ギリシア語には、愛を表す言葉が四つあります。日本語には、ひとつしかありません。このささやかな違いが、歴史上のどんな神学論争にも劣らないほど、神についての誤解を生んできました。

夫が妻に「愛している」と言い、その同じ口で「ピザが大好きだ」と言う。日本語はどちらも同じ棚に並べてしまいます。ギリシア語はそうしません。ギリシア語には、神の愛だけを指す言葉があるのです。あまりに独特なので、初代のクリスチャンたちは古典文学の片隅に埋もれていた言葉を拾い上げ、まったく新しい意味を注ぎ込まなければなりませんでした。

その言葉が (agape) ἀγάπη — 「無条件の、自分を差し出す愛」です。

この記事では、この言葉が古代ギリシア語のどこから来て、新約聖書の中でどう作り変えられ、そして今日、信じる者の日常に何をもたらすのかをたどります。神の愛はほかのどんな愛と何が違うのか。その答えは、この一語の中に宿っています。


ギリシア語アガペー — その出どころと意味

(agape) ἀγάπη — 「無条件の、自分を差し出す愛」。発音は「アガペー」、名詞です。その動詞形が (agapao) ἀγαπάω — 「相手の値打ちにかかわらず、意志をもって愛し抜く」。

新約聖書が書かれる前の古典ギリシア語では、アガペーは珍しく、取り立てて重みのない言葉でした。わずかな文献に散らばって出てくるだけで、特別な役目は担っていません。ギリシア人は恋の情熱には (eros) ἔρως — 「恋慕の愛」 を、深い友情には (philia) φιλία — 「友愛」 を好んで用いました。アガペーは語彙の棚の奥に、ほとんど使われないまま置かれていたのです。

ところが紀元前二百年ごろ、ヘブライ語旧約聖書をギリシア語に訳した七十人訳の訳者たちが、この言葉を選びました。神がイスラエルに向けられる契約の愛、ヘブライ語の (ahavah) אַהֲבָה — 「契約に基づく揺るがぬ愛」 を訳すためにです。そこに一粒の種がまかれました。やがて新約聖書の記者たちが神の愛を言い表す言葉を求めたとき、アガペーはすでに用意されていました。エロースやフィリアーにまとわりつく異教神話の垢を一切帯びていない、ほとんど白紙のままの言葉として。

初代のクリスチャンたちは、この言葉を借りただけではありません。作り直したのです。空の器に、まったく新しい中身を満たしました。求められる前に与える神、値しない者のために死ぬ神、ご自分が造った者に届くまで決してやめない神。その愛です。

ストロング番号ではアガペーは G26。新約聖書に百十六回現れます。一字あたりの神学的な重みで、これに並ぶ言葉はありません。


愛を表す四つのギリシア語

アガペーが何であるかを知るには、それが何でないかを見る必要があります。ギリシア語は愛を四種類に分け、そのそれぞれが別々の土台の上に立っています。

1. エロース (ἔρως) — 恋の情熱

(eros) ἔρως — 「恋慕、性愛」。相手から何かを得たいと願う、欲求の愛です。この語は新約聖書に一度も現れません。ただの一度もです。聖書の記者たちは意識して避けました。ギリシアの神エロースとの結びつき、そして取り引きめいた、欲に動かされる情愛の響きを嫌ったからでしょう。

エロースが悪いわけではありません。雅歌は恋の愛を高らかにうたっています。けれどもエロースは、それだけでは条件つきです。相手の魅力に支えられているからです。魅力が薄れれば、エロースも色あせます。

2. ストルゲー (στοργή) — 肉親の情

(storge) στοργή — 「家族に対する自然の情愛」。親が子に抱く本能的な愛です。新約聖書にはその否定形でしか出てきません。(astorgos) ἄστοργος — 「自然の情のない」 が、ローマ人への手紙 1:31 とテモテへの第二の手紙 3:3 に現れ、口語訳ではこれを「無情」と訳しています。ストルゲーは強い。けれども血のつながりの上に立つ愛です。その絆を取り去れば、ストルゲーは足場を失います。

3. フィレオー (φιλέω) — 友情、兄弟の情

(phileo) φιλέω — 「友として親しみ愛する」。互いを喜び合う、深い友情の愛です。「兄弟愛の町」と呼ばれるフィラデルフィアは、この語から名を得ています。フィレオーは温かく、人格的で、そして双方向です。共に過ごした時間、分かち合う価値観、心の結びつきに支えられています。

イエスもフィレオーを感じられました。ラザロの墓の前で涙を流されたとき、ユダヤ人たちはこう言いました。

「ごらんなさい、どんなに彼を愛しておられたことか」ヨハネによる福音書 11:36 (NKJV より私訳)

ここで使われているのがフィレオーの形です。イエスには友がおり、その友情は主の心を動かしました。

ただしフィレオーには、その構造の中に条件が組み込まれています。相互性です。相手が自分にとって友であるから、自分も友でいる。友情が引かれれば、フィレオーは弱まります。

4. アガペー (ἀγάπη) — 無条件の、自分を差し出す愛

アガペーがほかの三つと決定的に違うのは、条件を持たないという一点です。愛される者の魅力(エロース)にも、血のつながり(ストルゲー)にも、友情の相互性(フィレオー)にも寄りかかりません。アガペーは、愛される者の値打ちではなく、愛する者の人格のゆえに愛します。

新約聖書が神の人間への愛を語るとき、用いるのがこの語です。パウロがコリント人への第一の手紙 13章を書いたときに選んだ語であり、ヨハネが聖書全巻の中で最も凝縮された神の愛の神学をつづったときに用いた語です。

ほかのどの愛も、こう尋ねます。「わたしは何を得られるのか」。アガペーはこう尋ねます。「わたしは何を与えられるのか」。


新約聖書はアガペーをどう変えたか

一世紀より前、パウロがコリント人への第一の手紙 13章で描いたように愛を定義したギリシアの哲学者はひとりもいません。敵のために死ぬ神をアガペーで語ったギリシアの詩人もいません。神話の神々は条件つきで愛しました。ゼウスは自分を喜ばせる者を愛し、そうでない者を滅ぼしました。アフロディテは恋を武器のように配りました。神々の世界はエロースと力で動いていたのであって、自己犠牲で動いてはいなかったのです。

新約聖書の記者たちがイスラエルの神を語るためにアガペーを用いたとき、異教の思想にまったく前例のない考えが世に出ました。その中心にあるのは力でも怒りでも無関心でもなく、代価を払った、報いを求めない、取り消されない愛だという神です。

使徒ヨハネは言います。

「神は愛である。」
ヨハネの第一の手紙 4:8 (口語訳)

神は愛を持っている、愛を示す、愛を感じる、とは言いませんでした。神は愛で「ある」と言ったのです。(agape) ἀγάπη。愛は数ある属性のひとつではありません。神のご性質そのものの実質です。聖さも、力も、義も、すべてこの土台の上で働きます。

そしてヨハネは、もうひとつ決定的な区別を置きました。アガペーが実際にどういう形をとるのかを、こう定義したのです。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」
ヨハネの第一の手紙 4:10 (口語訳)

聖書が言う愛の定義は、あなたの神への愛ではありません。神のあなたへの愛です。この逆転が、人間のあらゆる宗教をひっくり返しました。ほかのすべての体系は、人間の努力が上へ向かうところから始まります。福音は、神の愛が下へ送られたところから始まります。


アガペーを語る主要な聖句

1. ヨハネによる福音書 3:16 — 最もよく知られた一節

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
ヨハネによる福音書 3:16 (口語訳)

ここの動詞は (egapesen) ἠγάπησεν — 「愛した」、アガパオーのアオリスト形です。決定的で、完了した一回の行為を指します。神は愛された。そして与えられた。時制が示すのは、繰り返しのきかない一度きりの出来事、十字架です。しかもその及ぶ範囲は全体です。「この世」。選ばれた一部ではなく、ふさわしい者でもなく、この世です。

2. ローマ人への手紙 5:8 — 待たない愛

「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」
ローマ人への手紙 5:8 (口語訳)

時の順序が大切です。神は、わたしたちが身を清めるのを待たれませんでした。悔い改めた後に愛されたのでもありません。「まだ罪人であった時」に愛されたのです。アガペーは善さに応えて動く愛ではありません。善さのないところに善さを生み出す愛です。恵みは、あなたに触れてもひるみません

3. コリント人への第一の手紙 13:4–8 — アガペーの人柄

「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。」
コリント人への第一の手紙 13:4–8 (口語訳)

ここに並ぶ性質は、あなたが達成すべき命令ではありません。ひとりの方の描写です。もう一度読み、「愛」を「イエス」と置き換えてみてください。イエスは寛容であり、情け深い。イエスはねたまない。イエスは自分の利益を求めない。イエスはいつまでも絶えることがない。

パウロはこの箇所を、点検表として書いたのではありません。肖像として書いたのです。そして神はあなたをイエスに従ってご覧になるのですから、この肖像は、神があなたに接するときの基準です。神が心を開く前にあなたへ突きつける基準ではありません。

4. ローマ人への手紙 8:35–39 — 引き離すものは何もない

「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。……わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」
ローマ人への手紙 8:35、38–39 (口語訳)

パウロは脅威をあらゆる分野で数え上げます。肉体の危険、霊的な勢力、時そのもの。そのどれもがこの結びを断てない、と彼は結論します。「引き離す」と訳されている語は (chorisai) χωρίσαι — 「引き離す、別れさせる」。離縁を表すときと同じ語根です。つまりパウロはこう言っているのです。神は決してあなたをご自分の愛から離縁なさらない、と。あなたが神をつかむ力によってではなく、神があなたをつかんでおられるゆえにです。

5. エペソ人への手紙 3:17–19 — 知識を超えた愛

「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛に基いて、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように。」
エペソ人への手紙 3:17–19 (口語訳)

パウロは、「人知をはるかに越えた」ものを知るようにと祈りました。幼な子は分子生物学を理解しません。けれども親の腕に抱かれた子は、安心を知っています。パウロが祈ったのは、信じる者がアガペーにどっぷりと浸され、それが根となり、土台となり、住む空気そのものとなることでした。


アガペーとフィレオー — イエスとペテロの対話

新約聖書の中でも指折りに多くを明かす会話が、ヨハネによる福音書 21:15–17、復活の後、ガリラヤ湖のほとりで交わされます。ペテロは三度、主を知らないと言いました。そのペテロを、イエスは三つの問いによって回復させます。

最初の問い。

「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか。」
ヨハネによる福音書 21:15 (口語訳)

ここでイエスが用いたのは (agapas) ἀγαπᾷς — 「あなたはアガペーで愛するか」。あの無条件の、自分を差し出す愛でわたしを愛するか、という問いです。かつてペテロは「たといみんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイによる福音書 26:33 口語訳)と胸を張りました。イエスは尋ねておられます。今もあの最も高い愛を名乗るのか、と。

ペテロの答えは正直でした。

「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです。」
ヨハネによる福音書 21:15 (口語訳)

ただしペテロが使った語は違いました。(philo) φιλῶ — 「友として慕う」。主よ、わたしはあなたを慕っています。親しみを抱いています。けれどもアガペーだとは、もう申せません——そう言ったのです。

口語訳はどちらも「愛する」と訳しますので、日本語の聖書ではこの違いは表に出てきません。しかし原文では、二人は別の言葉を使っているのです。

ペテロは学んでいました。自分の主への愛に寄りかかり、その愛は中庭で女中に問われただけで崩れ落ちました。もはや誇ることはできません。差し出せるのは、正直で、へりくだった慕わしさだけでした。

二度目もイエスはアガパスで問われ、ペテロはフィローで答えます。

そして三度目。ここで場面が転じます。イエスは言葉を替え、ペテロのところまで降りて来られました。

「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか。」
ヨハネによる福音書 21:17 (口語訳)

このときイエスが用いたのは (phileis) φιλεῖς — 「友として慕うか」。ペテロよ、あなたはわたしをフィレオーででも愛するのか、と。ペテロが心を痛めたのは、三度も問われたからというより、主がご自分の言葉を捨てて自分の言葉を取ってくださったからでした。そしてペテロは「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛することは、おわかりになっています」と答えます。やはりフィローです。

このやり取りに埋め込まれた教えは、土台そのものです。ペテロは主への自分の愛を誇ることから歩み始め、主の自分への愛に憩うことで着地しました。「わたしはイエスを愛する者だ」から「わたしはイエスに愛されている者だ」へ。この移り変わりこそ、律法から恵みへの移り変わりです。これを誰より深く悟った使徒ヨハネは、自分をただ「イエスの愛しておられた弟子」(ヨハネによる福音書 13:23 口語訳)と呼びました。

あなたの神への愛は揺れます。日曜に高まり、水曜に沈む。よい説教のあとに舞い上がり、つらい一週間のあとに落ち込む。神の前でのあなたの立場は、感情の上下に合わせて動きません。神のあなたへのアガペーは、いつも変わらないからです。満ちも欠けもしません。折れ線の上で動かないものにこそ、信頼を置いてください。


完全な愛は恐れを取り除く — アガペーとフォボス

新約聖書において、愛と恐れの関係はたまたま並んでいるのではありません。構造的につながっています。ヨハネはこう言います。

「愛には恐れがない。完全な愛は、恐れをとり除く。なぜなら、恐れには懲らしめが伴い、また、恐れる者には、愛が全うされていないからである。」
ヨハネの第一の手紙 4:18 (口語訳)

ここで「恐れ」と訳されている語は (phobos) φόβος — 「恐れ、おののき」。「〜恐怖症(フォビア)」という言葉の語源になった語です。「懲らしめ」は (kolasin) κόλασιν — 「刑罰」。ヨハネの言いたいことは率直です。恐れと愛は同じ場所に共存できない。アガペーが部屋を満たせば、フォボスは出て行きます。

ヨハネは「あなたの完全な愛が」とは言いませんでした。「完全な愛」と言ったのです。そして完全と呼べる愛は、神の愛だけです。恐れは、もっと強く愛そうという努力では克服できません。神がすでにどれほど深くあなたを愛しておられるかが明らかにされるとき、恐れは去るのです。

これは創世記から黙示録まで貫く型につながっています。堕落の後、最初に記録された人の感情は恐れでした。アダムは神に言います。「園の中で、あなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」(創世記 3:10 口語訳)。ストレスが来る前に、病が来る前に、死が来る前に、恐れが来ました。そして恐れの前に来たのは、罪の責めでした。

鎖はこうつながっています。罪の責めが恐れを生み、恐れがストレスを生み、ストレスが壊れた実を結ぶ。病、こじれた人間関係、経済の破綻、断ち切れない習慣。悪魔はこの鎖を知っています。その戦略のすべては、最初の輪、すなわち罪の責めにかかっているのです。

アガペーは、この鎖を根元で断ちます。神のあなたへの愛が全面的で、条件がなく、十字架で決着済みだと信じるとき、罪の責めは力を失います。責めがなければ、恐れは燃料を失います。恐れがなければ、ストレスは散っていきます。その下流にあるもの——不安、抑えのきかない行動、体に出る症状——は、意志の力によってではなく、受け取った愛によってほどけ始めます。

だからこそ悪魔は、外側に何かを壊す前に、まずあなたに「愛されていない」と感じさせようとします。イエスのバプテスマのとき、父は天を開いてこう宣言されました。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイによる福音書 3:17 口語訳)。荒野で誘惑しに来た悪魔の第一声は、「もしあなたが神の子であるなら……」(マタイによる福音書 4:3 口語訳)でした。悪魔は一語を落としています。「愛する」です。彼が狙ったのはイエスの力ではありません。愛されているという自覚でした。

同じことが、あなたにも仕掛けられます。神に愛されているという確信をはぎ取れれば、ほかのどんな誘惑もたやすくなるからです。けれども、あなたこそ愛されている者だという啓示に立ち続けるなら、彼の優位は消えてなくなります。


ヨハネの第一の手紙 4:17 — 彼がそうであるように、あなたもそう

アガペーが実際に何をもたらすかを最も豊かに言い表した一節があります。新約聖書のどの一行にも劣らず、多くのいやしの証しを、恐れからの自由を、祈りの大胆さを生んできた言葉です。

「このことにおいて、愛はわたしたちのうちに全うされている。それは、さばきの日に、わたしたちが大胆でありうるためである。彼がそうであられるように、この世にあってわたしたちもそうだからである。」
ヨハネの第一の手紙 4:17 (NKJV より私訳)

はじめの一句をよく読んでください。「わたしたちの愛が全うされた」とは言っていません。愛が——神のアガペーが——「わたしたちのうちに」全うされた、と言うのです。神のあなたへの愛は、すでに完成に達しました。十字架で到達し、父の右にとどまっています。

その結果が、大胆さです。罪責でも、縮こまることでも、不確かさでもなく、大胆さ。そしてその根拠は、福音のすべてを一息に収めたこの一句です。彼がそうであられるように、この世にあってわたしたちもそうである。

イエスが父の右で義とされているように、あなたもこの世で義とされています。イエスが罪の責めの及ばぬところにおられるように、あなたもそうです。イエスが受け入れられ、恵みを受けておられるように、あなたもそうです。イエスが健やかで全きように、あなたもそうです。あなたの働きぶりによってではなく、主の位置によってです。

これがアガペーの生む実です。温かな気分ではありません。感傷的な高まりでもありません。よみがえられたキリストとの、法的で、契約に基づく、永続する一体化です。あなたは主のからだの肢体であり、その肉、その骨です(エペソ人への手紙 5:30)。父の右におられる主について真実であることが、今ここにいるあなたについても真実なのです。


アガペーは生み出すものではなく、受け取るもの

愛を教える者の多くが、ここで道を誤ります。コリント人への第一の手紙 13章の説教はたいてい、それを心得帳として扱います。寛容であれ、情け深くあれ、ねたむな。結果は疲れと罪責です。誰も努力でその水準を保てないからです。

しかし聖書は、アガペーを受け取ることを、それを表すことの前に置きます。いつも例外なく、です。

「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。」
ヨハネの第一の手紙 4:19 (口語訳)

この順序は動かせません。まず愛されなければ、愛することはできません。受け取っていないアガペーを、差し出すことはできません。縦の流れ、すなわち神からあなたへの愛が、横の流れ、すなわちあなたから人への愛に先立つのです。満たされたことのない器は、注ぎ出すものを持ちません。

使徒ヨハネはそれを知っていました。彼は自分を「イエスを愛した弟子」とは呼びませんでした。「イエスの愛しておられた弟子」と呼びました。その言い方を、彼は福音書の中で五度用いています。五は恵みの数です。

ヨハネとペテロは、みごとな対照をなします。ペテロは主への自分の愛を誇りました。「たといみんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。ヨハネは主の自分への愛に憩いました。十字架のとき、自分の愛に頼った人はどこにいたでしょうか。身を隠していました。主の愛に頼った人はどこに。ありのままで十字架のもとに立っていました。イエスがご自分の母の世話を託されるほどの近さにです。

神の愛に憩う人が、最も親しい交わりを持ち、最も早く悟り、最もよく用いられます。岸辺でよみがえられたイエスを最初に見分けたのはヨハネでした(ヨハネによる福音書 21:7)。マリヤの世話を託されたのもヨハネでした。聖書全巻の中で最も深い愛の神学を書いたのも、ヨハネでした。

では、どうすればアガペーを受け取れるのでしょうか。御国のすべてを受け取るのと同じ道、すなわち信じることによってです。

「わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。」
ヨハネの第一の手紙 4:16 (口語訳)

知るだけでは足りません。信じなければなりません。放蕩息子の父は、息子が遠い国にいた間じゅう、変わらず愛していました。肥えた子牛は用意ができていました。最上の着物も整い、指輪も待っていました。それでも息子は豚の餌場にいました。父が何かを出し惜しんだからではありません。自分が愛されていると信じていなかったからです。

神が今以上にあなたを愛されることはありません。けれども、その愛があなたの経験へ入って来る窓の大きさは、あなたの信仰が決めます。信仰が大きくなれば、窓も大きくなります。信じる分だけ、供給が届きます。日はどの家にも差します。窓の大きな家が、最も多くの光を受けるのです。


アガペーが日々を変えるところ

アガペーを概念としてではなく、受け取った現実として理解するとき、日々の生活は目に見える形で組み替えられていきます。

恐れが溶けます。 悪魔の戦略は、神があなたに怒っているという偽りに乗っています。彼は王の怒りのほえ声(箴言 19:12)をまねて、神はあなたに敵対していると思い込ませようとします。けれども神はこう誓われました。「わたしはノアの洪水を再び地にあふれさせないと誓ったように、わたしは再びあなたを怒らない、またあなたを責めないと誓った」(イザヤ書 54:9 口語訳)。この誓いを信じるとき、悪魔のものまねは色を失います。

罪の責めが折れます。 「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」(ローマ人への手紙 8:1 口語訳)。罪の責めは、人生を壊すあらゆる型の最も深い根です。アガペーはそれを根元から引き抜きます。告発者が知られたくないことは、あなたの訴訟がすでに取り下げられているという事実です。

罪の手がゆるみます。 姦淫の場で捕えられた女に、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」(ヨハネによる福音書 8:11 口語訳)と言われました。罪に定めないという贈り物が、先に与えられています。「もう罪を犯さない」力は、その贈り物「から」流れ出たのであって、その前にあったのではありません。愛を受けるために罪をやめるのではなく、愛を受けるとき罪は魅力を失うのです。

尻込みが大胆さに変わります。 「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊である」(テモテへの第二の手紙 1:7 口語訳)。ここの「愛」が (agape) ἀγάπη — 「無条件の愛」 です。あなたを凍りつかせ、大胆な言葉、大胆な一歩、満ち足りた人生から引き戻す臆病さの解毒剤は、聖霊によってあなたのうちに置かれたアガペーです。

人間関係が整います。 「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい」(エペソ人への手紙 5:25 口語訳)。基準は「キリストが教会を愛されたように」です。キリストが教会をどう愛しておられるかの啓示がなければ、連れ合いを愛する資源も手元にありません。縦が横を満たします。父からのアガペーを味わうとき、周りの人に手渡せる本物が生まれます。

自分が何者かが定まります。 あなたは失敗の総和でも、これまでの成績でも、直近のあやまちでもありません。あなたは愛されている者です。イエスがバプテスマを受けられたとき、父は地上で最も低い場所——海面下四百メートルを超える死海近くのヨルダン川——で「愛する子」と宣言されました。イエスが姿を変えられたとき、父はイスラエルで最も高い場所——標高二千七百メートルを超えるヘルモン山——で「愛する子」と宣言されました。最も低いところでも、最も高いところでも、父の宣告は標高で変わりません


福音の答え

旧約における最も大いなる戒めは、「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記 6:5 口語訳)でした。千五百年の間、これを守ろうとした者はことごとく力尽きました。ダビデも、モーセも、エリヤもです。律法は、堕ちた人間には保てない愛を求めました。

そこにイエスが来られました。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛した、ただひとりの方です。主は律法の求めを満たされました。そして今、神は言われます。「もう十分だ。あなたはわたしを心を尽くして愛せなかった。だからわたしが、わたしの心を尽くしてあなたを愛そう」。

今日、わたしたちは受け入れられるために神を愛するのではありません。神がまず愛してくださったから愛するのです。それが福音のもたらした逆転であり、アガペーの意味です。

上へ送り届けるあなたの愛ではなく、すでに下へ送られている神の愛です。