知らない国で長いドライブをしていると想像してください。疲れて、体はこわばり、宿を探しています。曲がる道を見落としたのではないかと心配で、何度もGPSを確認します。体の中のストレスが上がっていきます。そのとき顔を上げると、宿はすぐ隣にあります。すでに宿の前に車を止めています。到着していたのです。

すぐに体から緊張が抜けます。探すのをやめます。エンジンを切り、車を降ります。旅は終わったので、平安のうちに歩きます。

多くのクリスチャンは、遠くにあると思っている聖さを探しながら生きています。励み、思い煩い、受け入れられる状態に達しようとして行いを積みます。聖さを遠い目的地のように扱います。しかし聖書は、あなたはすでに到着していると言います。

「あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストのうちを歩みなさい。」 コロサイの信徒への手紙 2章6節 (NKJV より私訳)

新しい契約のもとでは、聖さを得るために聖さへ向かって歩くのではありません。イエスがすでに与えてくださった聖さから歩き出すのです。十字架の血があなたを完全な者としました。義になろうとしているのではありません。すでに義と宣言されています。

義という目的地にすでに着いていると気づくとき、努力は終わります。すでに持っているものを探そうとしてストレスホルモンを出すことをやめます。立場が確かなので、平安のうちに歩けます。日々の生活は、キリストにあって完成されたあなたの状態の表れになります。

すでに目指していた場所にいると気づくとき、安らぎが訪れます。