐみの年を告げ知らせるのである」
ルカによる福音書 4:19 (口語訳)

主イエスは、故郷の会堂でイザヤ書 61 章のこの箇所を読まれました。「めぐみの」にあたるのがデクトス、パウロがコリント人への第二の手紙 6:2 で用いたのと同じ語です。主は、神の恵みがあふれる季節を告げるために来たと宣言されました。そして巻物を閉じられたのです。イザヤの原文は「われわれの神の報復の日」と続きますが(イザヤ書 61:2)、主はその手前で読むのをやめられました。恵みの時代、すなわち私たちの今この時代こそ、めぐみの年です。報復の日は、まだ来ていません。


聖書に最初に現れるエト

聖書研究には「初出の法則」と呼ばれる原則があります。ある語が聖書に最初に現れる箇所は、その語が聖書全体で持つ意味の土台を明かしていることが多い、というものです。

ヘブライ語のエトが最初に現れるのは、創世記 8:11 です。

「はとは夕方になって彼のもとに帰ってきた。見ると、そのくちばしには、オリブの若葉があった。ノアは水が地から引いたのを知った」
創世記 8:11 (口語訳)

「夕方になって」という言い回しにエトが含まれています。そして、この初出の場面には三つの細部が寄り添っています。

  1. はと。 聖書を通して、はとは一貫して聖霊の象徴です。主イエスのバプテスマのとき、御霊は「はとのように」下られました(マタイによる福音書 3:16)。
  2. オリブの若葉。 オリブの木は油を生みます。油は聖霊の油そそぎと平和の象徴です。
  3. さばきが過ぎ去ったしるし。 箱舟はアララテの山にとどまりました。アララテという語はヘブライ語の語根 (アーラル) אָרַר — 「のろう」から来ています。ゆえにアララテは「のろいが覆された」という響きを帯びています。さばきの大水は引き、新しいいのちが前に広がっていました。

意味するところは明らかです。聖書で「恵みにかなった時」が最初に現れるとき、それは聖霊(はと)と、平和(オリブの若葉)と、さばきの反転(引いた水)に結びついているのです。あなたの人生のカイロスにも、同じしるしが伴います。聖霊の導き、神の御手を確かめさせる平安、そして十字架によってのろいがすでに覆されたという確かな証拠です。

さらに言えば、カイロスはさばきが過ぎ去った「のち」にはじめて開かれました。同じように、今日の私たちのカイロスも、主イエスの完成されたみわざから流れ出ます。さばきは十字架で主の上に落ちました。のろいは復活で覆されました。そして今、復活の地に立つ私たちのために、聖霊がふさわしい時とふさわしい場所を整えてくださるのです。


カイロスと恵み——恵みの時

カイロスと恵みのつながりは、付け足しではありません。骨組みそのものです。

コリント人への第二の手紙 6:2 で、パウロはイザヤ書 49:8 を引用し、そこに自分の宣言を重ねます。

「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」
コリント人への第二の手紙 6:2 (口語訳)

「恵みの」にあたる語がデクトスです。セイヤーはこれを「受け入れられた、受け入れうる、喜ばれる」と定義し、とりわけルカによる福音書 4:19 の用法を「神の惜しみない恵みが豊かにあふれる年」と注記しています。つまり「恵みの時」とは、神がしぶしぶ我慢してくださる時ではありません。値なしの恵みが、せき止められることなく流れる季節なのです。

パウロは、この恵みあふれるカイロスは今だと言います。「今」を意味するギリシャ語 (ニュン) νῦν — 「今、ちょうどこの時」は、まさに現在この瞬間を強調します。イザヤが未来の季節として預言したことを、パウロは現在の事実として宣言しているのです。神の恵みの季節が始まるのを待つ必要はありません。あなたはすでにその中にいます。

ここには実際的な結論が伴います。聖書でカーラー(ふさわしい出会い、しあわせ)が最初に現れるのは創世記 24:12、アブラハムのしもべの祈りです。

「主人アブラハムの神、主よ、どうか、きょう、わたしにしあわせを授け、主人アブラハムに恵みを施してください」
創世記 24:12 (口語訳)

「しあわせ」がカーラー、「恵み」が (ヘセド) חֶסֶד — 「契約の愛、あわれみ、恵み」です。聖書で「ふさわしい出会い」が初めて現れるその場所で、それは恵みと肩を並べています。カイロスを神の一方的な恵みから切り離すことはできません。ちょうどよい時、ちょうどよい場所を受け取る道は恵みだけであって、個人の賢さでも、経歴の戦略でも、成果でもないのです。

だからこそ、カイロスを妨げる唯一の方法は、それを自分で勝ち取ろうとすることです。ガラテヤ人への手紙 2:21 は、自分の努力が神の恵みを無にすると警告します。恵みが値なしに、受けるに値しない者に与えられるものであるなら、それをふさぐ唯一の道は、値するようになろうと試みることなのです。努力が死ぬとき、恵みが流れます。キリストの成し遂げられたみわざに憩うとき、あなたは神だけが整えうるものを受け取る場所に立ちます。


聖霊はどのようにカイロスを整えられるか

創世記 8:11 に最初に現れるエトは、恵みの時をはと、すなわち聖霊の象徴と結びつけていました。これは飾りではありません。教えです。

カイロスを人の手で作り出すことはできません。知恵や戦略や頑張りだけで、ちょうどよい時にちょうどよい場所に自分を置くことはできないのです。伝道の書 9:11 が言うとおり、速い者が競走に勝つとはかぎらず、強い者が戦いに勝つともかぎりません。

ふさわしい人に出会い、ふさわしい言葉を聞き、ふさわしい戸をくぐる。それをまさにその瞬間に起こせるのは、聖霊だけです。ルツの物語を思い出してください。

「ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズに属する畑の部分にきた」
ルツ記 2:3 (口語訳)

「はからずも」と訳されている箇所に、ヘブライ語のカーラーが、名詞と動詞の両方で一節のうちに二度用いられています。ルツはその畑が誰のものか知りませんでした。ボアズについて前もって調べたわけでもありません。彼女はただナオミにこう言っただけです。「わたしを畑に行かせてください。だれかご親切な方が見当るならば、わたしはその方のあとについて落ち穂を拾います」(ルツ記 2:2、口語訳)。原文では「その目に恵み(ヘーン)を見いだす方」とあり、口語訳はこれを「ご親切な方」と訳しています。畑に足を踏み入れる前に、彼女はすでに恵みを口にしていたのです。

そして「はからずも」たどり着いたのが、ベツレヘム一の富める人の畑でした。その人が彼女の買いもどしの権利ある親族となり、主イエス・キリストの直系の先祖となったのです。私たちが偶然と呼ぶものを、ヘブライ語の本文は神の整えられた出会いと呼びます。聖霊は、彼女が気づかぬうちにその歩みを導いておられました。

同じ型は聖書のいたるところに繰り返されます。アブラハムのしもべはカーラーを祈り、祈り終わらぬうちに井戸のかたわらでリベカに出会いました(創世記 24:15)。ヨセフは奴隷に売られましたが、神は彼をちょうどよい時にちょうどよい獄につかせ、パロの夢を解き明かして諸国を救わせられました。エステルは「このような時のため」に王宮に置かれました。エステル記 4:14 の「時」もエトです。

聖霊は、あなたが十分に賢くなるのを、十分に戦略的になるのを待ってはおられません。あなたの先を行き、曲がった所をまっすぐにしてくださいます。あなたの務めは単純です。御霊のそば近くにとどまり、み言葉のうちにとどまり、時と機会をあなたに臨ませてくださるのはこの方だと信頼することです。


今日のあなたにとってのカイロス

待つ季節にいるなら、カイロスはあなたに約束を差し出します。神は遅れません。あなたのクロノスは長く感じられるかもしれませんが、あなたのカイロスはすでに用意されています。アブラハムは二十年待ちました。ヨセフは奴隷と獄で十三年待ちました。主イエスご自身も、公の働きを始められるまで三十年待たれました。そのクロノスは、ひとつも無駄ではありませんでした。すべては、世界を変えたカイロスへの備えだったのです。

迷いの季節にいるなら、カイロスはあなたに羅針盤を差し出します。ちょうどよい時とちょうどよい場所を、自分の手で組み立てようとするのをやめること。それはもともとあなたの仕事ではありませんでした。聖霊の仕事です。あなたの仕事は、マリヤがしたただ一つのこと。主イエスの足もとにすわり、そのみ言葉を受けることです。主はマルタに、多くのことに心を配って思いわずらっているが、必要なことはただ一つだと言われました(ルカによる福音書 10:41-42)。そのただ一つ、み言葉と過ごす時間こそ、あなたをカイロスへと据えるものです。

刈り入れの季節にいるなら、カイロスはあなたにひとつの見方を差し出します。それを見分けることです。突破口を運や才能や人脈のおかげにしないでください。それを整えられた方に栄光を帰してください。伝道の書 9:11 には、ヘブライ語のアレフ・タヴ(את)という署名が置かれています。ヘブライ語アルファベットの最初と最後の文字であり、主イエスがご自身のこととして宣言されたものです。「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(ヨハネの黙示録 22:13、口語訳)。主イエスご自身が、あなたのちょうどよい時とちょうどよい場所の作者なのです。

カイロスは、神の御性質についてこう教えます。神のタイミングは決して罰ではありません。それはいつも恵みのわざです。エトという語は、さばきが過ぎ去ったあとに初めて現れました。デクトスという語は、神の惜しみない恵みが豊かにあふれる季節を描きます。待つ時が長く感じられるときでさえ、神はあなたに出し惜しみをなさいません。神のなされることは、皆その時にかなって美しいのです(伝道の書 3:11)。

あなたは予定表を知る必要はありません。予定を立てておられる方を知れば足ります。そしてその方はあなたを愛し、すでにあなたの祈りを聞いておられ、今この瞬間、まさにこのカイロスのうちに、万事を益となるように、あなたのために働いておられます。

問われていたのは、神が間に合うかどうかではありませんでした。問われているのは、その時が来たとき、あなたがそれに気づくかどうかです。

変わる時代、変わらぬ岩

世界は目まぐるしく変わります。技術も、伝える手段も、文化も、世代ごとに姿を変えていきます。残念なことに、教会はその変化に恐れをもって応じてしまうことが少なくありません。新しい道具にはすぐ「危ないもの」という札を貼り、慣れ親しんだ伝統の中へ引きこもる。けれどもその後退は、教会を世から切り離し、福音を伝える力をみずから狭めてしまいます。私たちは、メッセージを損なわずに方法を変える道を学ばなければなりません。

時代に合わせて装いを整えながら、なお岩なるお方につながれていること。それが私たちの姿勢です。

福音のメッセージは決して変わりません。イエス・キリストの死と葬りと復活は、永遠に立ち続ける真理です。

「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」
ヘブル人への手紙 13:8 (口語訳)

土台が揺るがないからこそ、新しい技術を恐れる必要はありません。伝えるために用いる道具そのものが、悪であるわけではないのです。テレビも、インターネットも、ソーシャルメディアも、現代の音楽も、要するに運ぶための器にすぎません。教会がその場所を手放すなら、そこはまるごと世の手に委ねられてしまいます。

パウロは、合わせることの必要をよく知っていました。語る相手によって近づき方を変えながら、語る中身は少しも揺るがなかったのです。

「すべての人に対しては、すべてのものになった。なんとかして幾人かを救うためである。」
コリント人への第一の手紙 9:22 (口語訳)

ライト兄弟が飛行機を造ったとき、それは敵のための道具として生まれたのではありません。福音を地の果てまで運びうる翼が与えられたのです。ダビデが琴をかき鳴らしたとき、彼はその時代の楽器を手に取り、巧みに神をほめたたえました。今を生きる私たちも、同じ心で立ちたいのです。

現代の文化から自分を閉ざすとき、私たちは影響力を失います。悪魔は、教会を「もう関係のないもの」「退屈なもの」に見せたがっています。信仰など博物館の陳列棚に収めておけばよい、と人々に思わせたいのです。けれども、創造性そのものの源は神です。巧みな発明も、思いがけない着想も、神の手から出てきます。

現代のメディアを拒むなら、私たちはその領域を敵に明け渡すことになります。取り戻さなければなりません。優れたものを生み出し、今の技術を用い、この世代の言葉で語るのです。十字架を薄めるのではありません。十字架を、現代の人々の目に見えるところへ掲げるのです。

恐れのために、古びた手法に縛られたままでいないでください。足は聖書の真理の上にしっかりと据えたまま、手は世界に届く新しい道を築くために動かしていきましょう。

メッセージという錨は決して変えず、方法という帆は絶えず張り替えていくのです。

それでも、子どもに御言を届けましょう

ある父親が、九歳の息子の隣に腰を下ろします。息子は大好きなテレビ番組に見入っています。決められたテレビの時間なので、父親はテレビを消しません。

父親は聖書を開き、マタイによる福音書4章、荒野での試みの場面を息子に見せます。悪魔が口を開くたびに、イエスは同じ言葉で答えられます。「……と書いてある」。

「すると試みる者がきて言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい』。イエスは答えて言われた、『「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と書いてある』。」 マタイによる福音書 4:3-4 (口語訳)

父親は小さな一語を指さします。悪魔は「もし」と言ったのです。原文のギリシア語では (エイ) εἰ — 「もし」。父親は息子に言います。「『もし』は疑いなんだよ」。そこで話を終えます。全部で数分のことでした。

少年の目は聖書から父親へ、そしてまたテレビへと戻ります。質問はありません。うなずきもしません。目に見える限り、この話は空振りに終わったように思えました。

翌日、家族は用事を済ませに出かけます。新型コロナウイルスが広がっていた時期で、ニュースはウイルスが空気感染すると伝えていました。父親が「もし」で始まる何かを口にします。すると後部座席から、息子の声がしました。

「アバ、『もし』は疑いだよ。主が守ってくださるよ」

テレビを見ていた少年は、一言残らず聞いていたのです。覚えていただけではありません。それを現実の場面に当てはめ、しかもわずか一日後に、自分の父親を正したのです。

退屈そうな顔は、閉じた心ではありません

多くの親は子どもの表情を読んで、この子は受け取っていないと判断します。ぼんやりした目。画面へちらりと向く視線。肩をすくめるしぐさ。そこで、もっとよい時を待とうとします。子どもが興味を示してくれそうな時を。けれども多くの子どもにとって、その時は決して訪れず、親は御言葉を分かち合わないまま終わってしまいます。

子どもは、見せている以上のものを受け取っていることがよくあります。幼い頃、教会で神がすぐ近くにおられると感じた瞬間を覚えている大人は少なくありません。それを言い表す言葉は持っていませんでした。誰にも話さず、親もそんなことがあったとは知らずにいたのです。

長く、まれにより、短く、たびたび

モーセは親たちに、講義の予定を組みなさいとは言いませんでした。日々のありふれた時の中で、神の言葉を語りなさいと言ったのです。

「きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。」 申命記 6:6-7 (口語訳)

「家に座している時も」。テレビの前のソファもそこに含まれます。「道を歩く時も」。店へ向かう車の中も含まれます。この話の父親は、番組を消したり、家族会議を開いたりはしませんでした。一つの聖句と一つの気づきを分かち合い、息子を番組へ戻してやっただけです。

短い言葉には、子どもに語るときの強みがあります。ちょうど収まるのです。九歳の子でも、「『もし』は疑い」なら一日じゅう頭に入れて持ち歩けます。四十分の説教を持ち歩くことはありません。

働くのは種です

イエスは、種をまいて床につく人のことを語られました。

「また言われた、『神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。』」 マルコによる福音書 4:26-27 (口語訳)

種をまく人は、根の様子を確かめようと一時間ごとに畑を掘り返したりはしません。まいて、眠り、起きる。そのあいだに種は育ちます。親も同じようにできます。あなたの役目は、御言葉を子どもの前に置くことです。それを育てるのは、あなたの説得ではありません。御言葉は、それ自体のいのちを宿しているのです。

パウロはテモテに、彼の信仰がどこから始まったのかを思い起こさせました。

「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。」 テモテへの第二の手紙 3:15 (口語訳)

同じ手紙の初めのほうで、パウロはその聖書をテモテの前に置いた人々の名を挙げています。祖母ロイスと母ユニケです。二人が読んで聞かせるあいだに、幼いテモテが何度よそ見をしたかは、誰も書き残していません。

見限らないでください

始める前からあきらめてしまう親もいます。「うちの子は興味がないから」「どうせ呆れた顔をされるだけ」。そうかもしれません。それでも聖句を分かち合ってください。「今日、聖書でおもしろいことを見つけたんだ」と切り出して、二言三言で伝えればよいのです。

実りは翌日に返ってくるかもしれません。あの車の中のように。あるいは何年も後、子どもが初めて一人で祈り、父なる方が耳を傾けておられると気づくときに返ってくるかもしれません。いずれにしても、それはありふれた午後にあなたがまいたものから育つのです。

子どもはテレビを見ながらでも、聖書の言葉を聞いています。ですから、その言葉を語りましょう。

目と耳の門を守る

朝6時40分、ひとりの女性が目を覚まし、足が床に触れるより先にスマートフォンへ手を伸ばします。朝食の頃には、四十件の投稿と、新しいウイルスについての見出しを二つ、そして見知らぬ誰かの政治をめぐる言い争いまで読み終えています。聖書はまだ開いていません。昼になる頃、心はずっしりと重くなっています。けれども、その理由は自分でもわかりません。

彼女の身に何かが起きたわけではありません。ただ、言葉を取り込んだだけです。それだけのことなのです。

耳は門です。目もまた、もう一つの門です。そこを通る言葉は、ひとつ残らず心の中へ入っていきます。そして心は、蓄えているものを生み出します。

「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」 箴言 4:23 (口語訳)

SNSのタイムラインは言葉でできています。ニュースもそうです。ある人は新しい家を見せびらかし、別の人は災いを予言し、また別の人は、あなたが会ったこともない誰かに腹を立てています。言葉、言葉、また言葉。それが何時間も続くうちに、じわじわと心を蝕んでいきます。人と比べる思いを生み、落胆を招き寄せます。日によっては、神の子を憂うつの淵にまで押しやることさえあります。

実は、蒔かれた種のとおりに結ばれます。同じ悪い見出しを一晩に六度も眺めて過ごしたなら、ストレスと混乱、そして次に何をすればよいのかわからないという思いが残っても、少しも不思議ではありません。

主イエスは弟子たちに、このことについて短い教えを与えておられます。

「また彼らに言われた、『聞くことに注意しなさい。』」 マルコによる福音書 4:24 (口語訳)

これは、すべてのアプリを消しなさいとか、世の中には何の問題もないふりをしなさいという意味ではありません。私たちは現実の世界に生きています。世の中の大まかな動きを知っておくのは賢明なことですし、友人の投稿をのぞくのも害はありません。危ういのは、のめり込んでしまうことです。スクロールが何時間も奪っていき、神の言には余った時間しか残らない。そこに問題があるのです。

この原則は、良い方向にも同じように働きます。パウロは、落胆が育つのと同じ道筋で、信仰もまた育つと語ります。

「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」 ローマ人への手紙 10:17 (口語訳)

あなたが最もよく耳にするものが、あなたが最も深く信じるものを形づくります。問われているのは、言葉が心に入ってくるかどうかではありません。誰の言葉がより大きな場所を占めているか、なのです。

ですから、数えてみてください。スマートフォンはすでに利用時間を記録しています。スクロールに三時間、聖書には四分と出ていたなら、この一週間どちらの声があなたを形づくってきたかは、火を見るより明らかです。

そのうえで、数字を変えていきましょう。朝、タイムラインを開く前に聖書を一章読む。車の中では、ニュース番組の代わりに説教を流す。同じ話題を三度目に追っている自分に気づいたら、アプリを閉じる。世の声に与えるよりも多くの時間を、神の言にささげるのです。

あなたの心は、耳と目の門から最も多く通したものを育てていきます。

いやしは贖いのうちに

十字架の上でのイエスの死を思うとき、わたしたちがまず心に浮かべるのは、罪のゆるしです。負債は支払われ、神との間は和らげられた——そのことを喜びます。これこそ、わたしたちの信仰の土台です。

けれども、十字架のみわざは、それよりもさらに満ち足りたものでした。イエスが負われたのは、わたしたちの罪だけではありません。わたしたちの病と、わたしたちの患いをも負われたのです。からだのいやしもまた、贖いの中に含まれています。

マタイによる福音書は、この結びつきをはっきりと示しています。カペナウムでイエスが病人をいやされたとき、マタイはそれをイザヤの預言の成就として書き記しました。

「夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスは言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくいやされた。これは、預言者イザヤによって『彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた』と言われた言葉が成就するためである。」 マタイによる福音書 8:16-17 (NKJV より私訳)

マタイが引いたのは、イザヤ書五十三章です。

「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」 イザヤ書 53:4-5 (口語訳)

イザヤ書 53:4 で「病」と訳されている語は (ホリー) חֳלִי — 「病、疾患」であり、「悲しみ」と訳されている語は (マクオーブ) מַכְאוֹב — 「痛み」です。心の重さを指すだけの言葉ではありません。イエスは十字架の上で、わたしたちの病と痛みを、実際にご自身の身に負われたのです。

つまり、いやしは後から付け加えられた思いつきではありません。信じる者一人ひとりにとって、すでに代価の支払われた権利なのです。病はのろいです。そしてイエスは、ご自身がのろいとなることによって、わたしたちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

多くの信者が、どこか自信のないまま、いやしを求めて祈ります。「主よ、みこころならば、いやしてください」と。けれども、自分の罪をゆるすことが神のみこころかどうかを、あなたは思い悩む必要があるでしょうか。主はすでに、その代価を払われました。同じように、あなたのからだをいやすことがみこころかどうか、迷う必要もないのです。支払いは、すでに済んでいます。

なぜいやしが遅れているように見えるのか、なぜ失うという経験を通らされるのか、いつも分かるとは限りません。けれども、わたしたちの経験が、神の言葉の真実を変えることはありません。目を注ぐべきは、成し遂げられた十字架のみわざです。イエスがすでに負ってくださったのですから、病があなたのからだにとどまる法的な権利は、もはやどこにもありません。

贖いとは、一つの法的な取引です。イエスが叫ばれた言葉 (テテレスタイ) τετέλεσται — 「完了した」は、負債が全額支払われたという宣言でした。義は満たされたのです。神が、同じ負債について二度目の支払いを求められることはありません。イエスがすでに罪の刑罰を払い、のろいの結果を——病をも含めて——引き受けてくださった以上、敵がその結果をあなたに執行することは、不法なのです。

いやしを求めて立つとき、あなたは神に何か新しいことをしてくださいと哀願しているのではありません。十字架という領収書を差し出しているのです。自分のからだに向かい、敵に向かって、代価はすでに支払われたと告げているのです。ここに、祈りにおける大胆な確信が生まれます。あなたはもう、神があわれんでくださるかもしれないと望みをつないでいるのではありません。キリストの成し遂げられたみわざという、揺るがぬ義の上に立っているのです。

イエスは、あなたの罪のゆるしのために代価を払われたのと同じ確かさで、あなたのからだのいやしのためにも十字架で代価を払ってくださいました。

賢い人が道を誤る理由

わたしたちはしばしば、学識と知恵を取り違えます。

学識とは、事実を積み上げることです。知識を蓄え、データを分析し、試験に合格する力のことです。それは確かに尊いものですが、自分の器の大きさを超えることはできません。知恵は、それとは違います。知恵とは、その知識を用いる力です。分析する頭の働きを飛び越えて、ふいに与えられる明るさのことです。

聖書は語ります。ソロモンの知恵は大学から出たものではなく、神から出たものであった、と。

「神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け、また海べの砂原のように広い心を授けられた。」列王紀上 4:29 (口語訳)

そこには、ひとつの仕組みがあります。それは頭の中にではなく、もっと深いところに置かれています。

「人の霊は主のともしびであって、心の奥深いところをことごとく探る。」箴言 20:27 (NKJV より私訳)

知恵を表すヘブライ語は (ホクマー) חָכְמָה — 「知恵、技、思慮深さ」 です。単なる物知りではなく、物事を的確に扱う腕前までを含むことばです。口語訳が「知恵」と訳し、「悟り」と訳し分けているところを、手元の聖書でぜひ確かめてみてください。

この知恵が座しているのは、内なる奥のところです。神の霊が、人の霊というともしびに火をともす。契約書に署名する前に感じるあの胸のざわめき、あるいは平安が湧いてこないという感覚。理屈が動き出すより先に語りかけてくる直感、それがそうです。

頭は損得を秤にかけることができます。けれども霊は、初めから終わりを知っています。自分の経験だけ、自分の学びだけを頼りにしなくてよいのです。古くからあり、自分の外にあり、しかも欠けのない源に、あなたはつながることができます。

内なるともしびに耳を傾けることを覚えるとき、人は当て推量をやめ、見えるようになります。

本当の洞察とは、より強く考えることではなく、より深く聴くことです。

本物のように感じます。でも本物ではありません

二時間、荒れた海に揺られたフェリーを降ります。足はコンクリートを踏んでいます。桟橋は動きません。けれども体は、そうは言いません。それから一時間ほど、地面はあなたの下で上がったり下がったりし続けます。何も動いていないのに、たしかに感じるのです。

あるいは、祭りを告げる鐘が五分間鳴り響きます。鐘つきが綱を放します。鐘は静かに垂れています。それでも、まだ聞こえます。音は空気の中ではもう止んでいます。けれども頭の中では、まだ止んでいないのです。

二つの事実が並んで座っています。あなたの実感にとって、その揺れは本物です。事実にとっては、本物ではありません。

肉とは、そういうものです。

神は、肉が「死んだように感じるだろう」とは言われません。ある場所で、ある時に、死んだと言われるのです。

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの古き人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」 ローマ人への手紙 6:6 (口語訳)

そして神は、命令をお与えになります。

「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」 ローマ人への手紙 6:11 (口語訳)

この命令の形が、あることを教えてくれます。もし肉が実感のうえで死んでいるなら、神はわざわざ「死んだと認めなさい」とは言われないはずです。言われなくても分かるからです。誰も、遺体を前にして「これは遺体だ」と数え上げたりはしません。神がこの命令をお与えになるのは、あなたの実感と神の事実とがまだ一致していないからであり、そのうえで、神の事実の側に立ちなさいと招いておられるからです。

「認むべきである」と訳された言葉は、(ロギゼステ) λογίζεσθε —「数え入れる、勘定に入れる、そう見なす」です。帳簿係の言葉です。帳簿係は残高を作り出しはしません。すでに事実であることを、書き記すだけです。

では、そのずれはどこにあるのでしょうか。あなたの霊ではありません。あなたの霊はキリストのうちにあり、キリストにあってその死は十字架で起こりました。ずれがあるのは、あなたの魂です。思い、記憶、感情。そこで桟橋はなお揺れ、そこで鐘はなお鳴っています。だからパウロは、働きがどこで進むのかを、はっきりと告げるのです。

「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ完全であるかを、わきまえ知るべきである。」 ローマ人への手紙 12:2 (口語訳)

もう一つ。肉を死んだものと認めた直後に、その感覚がかえって大きくなっても、驚かないでください。それは、勝負に負けた者が、まだ負けていないと思わせようとする、最後のあがきにすぎません。

肉が呼びかけてきたとき、その感覚と言い争ってはいけません。感情は議論に答えません。その感覚が何であるかを、そのまま名指ししてください。古い揺れを報告し続ける体、止んだ音を再生し続ける思い。そして、神が言われることを口にしてください。死んだ。キリストにある。十字架で。

あなたの足は桟橋の上にあります。揺れではなく、桟橋を信じてください。

自信のない自分に、聖書は何と言うか

ギデオンは酒ぶねの中に身を隠していました。モーセは「どうか、ほかの人を」と神に願いました。エレミヤは「わたしはまだ若い」と言いました。神に召された三人。そのだれもが、自分こそこの務めにふさわしくない人間だと思い込んでいたのです。

自信のなさは、現代に生まれた病ではありません。SNSや人事評価とともにやって来たものでもありません。それは堕落のときから人と共にありました。アダムとエバが神を避けて身を隠し、からだをおおったあの日から。生まれて初めて、自分がむき出しにされていると感じたあの日から。

聖書は、自信のなさを見て見ぬふりはしません。それに名を与え、最も偉大な人物たちの生涯の中に映し出し、そして答えを示します。自己啓発の技法によってではなく、啓示された身分によってです。自信を失っている人に対する神の応答は、いつでも「もっと自分を信じる努力をしなさい」ではありません。「あなたがすでに何者であるか、わたしが見せよう」なのです。

この記事では、自信のなさをめぐる主要な聖句をたどり、もとのヘブライ語・ギリシア語を確かめ、「自分は足りない」と感じたことのあるすべての人に聖書が差し出す、恵み中心の答えを見ていきます。


聖書のことばで見る「自信のなさ」

「自信のなさ」という一語が、聖書の訳文にそのまま並んでいるわけではありません。けれどもその中身は、旧新約を貫いて流れています。恐れ、恥、小ささ、二つに割れた心——そうしたことばに担われて。

ヘブライ語の (batach) בָּטַח は「信頼する、安んじる、拠り頼む」という意味です。聖書が安心や安全を語るとき、その根にあるのがこの語で、旧約に百回以上現れます。箴言 3:26 はこう告げます。

「主があなたの確信となり、あなたの足が捕えられないように守ってくださるからです。」
箴言 3:26 (NKJV より私訳)

ここで「確信」にあたる語は (kesel) כֶּסֶל。もともとは腰、つまりからだの力の中心を指します。絵柄は率直です。神ご自身があなたの支柱となられる。神はあなたの自信を補う添え物ではなく、自信を必要とさせない方なのです。

新約では、(parresia) παρρησία —「大胆さ、確信」— が、信じる者が神に近づく特権と結びついて繰り返し現れます。ヘブル人への手紙 10:19 です。

「それゆえ兄弟たちよ、わたしたちはイエスの血によって、大胆に聖所にはいることができます。」
ヘブル人への手紙 10:19 (NKJV より私訳)

この大胆さは、性格に根ざしていません。血に根ざしています。手柄を積み上げて生み出すものではなく、キリストの完成されたみわざによって受け取るものです。

聖書的な安心の反対語は、引っ込み思案ではありません。自分がだれのものかを知らない、その状態です。テモテへの第二の手紙 1:7 でパウロはこう書きます。

「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊である。」
テモテへの第二の手紙 1:7 (口語訳)

「臆する心」と訳された語は (deilia) δειλία。神が目の前に置かれたものから、しりごみさせる臆病さです。パウロははっきり言います。その霊はあなたの父から来たものではない、と。では父から来たものは何か。(dunamis) δύναμις ——力。(agape) ἀγάπη ——愛。(sophronismos) σωφρονισμός ——健全で、整えられ、自らを治める心。口語訳が「力と愛と慎みとの心」と訳すこの三つは、これから達成すべき基準ではなく、すでにあなたのうちに預けられている賜物です。


自信のなさと格闘した三人

ギデオン——「わたしは父の家で最も小さい者です」

神がギデオンを召されたとき、彼は戦場にいたのではありません。ミデアンびとの目を逃れ、酒ぶねの中で小麦を打っていました。そこに主の使が現れて言います。

「大勇士よ、主はあなたと共におられます。」
士師記 6:12 (口語訳)

ギデオンの返事は、即座の疑いでした。神の臨在を問い、イスラエルの敗北を並べ、そのうえで、あの忘れがたい自己評価を口にします。

「ああ主よ、わたしはどうしてイスラエルを救うことができましょうか。ごらんなさい、わたしの氏族はマナセのうちで最も弱く、わたしはまた父の家で最も小さい者です。」
士師記 6:15 (口語訳)

十二部族の中で、ギデオンはマナセの出。兄弟エフライムの影に長く隠れてきた部族です。そのマナセの氏族の中でも、彼の氏族は最も弱い。さらにその最も弱い氏族の中で、彼は最も小さい者。自分の見立てでは、彼はまさに底の底にいたのです。

神の答えは、しばしば読み違えられます。主はこう言われました。

「あなたはこのあなたの力をもって行って、イスラエルをミデアンびとの手から救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか。」
士師記 6:14 (口語訳)

「このあなたの力」とは、ギデオンがまだ気づいていない隠れた実力のことではありません。彼の弱さのことです。神の力は人の限界を迂回せず、その限界を通って働きます。ギデオンが自分の目に小さいままでいるかぎり、神には彼を通して働く通り道が開かれていました。

そののち神は、ギデオンの軍勢を三万二千から三百に減らし、どんな軍事の専門家も承認しない武具を持たせます。土の器、たいまつ、角笛。器が砕けたとき、光が輝きました。パウロは後にこの原理をそのまま書き記します。

「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」
コリント人への第二の手紙 4:7 (口語訳)

あなたが失格の理由だと感じているもの、それこそが、神の力があなたを通って働く資格になるのです。

モーセ——「わたしは、何者でしょう」

燃える柴の四十年前、モーセは自分の力でイスラエルを救おうとし、エジプトびとを殺しました。その失敗が彼を荒野へ追いやり、四十年の羊飼い暮らしが始まります。神が現れたとき、モーセに自信はひとかけらも残っていませんでした。

「モーセは神に言った、『わたしは、何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか』。」
出エジプト記 3:11 (口語訳)

神の答えは、モーセの資格には触れませんでした。パロの宮廷で受けた教育も、荒野を知り尽くした経験も、数え上げられません。ただこう言われました。

「わたしは必ずあなたと共にいる。」
出エジプト記 3:12 (口語訳)

モーセがなおも食い下がると、神はご自分の名を告げられます。

「わたしは、有って有る者。」
出エジプト記 3:14 (口語訳)

ヘブライ語の (ehyeh asher ehyeh) אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה は、「ある」という動詞を最も絶対的な形で含んでいます。「わたしは何者でしょう」への神の答えは、履歴書ではありませんでした。「あなたはだれのものか」という啓示でした。モーセは足りている必要などなかったのです。必要だったのは、『有って有る者』が共におられると知ることでした。

さらにモーセは言い添えます。「わたしは口も重く、舌も重いのです」(出エジプト記 4:10)。今日なら言語障害と呼ばれるものを訴えたのでしょう。神の応答は揺るぎませんでした。

「だれが人に口を授けたのか。話せない者、聞こえない者、見える者、見えない者とするのは、主なるわたしではないか。それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にいて、語るべきことを教えよう。」
出エジプト記 4:11-12 (NKJV より私訳)

神はその場で舌を癒やされませんでした。そのままを通して働くことを選ばれたのです。「わたしは語れません」と言った人が、イスラエル全民に律法を届ける器となりました。

エレミヤ——「わたしはただ若者にすぎません」

エレミヤが生まれる前から、神はすでに彼を立てておられました。

「わたしはあなたを母の胎に造らないさきに、あなたを知り、あなたが胎を出ないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした。」
エレミヤ書 1:5 (口語訳)

ここで「知り」と訳されたヘブライ語は (yada) יָדַע。親しく、人格的で、経験に根ざした知り方です。神はエレミヤを胎内で観察されたのではありません。父が子を知るように知っておられました。そして「聖別し」——(qadash) קָדַשׁ、特定の目的のために取り分ける——それも、少年がまだ何ひとつ成し遂げていないうちにです。

エレミヤの返事は、まぎれもない自信のなさでした。

「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません。」
エレミヤ書 1:6 (口語訳)

神の答えは、ギデオンやモーセのときと同じ型でした。自信のなさには触れず、務めとご臨在を語られたのです。

「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。すべてわたしがつかわす所へ行き、すべてわたしが命じることを語らなければならない。彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである。」
エレミヤ書 1:7-8 (口語訳)

そののち、神は目に見える形で触れられました。

「そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、『見よ、わたしの言葉をあなたの口に授ける』。」
エレミヤ書 1:9 (口語訳)

「語れません」と言った少年が、神の御手から直接ことばを受け取りました。足りないという実感は、あなたを失格にしません。神だけが供給できるものを受け取る位置に、あなたを置くのです。


自信のなさに語りかける聖句12

1. エペソ人への手紙 1:6——愛する御子にあって受け入れられている

「これは、その愛する御子によって賜わっためぐみの栄光が、ほめたたえられるためである。」
エペソ人への手紙 1:6 (口語訳)

ここで「賜わった」と訳された語は (charitoo) χαριτόω —「恵みを注ぐ、深く恵まれた者とする」。御使がマリヤに告げた「恵まれた女よ」(ルカによる福音書 1:28 口語訳)と同じ語です。神の前でのあなたの受け入れは、成績次第ではありません。それは、愛する御子がどなたであるかに基づく、動かない現実です。

2. 詩篇 139:13-16——目的をもって造られた

「あなたはわたしの内臓を造り、母の胎の中でわたしを組み立てられました。わたしはあなたをほめたたえます。わたしは恐るべく、くすしく造られているからです。あなたのみわざは驚くべきもので、わたしの魂はそれをよく知っています。わたしが隠れた所で造られ、地の深い所で巧みに織りなされたとき、わたしの骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は、まだ形をなさないわたしのからだを見られました。わたしのために定められた日々は、その一日もないうちに、ことごとくあなたの書にしるされていました。」
詩篇 139:13-16 (NKJV より私訳)

ダビデは、神が自分の「まだ形をなさないもの」を見られたと言います。ヘブライ語で (golem) גֹּלֶם、未完成のかたまりです。かたちも構造もないうちから、神はすでに彼の生涯についての書物を書き終えておられました。あなたは偶然の産物ではありません。あなたの存在は、かたちを持つ前に設計されていました。

3. エレミヤ書 1:5——生まれる前から知られていた

「わたしはあなたを母の胎に造らないさきに、あなたを知り、あなたが胎を出ないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした。」
エレミヤ書 1:5 (口語訳)

神があなたを知っておられるのは、あと追いの知識ではありません。創造に先立つ知識です。神はあなたが何者になったかを見てから用いると決めたのではなく、あなたが存在する前に決めておられました。つまり、過去を根拠とする自信のなさは、その過去が始まる前に据えられた目的をくつがえせないのです。

4. ローマ人への手紙 8:31——神が味方なら

「それでは、これらの事について何と言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」
ローマ人への手紙 8:31 (口語訳)

パウロは「だれも敵対しない」とは言いません。宇宙の創造主があなたの側に立たれたと知るなら、どんな敵対ももはや問題ではない、と言うのです。神の評価が、ほかのすべての評価に決着をつけます。

5. コリント人への第二の手紙 3:4-5——力は神から

「わたしたちはキリストにより、神に対してこのような確信をもっている。もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこの力は神から来るのである。」
コリント人への第二の手紙 3:4-5 (口語訳)

パウロは自分の不十分さを正面から認めます。自信ありげなふりはしません。彼の確信はキリストを通って神へと向かいます。「力」にあたる語は (hikanotes) ἱκανότης ——十分さ、適格性。パウロの適格性は築き上げたものではなく、借り受けたものでした。あなたのものも同じです。

6. ピリピ人への手紙 4:13——キリストにある力

「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」
ピリピ人への手紙 4:13 (口語訳)

この節はしばしば励ましの標語のように引かれます。けれども文脈では、パウロは牢屋の中からこれを書いています。「強くして下さる」は (endunamoo) ἐνδυναμόω ——「内に力を注ぎ入れる」。パウロが力を見いだしたのは、恵まれた状況ではありませんでした。彼の内に生きておられる方のうちに、それを見いだしたのです。

7. ヨハネの第一の手紙 4:17——彼がそうであるように、あなたも

「このことによって、愛はわたしたちのうちに全うされました。それは、さばきの日に大胆さを持つためです。なぜなら、この世にあって、わたしたちも彼のとおりであるからです。」
ヨハネの第一の手紙 4:17 (NKJV より私訳)

新約の中でも、身分について最も直接に語る一節です。あなたの問いはもはや「わたしは父の前で受け入れられているか」ではありません。「キリストは父の前で受け入れられているか」です。もしそうなら、彼がそうであるように、あなたもそうです——今、この世にあって。

8. イザヤ書 41:10——恐れるな、わたしはあなたと共にいる

「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」
イザヤ書 41:10 (口語訳)

神の「わたしは……する」が重ねられています。「恐れるな」「驚くな」という命令のひとつひとつに、神ご自身の約束が続きます。神は「自信のなさを克服せよ」と言い残して立ち去る方ではありません。その歩みに、ご自身を差し出して関わってくださいます。

9. 士師記 6:14——その力をもって行きなさい

「主は彼を顧みて言われた、『あなたはこのあなたの力をもって行って、イスラエルをミデアンびとの手から救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか』。」
士師記 6:14 (口語訳)

「この力」とは、どこかに眠っていた力の貯蔵庫ではありません。ギデオン自身が認めた弱さです。神は、彼が「やれる」と感じるまで待たれませんでした。「わたしがつかわす」と宣言されたのです。そして神のことばが、ギデオンの自信にはなしえないことを成し遂げました。

10. 詩篇 27:10——父母に捨てられても

「たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるからです。」
詩篇 27:10 (口語訳)

自信のなさの多くは、幼い日の拒絶にさかのぼります。この詩を書いたダビデ自身、預言者サムエルの前に連れ出されるとき、父に忘れられていました(サムエル記上 16:11)。「迎える」は (asaph) אָסַף ——「集める、受け入れる、迎え入れる」。神は、人が見落とした者を集められます。置き去りにされた者を、迎え入れてくださいます。

11. エペソ人への手紙 2:10——神の作品

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」
エペソ人への手紙 2:10 (口語訳)

「作品」と訳された語は (poiema) ποίημα —「手ずから作り上げられたもの、詩作」。口語訳が「神の作品」と訳すとおり、あなたは神の作品です。しかも良い行いは前もって備えられていました。自分を証明するためではなく、すでに敷かれた道を歩むためにです。

12. ローマ人への手紙 8:15——子とする霊

「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。」
ローマ人への手紙 8:15 (口語訳)

自信のなさは、しばしば奴隷の霊として働きます。あなたの自己認識を、成果に縛りつけるのです。パウロは言います。信じる者にとって、その霊はもう終わった、と。あなたが受けたのは子とする霊です。「アバ」はアラム語で、幼子が「お父さん」と呼ぶときのことば。あなたと神との関係は、雇い主と従業員ではありません。父と子です。


自信のなさは人格の欠陥ではありません

もし自信のなさが失格の理由なら、神は聖書の主要な務めのすべてで人選を誤られたことになります。パロに語らせるために、口の重い人を選ばれました。軍を率いさせるために、酒ぶねに隠れていた農夫を選ばれました。諸国に立ち向かわせるために、少年を選ばれました。教会を建てさせるために、裁判の場から逃げ去った漁師たちを選ばれました。

「本物の信仰者なら、こんなふうには感じないはずだ」——その声は、あなたの父のものではありません。訴える者の声です。そして彼はすでに敗れています。

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」
ローマ人への手紙 8:1 (口語訳)

聖書の中で、自信を失った人への神の第一声が叱責であったことは、一度もありません。いつもご臨在でした。ギデオンには「わたしはあなたと共にいる」。モーセには「わたしは必ずあなたと共にいる」。エレミヤには「わたしがあなたと共にいて、あなたを救う」。『わたしは足りない』の処方箋は、いつの時代も『有って有る者があなたと共におられる』でした。


本当の処方箋は、自己改善ではなく身分

世が差し出す答えは、自信を育てることです。技術を磨け。価値を証明せよ。尊敬を勝ち取れ。この処方は、自信のなさを努力で埋められる赤字とみなします。

福音の答えは逆です。自分を大きくしても、自信のなさは治りません。新しい身分を受け取るとき、それは終わります。

パウロはコリント人への第二の手紙 5:17 でこう書きます。

「だから、だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」
コリント人への第二の手紙 5:17 (口語訳)

ギリシア語の (kaine ktisis) καινὴ κτίσις は「まったく新しい種類の存在」を意味します。あなたは古い自分の改良版ではありません。別の被造物です。あの自信のなさを背負っていた古い身分は、キリストと共に十字架につけられました。問われているのは、新しいあなたについて神が語ることを信じるのか、それとも古い自己評価に根を張ったまま生きるのか、ということです。

エペソ人への手紙 1:3-6 は、ひとつの命令が与えられる前に、あなたの立ち位置を並べています。

  • あなたはすべての霊の祝福をもって祝福されている(3節)。
  • あなたは世の基の置かれる前から選ばれている(4節)。
  • あなたは子とされるように、あらかじめ定められている(5節)。
  • あなたは愛する御子にあって、豊かに恵まれた者とされている(6節)。

これらはすべて、あなたが何かを成し遂げる前に起こりました。4節は「世の基の置かれる前」と言います。あなたの召しは、あなたの能力を待ちませんでした。神は地が存在する前から、キリストにあるあなたを見ておられたのです。

イエスがバプテスマの水から上がられたとき、父はこう語られました。

「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」
マタイによる福音書 3:17 (口語訳)

このときイエスは、まだ一つの奇跡も行っておられません。一度も説教をしておられません。ひとりも癒やしておられません。父の承認は、その働きに先立っていました。そして新しい契約のもとでは、あなたにも同じことが言えます。神の承認はあなたの働きの結果ではなく、その土台です。

荒野での悪魔の手口が、それを裏づけます。彼はイエスに近づいて、「もしあなたが神の子であるなら」(マタイによる福音書 4:3)と言いました。狙ったのは身分です。「もし十分な力があるなら」ではなく、「もしあなたが……であるなら」。敵の戦略は今も変わりません。彼は同じ挑戦をあなたに持ちかけます。「もし本当に、神が言うとおりの者であるなら」。答えは、成果で証明することではありません。父がすでに宣言されたことの上に立つことです。


神は弱さをどう用いられるか

聖書を貫く神の戦略は一貫しています。世が捨てるものを、神は用いられるのです。

「神は知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」
コリント人への第一の手紙 1:27-29 (口語訳)

巨人を倒すために、石投げを持つ少年を選ばれました。ミデアンへの勝利を告げるために、夢の中の一つの大麦のパンを選ばれました。五千人以上を養うために、少年の弁当の五つのパンと二匹の魚を選ばれました。闇の力を打ち破るために、弱さと恥の極みである十字架を選ばれました。

あなたが恥じている弱さこそ、神の力が通り抜ける回廊です。

パウロはそれを身をもって学びました。

「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」
コリント人への第二の手紙 12:9 (口語訳)

ここで「宿る」と訳された語は (episkenoo) ἐπισκηνόω ——「天幕を張る、幕屋のように上に住まう」。幕屋の上にとどまった神の栄光の雲に用いられる語が、いまキリストの力があなたの弱さの上に降りてとどまるさまを描いています。あなたの足りなさは、神が解決すべき厄介事ではありません。神が天幕を張られる場所なのです。

ギデオンの軍が三万二千から三百に減らされたのも、これが理由でした。神は言われます。

「あなたと共におる民はあまりに多いから、わたしはミデアンびとを彼らの手に渡さない。おそらくイスラエルはわたしに向かって高ぶり、『わたしを救ったのは自分の手だ』と言うであろう。」
士師記 7:2 (口語訳)

神は人間の資源をことごとく取り去り、勝利がご自分にしか帰せられないようにされました。今もあなたに、同じことをしておられます。


「わたしは足りているのか」への福音の答え

正直な答えは、いいえ、です。あなたは足りていません。そして、はじめから足りるはずもありませんでした。

福音のすべては、人の努力では神の求めるものを生み出せない、というただ一点の上に立っています。それは侮辱ではありません。安堵です。「あなたは足りない」と言うその同じ福音が、「けれどもキリストは足りておられる。しかもあなたのうちに生きておられる」と告げるからです。

「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのために自分をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」
ガラテヤ人への手紙 2:20 (口語訳)

「足りなかった」人は十字架につけられました。有り余るほど足りておられる方が、あなたのうちに住まわれたのです。だからこそパウロは「喜んで自分の弱さを誇ろう」と言えました。苦しみを愛していたのではありません。自分の空しさこそ、キリストの満ち満ちた豊かさが注がれる条件だと知っていたのです。

自信を失った人は「わたしは足りているのか」と問います。福音はこう答えます。「問いが違います。正しい問いは、キリストは足りておられるか、です。そしてその答えは、一度も疑われたことがありません」。

自信のなさは「自分を見よ」と言います。父は「わたしの子を見よ」と言われます。そして彼がそうであるように——父の右に座し、あらゆる訴えの届かぬ高みに、あらゆる失敗の上におられるように——この世にあって、あなたもそうなのです(ヨハネの第一の手紙 4:17)。

世は自信を外から内へ積み上げます。福音は内から外へ建て上げます。世は「自分を証明せよ、そうすれば安心できる」と言います。福音は「あなたはすでに安全なところにいる。さあ、そこから生きなさい」と言います。

聖書の中で神に召された、自信のない人たちはみな、同じことばを受け取りました。「もっと大きくなれ」ではなく、「わたしはあなたと共にいる」。それは今も変わりません。

神は今、あなたと共におられます。その御臨在だけが、決して揺らがない唯一の土台です。