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よく読まれている記事100件を表示しています

カリスとは何か——「恵み」の意味を一変させるギリシア語

多くの人は「恵み」を、受けるに値しない者への好意、と説明します。間違いではありません。けれども、まだ足りません。ローマを訪れて噴水をひとつ眺め、これが街のすべてだと言うようなものです。 新約聖書で「恵み」と訳されている言葉は (カリス) χάρις — 「恵み、好意、賜物」です。新約に百五十六回、百四十七の節に現れます。パウロが用い、ヨハネは福音書の序文をこの語を軸に組み立て、ルカはイエスの口から...

シャローム——「平和」では足りない

多くの人は、シャロームを「平和」と訳します。それは「家庭」を「建物」と訳すようなものです。間違いではありません。けれども、まだ足りません。 シャロームは、ヘブライ語聖書のなかでもっとも豊かな言葉のひとつです。旧約聖書に二百五十回以上あらわれます。日々のあいさつとして交わされ、軍勢の上に宣言され、預言者たちによって約束され、神ご自身の名にまで刻まれました。御使たちがイエスの誕生を告げたとき、ただ気分...

わしのように、高く

誰かに批判されたとき、嘲られたとき、傷つけるために投げられた言葉を受けたとき、心に走る思いは単純です。 言い返す。 自分を守る。 相手と同じ調子、同じ声の大きさ、同じ高さで応じる。 けれども、そう反応した瞬間に、私たちはすでに降りてしまっています。 相手が用意した地上の土俵で、その勝負に付き合っているのです。 聖書は、もっと良い道を示します。私はそれを わしの原則 と呼んでいます。 信じる者は、す...

セラ——立ち止まるという技

聖書は七十四回、ある言葉をさしはさみます。節の終わりに、たいていは括弧のなかに、ぽつりと置かれています。多くの人は脚注のように見て、そのまま通り過ぎてしまいます。けれども、もしその小さな一語が、聖書のなかで最も実践的な勧めだとしたら、どうでしょうか。 その言葉が「セラ」です。 詩篇に七十一回、ハバクク書に三回。ほかの書には一度も出てきません。預言者も説明せず、使徒も定義しません。それでいて、この語...

聖書は不安について何を語るか

精神医学の教科書と福音書が、同じことを語っています。今この瞬間を生きなさい、と。違いは、福音書がそれを二千年も前に語っていたことです。 不安は新しいものではありません。SNSと二十四時間流れ続けるニュースが生んだ現代病でもありません。ダビデは詩篇にそれを書き残しました。エリヤは生涯最大の勝利の直後にそれを味わいました。パウロは日々それを背負っていました。主イエスさえ、ゲツセマネの園でその重みの下に...

「信者ですか」より先に、聞くべきこと

「クリスチャンとだけ付き合いなさい」——よく耳にする言葉です。 そのとおり、信仰を分かち合えることは大切です。 けれども、この話はしばしば単純にされすぎています。 少し視野を広げてみましょう。ラハブを見てみましょう。 イスラエルの男性に出会うより前に…… 契約の民に嫁ぐより前に…… その名がヘブル人への手紙十一章に記されるより前に…… ラハブの心は、すでにイスラエルの神へと向いていました。 彼女は...

ヘセド ― 追いかけてやまない神の愛

ヘブライ語聖書には、日本語のどの一語にも収まりきらない言葉があります。「あわれみ」「いつくしみ」「変わらない愛」「誠実」「真実」。訳者たちはさまざまに訳し分けてきました。どの訳語も、その一面はとらえています。けれども、すべてをとらえた訳語はひとつもありません。 その言葉が (ヘセド) חֶסֶד — 「契約に根ざした、絶えることのない愛」です。 旧約聖書に二百五十一回現れます。詩篇を満たし、ルツの...

聖書が語る恐れ — 自由にする七つの真理

医者はパニック発作に薬を処方できます。カウンセラーは、思考の枠組みを組み替える術を教えてくれます。けれども聖書は、そのどちらにもできないことをします。恐れがどこから来たのか、だれがそれを打ち破ったのか、そしてなぜそれがもはやあなたの人生に立ち入る権利を持たないのかを、はっきり告げるのです。 恐れは、神が聖書の中で最も繰り返し語られた主題です。「恐れるな」という言葉は、聖書に三百六十五回以上出てきま...

よく愛するための秘訣

パウロは結婚の勧めを、努力から始めません。一人のお方から始めます。 「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。」 エペソ人への手紙 5:25 (口語訳) 多くの人は、これを命令として読みます。けれどパウロは、進むべき方向として書きました。 キリストのように愛することはできません。まずキリストがどう愛しておられるかを見るまでは。 主は教会をどのように愛...

聖餐は儀式ではなく、あずかること

聖餐は儀式でも象徴でもありません。聖書はそれを、思い起こすためのものだと語ります。 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。ルカによる福音書 22:19 (口語訳) ここで用いられているのは (アナムネーシス) ἀνάμνησις — 「記念、思い起こすこと」という言葉です。...

もう力まなくていい――聖書が語る安息

神はすべてのわざを終え、造られたものをことごとく見渡し、それから思いがけないことをなさいました。休まれたのです。疲れたからではありません。すべてが完成したからです。 このひとつの出来事――第七日の安息――が、聖書に記されたあらゆる平安の約束、供給の約束、守りの約束の土台になりました。それなのに、多くの信仰者は今も、安息を「余裕のある人にだけ許された贅沢」のように扱っています。 聖書は安息を付け足し...

羊の門に隠されたことば

エルサレムの城壁が再建されていたとき、聖書はひとつの門に光を当てました。羊の門です。そして、その門に結びついた名前にも。 「時に大祭司エリアシブは、その兄弟である祭司たちと共に立って羊の門を建て」ネヘミヤ記 3:1 (口語訳) エリアシブ、(エルヤシーブ) אֶלְיָשִׁיב — 「神は回復させる」という意味の名です。 そこから、もう少し先へ目を移してみます。 「さらにハンメアのやぐらから、ハ...

至聖所は、あなたの内に

多くの信者は、神のご臨在を「どこかへ入っていくもの」と思い描きます。けれども聖書が教えるのは、それが「携えていくもの」だということです。 パウロはこう書いています。 「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである」コリント人への第一の手紙 6:19 (口語訳) ここで「宮」と訳されている語は (ナオス...

聞く耳を開く鍵

ヨセフの兄弟たちの物語には、一つの霊的な原則が閉じ込められています。 ききんの時、兄弟たちがエジプトに下って来たとき、ヨセフは彼らを回し者だと責めました。意地悪をしたのではありません。彼は心の変化を探していたのです。彼らがなお父の愛を軽んじているのかどうか、それを知る必要がありました。 彼らを試すために、ヨセフはひとりの兄弟を縛り、獄に入れました。その兄弟の名は (シムオン) שִׁמְעוֹן...

山が甘いぶどう酒をしたたらせる

山は、たいてい厳しい場所です。岩だらけで、傾斜がきつく、登るのは容易ではありません。山を見上げて「ここに備えがある」と思う人はまずいないでしょう。私たちが思い浮かべるのは「立ちはだかるもの」です。けれども、神はこう言われます。「山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、もろもろの丘は乳を流す。」 アモス書 9:13 (NKJV より私訳)祝福がどこから来るかに目を留めてください。ほかでもない、山からです。障...

だめな一週間でも、神は動じません

信じている人でも、心のどこかでこう計算してしまうことがあります。「よい一週間だった=神は喜んでおられる」「だめな一週間だった=神は遠ざかっておられる」 けれども、聖書はこう示しています。 「しかし、まだわたしたちが罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」ローマ人への手紙 5:8 (口語訳) その愛が、あなたの成果より先に...

恐れの反対は、信仰ではありません

それは、愛です。 恐れは、愛が足りないところに芽を出します。主イエスの歩みがあれほど力に満ちていたのは、いつも 「父のふところにいる」 ヨハネによる福音書 1:18 (口語訳) お方として生きておられたからです。ふところ——それは、神の温もりと愛のただ中に抱かれている姿です。 「完全な愛は、恐れをとり除く」 ヨハネの第一の手紙 4:18 (口語訳) 。ここで問われているのは、あなたが神を「あなた」...

罪を見るか、御子を見るか

十字架の究極の目的は、何でしょうか。 多くの人は「赦し」と答えるでしょう。あるいは「天国」と答えるかもしれません。けれどもヘブル書の著者は、霊的な成熟をはかる、大胆なものさしを差し出します。もはや罪の意識がない、というものさしです。 「儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の意識がなくなるのであるから」 ヘブル人への手紙 10:2 (口語訳) 宗教は、あなたが自分の汚れをたえず意...

聖書が語る赦し ― 恵みが与える自由

法廷と十字架は、同じことを語ります。負債は支払われた、と。違いがあるとすれば、十字架は、いつか信じるすべての人のために、その人が生まれる二千年も前に支払いを済ませたということです。 赦しは、自己啓発の棚から出てきた新しい思いつきではありません。聖書の中心にある出来事です。エデンから空の墓まで、聖書全体の流れは一つの出来事へ向かって進みます。神が人類の負債を帳消しにし、この勘定は済んだと宣言される出...

罪責感が、嫌いなことを繰り返させる

罪責感が人を変える。多くの人はそう思っています。けれども罪責感が生むのは自由ではなく、たいてい同じことの繰り返しです。 何かに囚われている人をよく見てみると、見えてくるのはいつも同じ構図です。その根っこに、罪責感が座っています。 理由はここにあります。 「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである」ローマ人への手紙 6:14 (口語訳)...

神はあなたの敵ではありません

多くの人が、神はいまも自分を値踏みしておられると思いながら生きています。もっとよくなるのを待たれ、できばえを測られている、と。 けれども聖書は、それよりもはるかに強いことを告げます。 「わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」ローマ人への手紙 5:1 (口語訳) ここで「平和」と訳されている語は (エイレーネー) εἰρήνη — 「平和、戦いの終わった和解の状態」です。敵...

神があなたを見るまなざし

わたしたちは、まず自分の欠けたところに目がいきます。けれども神は、違うものをご覧になります。 キリストがご自分の民をどう見ておられるか。聖書がそれを語るとき、その言葉は、にわかには信じがたいほどです。 「わが愛する者よ、あなたはことごとく美しく、少しのきずもない。」 雅歌 4:7 (口語訳) 神は、わたしたちの弱さを見ないふりをなさるのではありません。キリストが成し遂げてくださったみわざを通して、...

その苛立ちの、本当の理由

いらだちは、目の前にいる人から始まることは、めったにありません。たいていは、自分の内側に居座っている心配から始まります。 口に出せないままの重圧が、小さなことを鋭いことに変えてしまいます。受けとり違えた声の調子が、言い争いになります。何気ないひと言が、深い傷になります。 聖書はこう語ります。 「心に憂いがあればその人をかがませる」箴言 12:25 (口語訳) 心が重荷を抱えているとき、言葉には棘が...

その訓練は、恵みです

「訓練」という言葉を聞くと、信じる者の多くは罰を思い浮かべます。けれども聖書が語るのは、子を形づくってくださる、愛に満ちた父の姿です。 聖書はこう告げます。 「主は愛する者を訓練し」 ヘブル人への手紙 12:6 (口語訳) 。すべての矯正の背後にあるのは、怒りではなく、愛なのです。 矯正は、神があなたを退けることではありません。矯正は、神があなたを守ってくださることです。 父なる神の御心は、ヤコブ...

神は、思うよりも近くに

私たちの多くが、いつのまにか信じてしまっている嘘があります。それは、「神は自分が強いときにだけ近くにいてくださる」という思い込みです。 信仰に満ち、勝利を叫び、山をも動かしているとき、神はすぐそばで喜んでくださる。けれども、落ち込み、疲れ果て、疑いに沈んでいるときは――神は腕を組み、こちらが立ち直るのをじっと待っておられる。私たちはそんなふうに思い描きがちです。 エリヤの物語は、その正反対を証しし...

神との平和は、気分で揺れません

感情は移ろいます。神は変わりません。 近くに感じる日があります。遠く感じる日もあります。けれども、真実はいつも同じところに立っています。 「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」ローマ人への手紙 5:1 (口語訳) 平和 — (エイレーネー) εἰρήνη — 「一時の気分ではなく、定まった状態」 神との平和とは、...

その力は何のために

「神の力」と聞くと、私たちはつい、海が二つに分かれ、天から火が下るような、目を見張る出来事を思い浮かべます。けれども使徒パウロがコロサイの信徒たちのために祈ったのは、それとは少し違うことでした。 彼が祈り求めたのは、彼らが「神の栄光の勢いにしたがって、あらゆる力によって強くされ」ることでした。 その次に続く言葉は、死人がよみがえるような話だろう——そう思うところです。ところがパウロは、神から来る強...

主が顔を隠されたわけ

エマオの物語には、ひとつの問いが残されています。なぜ主イエスは、二人がご自分だと気づかないようにされたのでしょうか。 「わたしだ」と、ひとこと言えばよかったのです。その瞬間に、二人の悲しみは終わったはずでした。 けれども、主はそうなさいませんでした。 「しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。」 ルカによる福音書 24:16 (口語訳) 目がさえぎられたのは、隠すためでは...

すまいに隠された油

神は、飢え渇いて探し求める者のために、御言葉の中に宝を隠しておかれるお方です。 詩篇91篇は、しばしば「守りの詩篇」と呼ばれます。わざわいはあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づかない、と約束されているからです。けれども、その守りは、いったいどこから流れてくるのでしょうか。 それは、あなたがどこに住んでいるか、というところから始まります。 「あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、...

遅れではなく、忍耐

信仰でいちばんつらいのは、たいてい危機そのものではありません。時計の針です。 世を見渡すと、時の流れが狂ってしまったように思えます。人々はあざ笑います。この混乱を眺めながら問うのです。「神はどこにいるのか。これを正すために帰って来ると言うなら、なぜいまだに姿を見せないのか」と。 古くからある問いです。初代教会の人々も、すでに同じことを口にしていました。 「終りの時にあざける者たちが、あざけりながら...

恵みは議論しません

教理をめぐる言い争いが、人を変えることはめったにありません。けれども、変えられた一つの人生は、人を変えます。 主イエスが盲人をいやされたとき、パリサイ人たちは議論を始めました。その人は、議論しませんでした。 「ただ一つの事だけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」ヨハネによる福音書 9:25 (口語訳) それが、恵みのすることです。恵みは、どんな批判よりも長く生き残る物語...

神の心は、いつもいやしへ

病んだ人が主イエスのもとに来るとき、主は必ずいやされます。 ある人だけではありません。わずかな人だけでもありません。「ふさわしい人」だけでもありません。 みな、です。 マタイはこう記します。 「彼らを皆いやし」マタイによる福音書 12:15 (口語訳) マルコも同じ光景を映します。 「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人々をいやし」マルコによる福音書 1:34 (NKJV より私訳) ル...

120%の回復の鍵

失ったものの回復を待ちながら、なぜこんなにも遅いのか、なぜこんなにも遠いのかと、多くの信じる者が首をかしげます。けれども聖書は、こう告げています。 回復は、罪責感が終わるところから始まります。 レビ記を読むと、罪過が認められ、その負いめが供え物へと移されるたびに、回復はただちに続いて起こりました(レビ記 6:5)。奪ったものをそのまま返すだけではありません。それに五分の一を加えて返すのです。百に二...

立ちはだかるものを踏み越えて

わたしたちは、とかく敵の側ばかりに目が利くようになります。問題を探し、「敵」を分析し、何がうまくいかなくなるだろうかと心を煩わせる。そういう癖が、いつのまにか身についてしまうのです。 けれども主イエスは、敵の力について、実に興味深い言い方をなさいました。 「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは、決してない。」 ルカ...

帳簿を閉じるとき

誰かに不当な扱いを受けたとき、人がまず思うのは、傾いた天秤をもとに戻すことです。正義がほしい。事実をはっきりさせたい。理不尽さの重みを肌で感じながら、それを正そうとして、私たちは自分をすり減らしていきます。 けれども、神が見ていてくださると信じる人は、その仕事を下に置いて、休むことができます。 聖書は、はっとするようなことを語ります。あなたを悩ます者たちのことを神が取り扱ってくださる、それは正しい...

福音は重荷ではなく、自由を

新約聖書は、二種類の教えをはっきりと分けています。 一方は自由をもたらします。もう一方は重荷を負わせます。 パウロは幾度もこの問題に向き合いました。福音に規則や儀式、人の努力を混ぜ込みはじめた人たちがいたのです。耳には信心深く響きました。けれども、そこにいのちはありませんでした。 パウロはこう書いています。 「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って...

神は求める方ではなく、満たす方

神と歩むなかで、多くの人がひそかに間違った思い込みを抱えてきました。心の奥に貼りついた、目には見えないチェックリスト。「まだ足りない。もっと頑張りなさい。もっと良くなりなさい」。 それは聖なる声のように響きます。けれども、人を疲れ果てさせます。 そして実は、律法はまさにそのために与えられました。あなたを直すためではなく、自分で自分を直せないと気づかせるために。 「律法はモーセをとおして与えられ、め...

手にする前に、立つ場所

あなたはいつも、まず地上で祝福を形にしようと躍起になっていないでしょうか。その手を、いったん止めてください。神はいつでも天から始め、それから地に及ばれます。順序が逆になると、祈りは空を切ります。 あなたの現実は、状況ではなく身分から始まります。あなたはすでに、地のすべての国民の上に高く置かれている者です。キリストのうちにあって、父の右に座しています。 祝福があらわれるのを求める前に、この立ち位置を...

十分の一は、律法より先にありました

ひとりの人が、自分の持ち物すべての十分の一を、ひとりの祭司に手渡しました。モーセの律法が与えられる四百年以上も前のことです。命令もなく、義務もなく、神殿もありません。あるのはただ、自分を救い出してくださった神への、感謝のこたえだけでした。 その人がアブラハム。そして祭司がメルキゼデクです。 十分の一をめぐる話は、たいてい義務から始まります。「ささげるべきですか」「ささげなければ神に罰せられますか」...

あなたの価値を決めたのは、十字架です

肩書きは、一度の面談で変わります。関係は、一度の会話で終わります。積み上げた読者も、アルゴリズムが一度変われば消えてしまいます。自分の値打ちがそのどれかに乗っているなら、足もとの土台は動き続けていることになります。 聖書は、人の価値という問いを宙ぶらりんにしません。いちばん初めに——創世記1章で答え、そしてもう一度、十字架で答えます。あなたが何かを成し遂げるより先に、神はあなたの値打ちを宣言され、...

期待しないほうが、安全ですか

世の中はこう言います。「あまり期待しないほうがいいよ」。その言葉は、あなたを守るために差し出されます。期待を低く抑えておけば、うまくいかなかったときに落胆せずにすむ——そう考えるからです。 けれども聖書は、まるで逆のことを語ります。「救の望みのかぶと」をかぶりなさい、と。 ギリシア語で「望み」はこの言葉です。(エルピス) ἐλπίς — 「良いことが来るという、確信に満ちた喜ばしい期待」 それは願...

のろいを残さなかった血

多くの信者が、心のどこかに不安を抱えたまま聖餐にあずかってきました。「わたしは、ほんとうに赦されているのだろうか」「わたしの人生には、まだのろいが残っているのではないか」「神は、まだ何かをわたしに対して数え上げておられるのではないか」 けれども主イエスは、この問いに一度きりで決着をつけてくださいました。 杯を取り上げて、主はこう言われました。 「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のため...

イエスが見えると、すべてが変わる

エマオへ向かう二人の弟子は、落胆していました。信仰が足りなかったからではありません。イエスが、話の脇に置かれていたからです。 彼らはこう言いました。 「わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていた」 ルカによる福音書 24:21 (口語訳) 中心にあったのは、イスラエルでした。イエスは、そのための手立てだったのです。 同じことは、今も起こります。問題を解決するために、目標に...

戦場を間違えていませんか

多くの信者が、心の中で「もっとよく従わなければ」ともがき、疲れ果てています。けれども聖書は、こう語ります。 「…すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、」 コリント人への第二の手紙 10:5 (口語訳) ここで語られていないことに、目を留めてください。「あなたの従順に、思いを服従させよ」とは、どこにも書かれていません。原語では (hypakoē) ὑπακοή — 「従順、服従」 が用いられ...

人生のどの季節にも来られるいやし主

いやしは、努力から始まるのではありません。ひとりのお方から始まります。 マラキは、あらゆる傷の上に、静かに、しかし力強く昇る光として、主イエスを描きました。 「しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上って、その翼には、いやす力を備えている。」マラキ書 4:2 (口語訳) これは体の病だけの話ではありません。失ったもの、迷い、痛み——人生のどこであれ傷ついた場所に、主イエスが全きいやしを運ん...

赦しが扉を開く

コルネリオの家の人々に聖霊が下ったのは、「罪のゆるし」という言葉を聞いたときでした。 招きの言葉もありません。音楽もありません。長い祈りもありません。 ただ、一つの言葉だけでした。 ペテロはこう語りました。 「彼を信じる者はその名によって罪のゆるしが受けられる」使徒行伝 10:43 (口語訳) すると、ただちに—— 「それを聞いている人たち一同の上に聖霊がくだった」使徒行伝 10:44 (口語訳)...

愛は人を道具にしません

めったに口にされない誘惑があります。 はでな誘惑ではありません。もっと静かで、気づきにくい誘惑です。 だれかを自分の引き立て役にすること。求められている、うらやましがられている、認められている、意味のある者だ——そう感じるために、人を使ってしまうことです。 主イエスは、SNSが生まれるはるか前から、このことを言い当てておられます。 「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人...

神の時が遅すぎることはありません

神による遅れのただ中にいるとき、私たちはたいていそれに気づきません。ただ、重くのしかかる圧力として感じます。「どうして、よりによって今なのか」と思います。時には、神が黙っておられるようにさえ思えます。 けれども、聖書はこう語ります。 「人の歩みは主によって定められる」詩篇 37:23 (口語訳) 急がされたのでもなく。行き当たりばったりでもなく。定められているのです。 ある家族が、夜の便に間に合わ...

神がダビデを喜ばれた理由

神が私たちを愛しておられることは、だれもが知っています。けれども、「愛されている」ことと「喜ばれている」こととの間には、はっきりとした違いがあります。 ダビデは歴代志上 28:4 で、はっとさせられることを口にしました。「わたしの父の子らのうちではわたしを喜んで、全イスラエルの王とせられた」 歴代志上 28:4 (口語訳) ここで使われているヘブライ語は、(ハーフェツ) חָפֵץ —「喜びとする...

もがくのをやめて、立つ

戦いはあります。目をそらすわけにはいきません。御国のために生きようと心を決めたその時から、必ず抵抗に出会います。 けれども、その戦いにどう身を置くかが問われます。私たちはつい、霊的な戦いを息せき切った攻撃のように思い描きます。敵を組み伏せ、一歩ずつ陣地を奪い取っていく取っ組み合いのように。 けれども、本文を見てみましょう。使徒パウロが「格闘」を意味する語を用いたのは、ただ一度きり。それに対して「立...

行く途中で、きよめられた

重い皮膚病を患う十人の人が、遠くに立ったまま、あわれみを求めて叫びました。イエスがお答えになったのは、そのときにはまだ意味の通らない一つの言葉でした。 「行って、祭司たちにからだを見せなさい」ルカによる福音書 17:14 (NKJV より私訳) けれども、祭司のもとへ行くのは、すでにきよめられた者がすることでした。彼らは、まだそうではありませんでした。 病はそのまま。隔ての壁もそのまま。身に負った...

神の手は、与える手

神さまは手を差し出して、こちらが出せる以上のものを求めておられる——そんなふうに思い描いている信仰者を、私はよく見かけます。けれども、真実はまったく逆です。物語はごく単純なところから始まります。神は与えるかたであり、私たちは受けるかたなのです。 主イエスは、祈りが足りないと言って弟子たちを責めたことも、断食が少ないと叱ったこともありません。けれども「ああ、信仰の薄い者たちよ」とは、たびたび語られま...

あなたの思いも救いの外ではありません

多くの人は、霊の救いと体のいやしについては熱心に語ります。けれども思いについては、衰えていくのが当たり前だと受け入れてしまいます。まるで、そこだけは神が手をつけずに残されたかのように。 けれども聖書は、まさにその領域について、はっきりと語っています。 「しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。」コリント人への第一の手紙 2:16 (口語訳) ここで「思い」と訳されている語は (ヌース) ν...

神があなたを高い場所に置く理由

エステルは王の前に恵みを受け、それを自分ではなく、他の人のために用いました。 エステルは、愛嬌や駆け引きで influence を手にしたのではありません。恵みが、彼女をそこまで運んだのです。 聖書はこう語ります。 「エステルはすべて彼女を見る者に喜ばれた。」エステル記 2:15 (口語訳) 恵みが彼女を高く上げ、あわれみが彼女を導きました。 彼女はその立場を、安らぎのためには使いませんでした。勇...

見つめる者が、変えられる

わたしたちの多くは、力ずくで自分を変えようとします。けれども主イエスは、まなざしによって、わたしたちを変えてくださいます。 パウロはこう言います。 「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」 コリント人への第二の手紙 3:18 (口語訳) 変化は、努力から生まれるのではありません。触れつづ...

愛とは、神そのもの

神が聖であることを、わたしたちは知っています。義であることも知っています。けれども聖書は、それ以上のものを見せようとしています。 「神は愛である」 ヨハネの第一の手紙 4:8 (口語訳) 愛は、神の気分ではありません。愛は、神そのものです。 そして愛は、いつも人のほうへと動きます。愛は与えます。愛は回復させます。愛は満たします。愛は、思っていた以上の恵みと、自分にはふさわしくないと思うほどの忍耐を...

あなたが休むとき、神が働かれます

安息日は、何もしないための日ではありませんでした。それは、歩調を合わせるための日でした——あなたが手を止め、神が働かれるために。 だからこそ、イエスは安息日にこそ、繰り返し人を癒されたのです。反抗ではありません。啓示でした。 「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」ヨハネによる福音書 5:17 (口語訳) 人が休むとき、天が動きます。 けれども宗教の指導者たちは、癒しを人の...

イエスに現された父の心

神とはほんとうにどんなお方なのだろう、と思いめぐらしたことがあるなら、聖書を開いてみてください。 「わたしを見た者は、父を見たのである」ヨハネによる福音書 14:9 (口語訳) 推し量る必要はありません。影はありません。矛盾もありません。 イエスがらい病の人に触れられたとき、それは父の御手でした。イエスが打ちひしがれた者を起こされたとき、それは父の心でした。イエスが虐げられた人をいやされたとき、そ...

狭い門は天国の話ではありません

多くの人は、主イエスの「命にいたる門は狭く、その道は細い」という言葉を聞くと、天国へ通じるごく小さな、限られた者だけの入口を思い浮かべます。けれども、主イエスが語っておられたのは、そのことではありません。 永遠の先のことではないのです。語られていたのは、今の、この命のことでした。 主イエスはこう言われました。 「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」 マタイによる福音...

空の墓は、あなたの領収書

主イエスが十字架にかかられたとき、あなたがこれまでに犯したすべての過ちを、主はその身に負われました。けれども、主がよみがえられたとき、あなたの罪はひとつも、主とともに立ち上がりはしませんでした。 「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」 ローマ人への手紙 4:25 (口語訳) 主の復活は、ただの奇跡ではありません。それは、宣言です。 支...

あなたは罪の咎に死んだ ―― 罪に勝つ順序

パウロの問い —— 「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおその中に生きておれるだろうか」 ローマ人への手紙 6:2 (口語訳) —— これは、問いではありません。思い起こさせる言葉です。この問いに答えるには、キリストがどのように罪に対して死なれたのかを知らなければなりません。 イエスは、罪の力の下に置かれたことが一度もありません。ただの一度もです。主が罪に対して死なれたのは、罪の咎を、その...

アガペーとは何か — 条件をつけない神の愛

ギリシア語には、愛を表す言葉が四つあります。日本語には、ひとつしかありません。このささやかな違いが、歴史上のどんな神学論争にも劣らないほど、神についての誤解を生んできました。 夫が妻に「愛している」と言い、その同じ口で「ピザが大好きだ」と言う。日本語はどちらも同じ棚に並べてしまいます。ギリシア語はそうしません。ギリシア語には、神の愛だけを指す言葉があるのです。あまりに独特なので、初代のクリスチャン...

巨人は、あなたの糧

問題をどう見るかによって、その問題の中にとどまる時間の長さが決まります。 十二人の斥候が約束の地に入ったとき、そのうちの十人は震えながら戻ってきました。豊かな実りを見たのは確かです。けれども同時に、高い城壁と巨人たちも見てしまったのです。そして彼らは言いました。自分たちは、いなごのようだ、と。 ところが、ヨシュアとカレブの二人は、まったく同じ巨人を見ながら、まったく違う結論にたどり着きました。 「...

先に行かれる神

私たちは、神が助け出してくださった苦しみについては、よく感謝します。けれども、そもそも足を踏み入れずに済んだ苦しみについて、感謝することはめったにありません。 神のご性質には、どこまでも先手を打つ一面があります。神はあなたの傍らを歩まれるだけではありません。あなたの前を歩いておられるのです。 「わが神はそのいつくしみをもって、わたしを迎えられる。」 詩篇 59:10 (口語訳) ここで「いつくしみ...

待たせるほどの愛

ラザロの物語には、私たちがつい読み飛ばしてしまう、不思議な一節があります。 主イエスのもとに、友が死にかけているという知らせが届きます。主が愛しておられたラザロが、病に伏している。ふつうなら、すべてを置いて駆けつけられるはずです。愛とは急ぐもの、そう思うのが人の常でしょう。 ところが聖書は、正反対のことを記します。 「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。ラザロが病気であることを聞...

つぶやけば、そこに留まる

つぶやきというものを、私たちはつい「悪い癖」くらいに考えます。けれどもヘブライ語をたどっていくと、それは癖などではなく、罠であることが見えてきます。 「つぶやく」にあたるヘブライ語は、こうです。(ルーン) לוּן — 「夜を過ごす、宿る、留まる」 同じ一つの語が、口語訳では場面によって訳し分けられています。ルツ記 1:16 では「宿る」と訳され、民数記 14:2 では「つぶやく」と訳されています...

その毒を飲まないでください

苦々しさは、伝染します。 聖書は、「苦い根」がはえ出ることのないように気をつけなさい、と警告します。その根がはえ出るとき、毒がまわるのは、怒っている本人だけではありません。「それによって多くの人が汚される」と言われているのです。 苦々しさを抱えた人の言葉に耳を傾けるとき——それが顔を合わせての会話であれ、画面越しであれ——あなたはその人が調合したものを、いっしょに飲んでいます。その毒を、体の中に取...

休みが奇跡に場所をあける

奇跡は、声高ではありません。劇的な演出をともなうものでもありません。それはたいてい、いちばん静かな場所から始まります——休むところから。 主イエスは病む人をいやし、からだを回復させ、心を縛るものを解き、たましいを強くしてくださいます。けれども、そのなさり方は、主ご自身が示してくださった型のとおりです。 「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」ヨハネによる福音書 5:17 (...

いやしは子供たちのパン

娘をいやしてくださいと必死にすがった母親に、主イエスがお答えになった言葉は、はじめ、冷たく響きます。 「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」マルコによる福音書 7:27 (口語訳) けれども、耳を澄ませてみてください。主はいやしを「褒美」とも「祝福」とも「奇跡」とも呼ばれませんでした。 主はそれをパンと呼ばれたのです。 パンは、特別なもの...

いやしは父の心

会堂での、ある一場面。そこに、神をどう見るかという、正反対のふたつの眼差しが浮かび上がります。 十八年ものあいだ腰が曲がったままの女性が、入ってきます。イエスは彼女を呼び寄せ、その上に手を置き、まっすぐな体へと戻してくださいました。 ところが、会堂司は憤ってこう言うのです。 「働くべき日が六日間ある。その間に来て、なおしてもらうがよい。安息日にはいけない」ルカによる福音書 13:14 (口語訳)...

ゴールから生きる

神が七日目に休まれたのは、疲れ果てておられたからではありません。何ひとつ、やり残しがなかったからです。 創世記はこう記します。 > > 「神は第七日にその作業を終えられた。……そのすべての作業を終って第七日に休まれた」 > 創世記 2:2-3 (口語訳) > そしてヘブル人への手紙には、こうあります。 > > 「みわざは、世の基が置かれた時から、すでに成し終えられていた」 > ヘブル人への手紙 4...

天の第一声は、いつも「恐れるな」

クリスマスの物語に静かに耳を澄ませてみると、ひとつの型が浮かび上がってきます。 天が地に触れるたび、最初に響いた言葉は、いつも同じでした。 「恐れるな」 ザカリヤに—— 「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ」ルカによる福音書 1:13 (口語訳) マリヤに—— 「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです」ルカによる福音書 1:30 (口語訳) ヨセフに—— 「...

世界は狭くなったのに

SNSは世界をひとつにつなぎ、距離を縮めると約束しました。けれども実際に積み上がっているのは、重いうつが増え続けているという記録です。 パウロはテモテに、終わりの日には自分を愛する者、大言壮語する者、高慢な者が現れると警告しました。終わりのない流れを指でたどるとき、私たちが見ているのは、まさにその人間の誇りと「当然だ」という思いを、濃く煮詰めて並べた陳列にほかなりません。 「しかし、このことを知っ...

墓を通り越す世代

イエスは、死に対する私たちの見方を根本から変える、一つの区別を語られました。 マルタに向かって語られたとき、主はありふれた慰めの言葉をかけられたのではありません。二つの異なる信者の群れについて、はっきりとした預言をお与えになったのです。 「イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない...

造り主の取扱説明書

手のひらに収まる一冊の本が、あなたの人生にとっての「造り主の取扱説明書」になります。 そこには答えがあります。けれども、それ以上に力あるものが収められています。いのちです。 聖書は、聖書そのものについてこう語ります。「神の霊感を受けて書かれたものであって」。ギリシア語では、これはたった一つの言葉で言い表されています。(theopneustos) θεόπνευστος — 「神が息を吹き込んだ」...

四つの不思議

箴言三十章を書いたアグルは、知恵ある人でした。それでも彼は、自分には到底悟りきれない four つのことがある、と正直に打ち明けています。いえ、四つのこと、と言い直しましょう。 「わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや、四つあって、わたしには悟ることができない。すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上をはうへびの道、海をはしる舟の道、男の女にあう道である。」 箴言 30:18-19 (口語...

知恵は、時を買い戻す富

私たちは、失敗を避け、重圧を振り切り、「正しい」選択をしようとして、ずいぶんな力を使います。けれども、もっと良い道があります。 「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は……神に願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」ヤコブの手紙 1:5 (口語訳) 知恵とは、頭の良さではありません。神によって形づくられた洞察です。誤った戦い、誤った関わり、誤った約束に足を踏み入れずに済...

使徒たちは何のために死んだのか

使徒たちは福音のために死んだのであって、道徳的な主義主張のために死んだのではありません。 殉教者が命を捧げるのは、より良いふるまいのためではありません。より良い知らせのためです。 使徒行伝4章で、当局が使徒たちを脅したのは、彼らが道徳を説いたからではありません。彼らが、こう宣べ伝えたからです。 「この人による以外に救はない」 使徒行伝 4:12 (口語訳) 初代教会が迫害されたのは、倫理を語ったか...

終わったと思った結婚を、神は建て直されます

壊れた結婚は、ある一瞬で壊れるのではありません。少しずつ、削られていくのです。とげのある一言。冷たい沈黙。やがて当たり前になってしまう距離。 そして、決定的に思える出来事が起こります。信頼が崩れる。相手の心が背を向ける。そして心のどこかでつぶやくのです。もう、これで終わりなのかもしれない。 けれども神は、終わりに見えるところから始められる方です。 聖書はこう語っています。 「主は心の打ちくだかれた...

義は勲章ではなく、贈り物

義は、年月をかけて少しずつ身についていくものではありません。信じたその瞬間に、あなたの上に置かれたものです。 パウロはこう書いています。 「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」コリント人への第二の手紙 5:21 (口語訳) ここでパウロが用いたのは (ゲノーメタ) γενώμεθα — 「なる」という語で、一点の出...

思いわずらいが供給をせき止める

神の供給は、絶えることがありません。注がれつづける油のように、静かに、豊かに流れています。 主イエスは言われました。 「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って、思いわずらうな。……あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」 マタイによる福音書 6:31-32 (口語訳) ペテロの手紙には、こう記されています。 「神はあなた...

安息は逃避ではなく、調律です

イエスが、ご自分の与える祝福を語られたとき、選ばれた言葉はひとつでした。 「わたしのもとにきなさい。……あなたがたを休ませてあげよう」 マタイによる福音書 11:28 (口語訳) 知恵も、力も、権威も——挙げようと思えばいくらでも挙げられたはずです。けれども主が口にされたのは、安息でした。 安息とは、何もしないことではありません。御霊に導かれて動くことです。 ヘブル人への手紙は、こう告げます。 「...

かすんだまなざしが、また開くとき

何も悪いことは起きていないのに、どうにも心がかすんで見える日があります。世界が暗いからではなく、内側のまなざしが疲れているからです。 聖書は、それが今に始まったことではないと語ります。堕落の前、アダムとエバの霊の目は閉じていました。彼らに見えていたのは、神のいつくしみだけでした。ところが善悪を知る木を選んだとき、その目は思わぬ方へ開かれます(創世記 3:7)。神の豊かさではなく、自分に欠けているも...

からだは神の宮

敵の手口は、いつも決まっています。まず人を孤立させ、やがてその人自身の手で自分を損なわせるのです。マルコによる福音書五章は、ガダラ人の地で、墓場に住みついた一人の人の姿を伝えています。 「そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。」 マルコによる福音書 5:5 (口語訳) この人の状態には、三つのしるしがありました。ひとつは、人から離れて孤立していたこと。ひとつ...

なぜ神は混乱を止めないのか

神は傑作を造られました。天と地を造り終えられたとき、神はただ「良い」と言われたのではありません。「はなはだ良かった」と言われたのです。 そしてそのあと、神は危険とも思える一手を打たれました。人に鍵を手渡されたのです。 神は人に支配権をお与えになりました。この地に対する権威を、私たちの手に委ねられたのです。ところが悲しいことに、最初の人アダムは、偽り者の側に立ってしまいました。あの嘘に耳を貸すことを...

収穫が、種まきを待たない日

自然の世界には、必ず「間(ま)」があります。 十月に種をまき、冬の間じっと待ち、四月に刈り取る。働きと報いとの間には、幾月もの沈黙があり、幾月もの待つ時間があります。 けれども神は、その時間割そのものが畳まれてしまう季節を約束しておられます。 「主は言われる、見よ、このような日が来る。その日には、耕す者は刈る者に相継ぎ、ぶどうを踏む者は種をまく者に相継ぐ……」 アモス書 9:13 (口語訳) 思い...

見つめる者が、変えられる

自分をよくしようとする努力は、くたびれます。私たちは、自分の力で自分を引き上げようとします。意志の力、規律、そして恥の感覚を使って、もっとましな人間になれと自分を追い立てます。怒りを減らそう、忍耐を増やそう、恐れをなくそう、と。けれども聖書は、変化について、まったく別の仕組みを差し出します。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて...

神の愛の言語

人にはそれぞれ、こう愛されたらうれしいという形があります。神もまた、同じです。主は、ご自分をどのように覚えていてほしいかを、はっきりと言い残してくださいました。 主イエスは「わたしを記念して記念碑を建てなさい」とは言われませんでした。言われたのは、こうです。 「わたしを記念するため、このように行いなさい」 ルカによる福音書 22:19 (口語訳) 聖餐のことです。パンと杯のことです。 聖餐にあずか...

墓の石が動く前に、宣告は下っていました

レビ記には、心に留めておきたい一つの絵があります。一羽の鳥は、らい病の人が清いと宣告されるまで、放たれることがありませんでした。 それは、主イエスのあがないのわざの影です。 キリストは死から解き放たれることができませんでした。あなたが義と宣告されるまでは。 パウロはこう書いています。 「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」ローマ人への...

ダビデが開かなかった部屋

私たちの心には、できれば閉じたままにしておきたい部屋があります。触れられたくない、名前をつけられたくない、覗かれたくない場所です。 ダビデもまた、それを知っていました。 彼はほとんどすべてを神のもとへ携えていきました。恐れも、怒りも、受けた不当な仕打ちも、失望も、混乱も、そしていちばん暗い感情までも。 「主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。」詩篇 13:1 (口語訳)...

あがないは天国だけの話ではありません

死んだあと、人はどうなるのか。多くの人がそれを思い巡らしてきました。けれども主イエスは、死んだ後の永遠を確保するためだけに来られたのではありません。今、命をもたらすために来てくださいました。 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」ヨハネによる福音書 3:16 (口語訳) 永遠の命は、あなたが息を引き取る日に始...

ヨセフに律法は必要なかった

ヨセフは、十戒のない時代に神の臨在を生きました。 律法があるより先に、交わりがありました。神が「姦淫してはならない」と語られるよりも前に、ヨセフはすでに、神がかたわらに立っておられるかのように歩んでいたのです。 彼の言葉が、そのすべてを語っています。 「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょうか」 創世記 39:9 (口語訳) 石の板はありません。戒めの言葉もありま...

愛には、時があります

結婚がまだ遠い日にある恋は、いつのまにか、自分たちでは担いきれない道へと二人を連れて行きます。 人を慕う心そのものに、悪いところはありません。けれども、それが贈り物になるか、重荷になるかを決めるのは、時なのです。 約束を交わすにはまだ何年も早いのに、二つの心が結ばれてしまうと、その関係は自然と前へ前へと進んでいきます。二人が担える速さを、はるかに超えて。 はじめは、手をつなぐだけで胸が高鳴ります。...

小さなことの神

主イエスは、かつてこう言われました。 「またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。」マタイによる福音書 10:30 (口語訳) おおよその見積もりではありません。一本ずつ、数えられているのです。ここで用いられているギリシア語は (アリスメオー) ἀριθμέω — 「数える、一つ一つ数え上げる」。しかも完了形で記されていて、すでに数え終えられ、その結果が今もそのまま保たれていることを表しま...

イエスは、負債以上を払われた

返しきれない借りを、だれかに負っているところを思い浮かべてみてください。その人の顔を見るたびに、負っているものの重さが胸に迫ります。 そこへ、だれかが割って入り、その全額を払ってくれる。いいえ、それどころか、余りあるほど多く払い、貸していた人が前よりも豊かになってしまう——そんな光景を思い描いてみてください。 主イエスがなさったのは、まさにそれです。 帳尻を合わせてくださったのではありません。払い...

「罪に定められない」の本当の意味

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」ローマ人への手紙 8:1 (口語訳) ここで用いられている (oudeis) οὐδείς という語は、「ない、一つもない、ただの一つも、まったく何も」という意味です。すべての扉を閉ざす言葉です。例外を一つも残しません。天が決して越えることのない一線を、ここに引いています。 いちばん情けない一日にも、罪に定められることは...

健やかさを保つ秘訣

食べものでは、どうしても届かない飢えがあります。 食べてみます。 楽しいもので気をまぎらせてみます。 別のことに心を向けてみます。 それでも、どこかが空いたままです。 聖書は、その正体を言い当てます。 「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」マタイによる福音書 4:4 (口語訳) からだが空腹を覚えるように、霊もまた飢えます—— そして、それを養うものは、...

心に描くものが、あなたになる

アブラハムが「多くの国民の父」となったのは、自分を奮い立たせたからではありません。神が新しい心の絵を与えつづけ、その内側の世界が造り変えられていったからです。 同じように聖書は、私たちを打ち壊すような心の絵を、神が描かれるいのちの絵に置き換えるよう招いています。 「彼は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」 詩篇 1:3 (口語訳)...

神のいつくしみからは逃げきれません

祝福を追いかけるようにして、一生を費やす人がいます。けれども、義とされた者は、その必要がありません。 「わたしの生きているかぎりは、恵みといつくしみとが、わたしを追うでしょう」 詩篇 23:6 (口語訳) ここで「追う」と訳された言葉は、のんびり後からついて来るという意味ではありません。ヘブライ語では (ラーダフ) רָדַף — 「追いかける、追跡する、追いつめる」。狩る者が獲物を追うときの言葉...

限界は、神の側にはありません

私たちはいつも、何か新しいものを待っています。突破口、思いがけない実り、どこか「向こう側」から降ってくる奇跡。そして足りないものばかりを数えます。お金が足りない、力量が足りない、影響力が足りない。だから答えは、外からやってくる大きな何かに違いないと思い込むのです。 けれども神は、まったく別の問いを立てられます。 「あなたの手にあるそれは何か」 出エジプト記 4:2 (口語訳) モーセが国家の危機を...