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検索語: “アイデンティティ”

20件の記事が見つかりました

キリストだけが埋められる空洞

午前一時、ひとりの青年がベッドに横たわり、顔から十五センチのところにスマートフォンを掲げています。浜辺にいる女の子、友人の新しい車、行ったこともない街に住む見知らぬ誰かの部屋。指を滑らせ、いったん置き、また手に取り、また滑らせる。そして明日の朝、彼は今夜よりもう少し気分が沈んでいるのです。 彼は、他人を通して生きています。他人の目で世界を眺め、他人のいちばん良い瞬間と自分を並べてしまう。結果は目に...

自分探しは、イエスを仰ぐことから

多くの人が、聖書を自己改善の手引きのように読んでいます。よりよい人間になるための規則や公式、段取りを求めてページを開く。そうして本文の中に、自分自身を探そうとするのです。 けれども、自分を見つめることで本当の自分が分かることはありません。自分が何者かは、イエスを仰ぐときに分かるのです。聖書のいちばんの目的は、イエス・キリストを明らかにすることにあります。主を見るために——その麗しさ、そのみわざ、そ...

人に気に入られたい心の正体

サウルは人を恐れて、王座を失いました。ダビデは神に愛されていることを知っていたので、王座を保ちました。この二人の王を分けたものは、人の承認の上に築かれた人生と、神の受け入れの上に築かれた人生の違いです。 人に気に入られようとすること――それは性格の問題ではありません。霊のありようの問題であり、聖書はそこに正面から触れています。「人に取り入る者」を指すギリシア語から、世論に膝を折った王の物語まで、聖...

与えられた地を歩く

「自分のものにする」と聞くと、私たちはたいてい戦いを思い浮かべます。地を取るとは、汗を流し、力を尽くし、勝ち取ったものをどうにか守り抜くこと——そんな連戦の日々を想像するのです。けれども神が約束の地についてヨシュアに語られたとき、用いられたのは、その思い込みを根もとから覆す一語でした。「わたしは、すでに与えた」。 「あなたがたが足の裏で踏む所は、わたしがモーセに言ったとおり、ことごとくあなたがたに...

祝福される人から、祝福になる人へ

神がイサクに語りかけられたとき、「祝福する」に、ある特定の言葉が用いられました。 「この地にとどまりなさい。わたしはあなたと共にいて、あなたを祝福し」 創世記 26:3 (口語訳) ここで使われているヘブライ語は (バーラク) בָּרַךְ です。これは動詞——祝福するという働きそのものを指します。神が今まさに、恵みと増し加えと力を、あなたの人生に注いでおられる、その動きです。 けれども神のご意...

短気になるのは、恵みが尽きているから

律法は要求します。 恵みは供給します。 子どもに要求ばかりを突きつける親を思い浮かべてみてください。「どうしてもっとちゃんとできないの。なぜ怒るの。変わりなさい。やめなさい」。これが律法の声です。欠けを言い当てはしますが、それを直す力は少しも与えてくれません。 恵みは、同じ問題にまったく別の仕方で近づきます。行いを変えるために必要な「자기」ではなく、まず新しい身分を供給するのです。「あなたはこんな...

履歴書を捨てたパウロ

パウロは、同時代の誰よりも輝かしい宗教的経歴の持ち主でした。八日目の割礼。パリサイ人。律法の基準から言えば、非のうちどころがない。ところが彼は、その一切を投げ捨てたのです。 なぜ、あれほどの肩書を手放したのでしょうか。肩書では決して買えないものを、見つけたからです。 義には二種類あります。自分で造り出す義と、与えられて受け取る義です。前者は律法から来ます。努力を重ね、自分を量り、記録を磨き上げる。...

喜びは、どこへ向かうか

踊ることは本能です。喜びを表すようにと神が造られたのです。ただ、その向き先と安全は大切です。 子どもに踊り方を教える必要はありません。音楽を鳴らせば、内側にあるものが自然に動きだします。 ダビデもそうでした。 「ダビデは力をきわめて、主の前に踊った」 サムエル記下 6:14 (口語訳) 喜びは、神が私たちの内に組み込んでくださったものです。けれども神は、その喜びがどこへ向かうかをも心にかけておられ...

老いを世の物差しで測らない

今、信じる者と世との間でいちばん際立って見える違いのひとつは、老いをめぐる見方です。からだは弱り、記憶はかすみ、それはもうどうにもならない——世はそう言います。 けれども、この思い込みをくっきりと照らし出す三人の姿を、ご一緒に見ていきたいのです。 まずヨシュア。イスラエルを約束の地へ導き入れた指導者です。その生涯の終わりに近いころ、神はこう言われました。 「あなたは年が進んで老人となったが、取るべ...

石に代わって、神の恵みが

イエスが死んだ少女をよみがえらせるためにヤイロの家に入られたとき、共に伴われた弟子はたった三人でした。ペテロ、ヤコブ、ヨハネです。 その三つの名前が、ひとつのメッセージを語っています。 ペテロ — (ペトロス) Πέτρος — 「石」ヤコブ — (イアコーボス) Ἰάκωβος — 「押しのける者、取って代わる者」に由来しますヨハネ — (イオーアンネース) Ἰωάννης — 「神は恵み深い」...

あなたは小さな人生のために造られていません

多くの人は、日々を仕事と用事と、たまの休みの繰り返しのように過ごしています。けれども神は、あなたのために、それとは別の計画を用意しておられます。 あなたは、生まれるより前から定まり、一生の長さでは収まりきらない使命を負っています。 パウロは、神の夢をこう描いています。 「それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。」エペソ人...

攻撃されるのは、道を外れていない証拠

霊的な攻撃を受けると、自分が何か間違ったことをしたせいだと考える人がいます。けれども多くの場合、事実はその逆です。 主イエスはこう言われました。 「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。」ヨハネによる福音書 10:10 (口語訳) 盗人は、空っぽの家には押し入りません。宝の置かれている場所をこそ狙うのです。 敵は、あなたのまなざしに宿る安らぎを憎みます。あなたの語り...

シナイか、シオンか

多くの信じる者が、まちがった山のふもとに天幕を張ったまま、そこで一生を過ごしています。 聖書は、二つの霊的な場所を並べて示します。シナイの山と、シオンの山です。 シナイは、律法が与えられた場所です。隔たりの場所、雷鳴の場所、身の震える場所。あまりの恐ろしさに、神の友と呼ばれたモーセさえ、揺さぶられたほどでした。 その光景が恐ろしかったので、モーセさえも、「わたしは恐れおののいている」と言った。 ヘ...

栄光へと導かれて

私たちは罪を、規則を破ること、悪い行いをすることだと考えがちです。けれども聖書は罪を、神の栄光に達しないことと語ります。それは行いの失敗である以前に、立場の喪失であり、住む場所の喪失なのです。 ですから救いとは、あなたを地獄から遠ざけるだけのものではありません。あなたを栄光へと連れ戻すことなのです。 「そもそも、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、...

がんばる信仰から、受ける信仰へ

多くの人は、自分を奮い立たせることで神に従おうとします。もっと節制を、もっと努力を、もっと真心を、と。 けれども、真実はそれとは違うところにあります。 「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」ヨハネの第一の手紙 5:3 (口語訳) なぜ、むずかしくないのでしょうか。新しい契約は、シナイ山のような仕方で命じないからです。それはむしろ、医者が患...

働く前に、愛されている

ひとりの病人をいやされる前に、イエスはヨルダン川に立っておられました。水をぶどう酒に変えてもいません。パンを増やして飢えた人々を満たしてもいません。群衆に向かって語られたこともありません。奇跡は、まだ一つも行っておられなかったのです。 それでも、水から上がられたその時、天が開け、父が声をあげられました。 「また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」マタイに...

歩みの前に、豊かさを

エペソ人への手紙には、はっきりとした設計図があります。 前半の三章は、あなたが何を持っているかを語ります。後半の三章は、あなたが何をするかを語ります。この順序に意味があります。「召にふさわしく歩きなさい」と告げられる前に、あなたはまず、キリストにあってどれほど富んでいるかを聞かされるのです。 パウロは、わたしたちの立ち位置を言い表すのに、ひとつの語を選びました。(kharitoō) χαριτόω...

譲り渡された権威

法的に、あるいは制度として見るとき、権威とは感じ取るものではなく、代表するものです。主イエスは「いっさいの権威」がご自分に与えられたと言われ、そのうえで、その立場をご自分に従う者たちに委ねられました。 「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたので、あなたがたを害するものは、決して何もない」 ルカによる福音書 10:19 (口語訳) これは実務としての委譲...

ありふれない、という生き方

きよさには、イメージの問題があります。 私たちはいつのまにか、きよさを「自分は他人より正しい」という態度と結びつけてしまいました。冷ややかで、人と距離を置き、裁くまなざし。高い台の上に立って、世を見下ろしている姿を思い浮かべるのです。 けれども、それはきよさではありません。高ぶりです。 ヘブライ語で「聖なる」は (カドーシュ) קָדוֹשׁ — 「選び分けられた、他と分けられた、聖なる」。ギリシ...

至聖所のことば

わたしたちは、霊と魂と体という三つからなる者です。それは、古代の幕屋の姿をそのまま映しています。外庭は体、聖所は魂、そして至聖所は霊にあたります。 日々の暮らしの大半は、はじめの二つの場所で営まれています。体で感じることに目を向け、心で考えることに時間を費やす。けれども、異言をもって祈るとき、あなたは至聖所から――霊なる人として――神の前に立っているのです。 「しかし、愛する者たちよ。あなたがたは...