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検索語: “聖さ”

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短気になるのは、恵みが尽きているから

律法は要求します。 恵みは供給します。 子どもに要求ばかりを突きつける親を思い浮かべてみてください。「どうしてもっとちゃんとできないの。なぜ怒るの。変わりなさい。やめなさい」。これが律法の声です。欠けを言い当てはしますが、それを直す力は少しも与えてくれません。 恵みは、同じ問題にまったく別の仕方で近づきます。行いを変えるために必要な「자기」ではなく、まず新しい身分を供給するのです。「あなたはこんな...

もう、着いています

見知らぬ国を、長い時間かけて車で走っていると想像してみてください。体は疲れ、肩には力が入り、目は宿を探しています。曲がるところを間違えたのではないか——そう思ってはカーナビを確かめ、また確かめる。体の緊張はじわじわと高まっていきます。ところがふと顔を上げると、宿はすぐ目の前にあるのです。車はもう、その車寄せに止まっている。着いていたのです。 その瞬間、こわばりがすっと抜けていきます。探すのをやめ、...

神はわたしに失望しているのか

また、やってしまいました。そのとき真っ先に心をよぎったのは、失敗そのもののことではありませんでした。神のことでした。「きっと、神はわたしに失望しておられる」。 この一言は、信じる者なら誰しも、どこかの時点で胸の奥に抱えるものです。無神論者の堂々とした反論でもなく、神学者の議論でもありません。声に出さず、ひとりでしまい込んでおく恐れ——自分を救ってくださったその神が、今は自分を見て首を横に振っておら...

不安では人は育ちません

教会の会衆席のあいだを、そっと流れている一つの恐れがあります。 それは、神との関係にあまり安心しきってしまうと、人は怠けてしまうのではないか、という恐れです。「救いの確信」を語りすぎれば、信じる者は努力をやめてしまうのではないか。少しくらいの不安は、聖さへの良い動機づけになるのではないか。そう考えるのです。 けれども、これほど真実から離れた考えもありません。 不安は聖さを生みません。不安が生むのは...

アガペーとは何か — 条件をつけない神の愛

ギリシア語には、愛を表す言葉が四つあります。日本語には、ひとつしかありません。このささやかな違いが、歴史上のどんな神学論争にも劣らないほど、神についての誤解を生んできました。 夫が妻に「愛している」と言い、その同じ口で「ピザが大好きだ」と言う。日本語はどちらも同じ棚に並べてしまいます。ギリシア語はそうしません。ギリシア語には、神の愛だけを指す言葉があるのです。あまりに独特なので、初代のクリスチャン...

聖書が語る恐れ — 自由にする七つの真理

医者はパニック発作に薬を処方できます。カウンセラーは、思考の枠組みを組み替える術を教えてくれます。けれども聖書は、そのどちらにもできないことをします。恐れがどこから来たのか、だれがそれを打ち破ったのか、そしてなぜそれがもはやあなたの人生に立ち入る権利を持たないのかを、はっきり告げるのです。 恐れは、神が聖書の中で最も繰り返し語られた主題です。「恐れるな」という言葉は、聖書に三百六十五回以上出てきま...

律法の下ではなく、恵みの下に

律法は、何をすべきかを告げます。恵みは、何がすでに成し遂げられたかを告げます。一方はあなたから取り立て、もう一方はあなたに供給します。そして聖書は、わたしたちが今どちらの下に生きているのかを、少しもあいまいにしていません。 ローマ人への手紙6章14節を耳にしたことのある方は多いでしょう。けれども、その一節が何を宣言しているのかに立ち止まった方は、そう多くありません。パウロは「律法と恵みのつり合いを...

そのままで、来ていいのです

イエスに手を伸ばした人は、みないやされました。 イスラエルのすべての人ではありません——来た人だけです。ふさわしい人だけでもありません——ふさわしい人など、ひとりもいませんでした。みなが分かっていたわけでもありません——けれども、触れた人はみな受け取りました。 「そしてさわった者は皆いやされた。」マルコによる福音書 6:56 (口語訳) 面接はありません。資格もいりません。条件もつきません。 ある...

罪の本当の理由

なぜ、わたしたちは罪を犯すのでしょうか。自分でも嫌でたまらない習慣や振る舞いに、どうして囚われてしまうのでしょうか。 たいていは、意志が弱いからだと考えます。善くあろうとする努力が足りないのだ、と。けれどもペテロは、根っこにあるのはまったく別のものだと告げます。信頼の欠けです。 「また、それらのものによって、尊くまた大いなる約束が、わたしたちに与えられているのである。それは、あなたがたが、世にある...

救いは失われるのか——恵みの本当の意味

裁判はすでに終わりました。判決は言い渡され、裁判長は席を立ち、木槌の音も鳴りやんでいます。それなのに被告席の人は、もう一度立ち上がってこう尋ねるのです。「でも、本当に確かなのでしょうか」。 これが、自分の救いを疑っている信者の姿です。 「クリスチャンは救いを失うことがあるのか」——この問いは、まじめな信者を心の病へと追い込んできました。神を愛する人々から確信を奪い、良い知らせを、細かい但し書きのつ...

恵みは、人をより聖くする

恵みを語りすぎると、信じる者は気がゆるんでしまう——そう思っていませんか。聖書は、その問いに答えています。 パウロはこう書いています。 「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。」ローマ人への手紙 6:14 (口語訳) 律法が生むのは、恐れです。恵みが生むのは、変化です。 律法は言います。「行え、さもなければ罰を受ける」と。恵みは言い...

もう力まなくていい――聖書が語る安息

神はすべてのわざを終え、造られたものをことごとく見渡し、それから思いがけないことをなさいました。休まれたのです。疲れたからではありません。すべてが完成したからです。 このひとつの出来事――第七日の安息――が、聖書に記されたあらゆる平安の約束、供給の約束、守りの約束の土台になりました。それなのに、多くの信仰者は今も、安息を「余裕のある人にだけ許された贅沢」のように扱っています。 聖書は安息を付け足し...

聖さの基準は、キリスト

わたしたちはしばしば、間違ったものさしで聖さを測ってしまいます。好み、慣習、人の個性、まわりの期待——そんなもので、です。 けれども聖書は、聖さをただひとつの基準に定めました。 「彼におると言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。」ヨハネの第一の手紙 2:6 (口語訳) 聖さとは、行いのリストではありません。ひとりのお方です。 「聖」を意味するヘブライ語 (qadosh) קָד...

聖書が語る赦し ― 恵みが与える自由

法廷と十字架は、同じことを語ります。負債は支払われた、と。違いがあるとすれば、十字架は、いつか信じるすべての人のために、その人が生まれる二千年も前に支払いを済ませたということです。 赦しは、自己啓発の棚から出てきた新しい思いつきではありません。聖書の中心にある出来事です。エデンから空の墓まで、聖書全体の流れは一つの出来事へ向かって進みます。神が人類の負債を帳消しにし、この勘定は済んだと宣言される出...

ゴールから走り出す

ふつうの競走では、スタートラインに立ち、ゴールを目指して走ります。賞はいちばん最後に受け取るものです。 ところが福音は、その順番をひっくり返します。 イエスの死と葬りと復活のゆえに、信じる者は一瞬にしてゴールへと運ばれました。わたしたちは勝利を目指して働くのではありません。勝利から出発して働くのです。 多くの人が、キリスト者の歩みを梯子のように考えています。「恵みによって救われた」というのは幼稚園...

キリストにあるあなたは誰か——恵みが定めた30の真実

人は一生をかけて「何者か」になろうとします。けれども福音は、あなたはすでにそうなのだ、と告げます。 救われたとき、あなたが受け取ったのは課題ではありません。新しい身分です。神は「ふさわしい者になりなさい」と、やるべきことの一覧を手渡されたのではありません。あなたをキリストのうちに置き、「すべては終った」と言われたのです。 問題は、多くの信じる者がなお古い身分から生きていることです。すでに受け入れら...

信仰は、軽いはずです

キリスト者の歩みは苦しくあるべきだ——そんな思い込みが、いつのまにか広く根を張っています。 私たちは、もがくことを聖さと取り違えます。歯を食いしばり、身を削るようにして生きていなければ、どこか間違っているのではないかと感じてしまう。そして重い荷を背負いながら、これは神が私の力を試すために置かれたものだ、と思い込むのです。 けれども、主イエスが言われたのは、まるで違うことでした。 「わたしのくびきは...

成長とは、愛を知ること

成長とは、神の聖さをより強く意識するようになることだ——多くの人がそう考えます。けれども聖書は、思いがけないものを見せてくれます。 歩みの初めのころ、ペテロはイエスの足もとにひれ伏して、こう言いました。 「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」 ルカによる福音書 5:8 (口語訳) ところが年月を重ねたのち、しかも最もみじめな失敗のあとで、ペテロはイエスのもとへ走って行きました。...

豊かさこそ、神のご計画

神は怒ってはおられません。救い、祝し、豊かないのちを与えようとしておられます。 神がいらだち、失望し、あなたにうんざりしておられる——そんな姿を思い描いているかぎり、安心して近づくことなど、とてもできません。 けれども主イエスは、その思い違いを正してくださいます。 「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」 ヨハネによる福音書 10:10 (口語訳) 与えられるのは、豊かさで...

規則では育たない実

福音は人を変えます。道徳だけを見つめていると、心に苦さが芽生えます。 恵みのない道徳は、重荷になります。愛のない重荷は、恨みに変わります。 だからこそ福音は、規則からも自己改善からも始まりません。始まりは、ひとりの方との出会いです。 主イエスは、パリサイ人たちに驚くべきことを言われました。 「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものであ...