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ハレルヤの意味とは?救いのあとに歌われる賛美
葬儀の席の後ろのほうに立っていた一人の男性が、聖歌隊の歌う「ハレルヤ」を耳にします。二週間後、クリスマスコンサートで同じ言葉を聞き、さらにラジオから流れるラブソングの中でもまた聞きます。ハレルヤとは「主をほめたたえよ」という意味です。 ヘブライ語のハレルー・ヤーという句で、人々に向かって、ヤハ、すなわち神の御名の短い形で呼ばれる方をほめたたえるよう呼びかける言葉です。 これが辞書の答えです。けれど...
検索語: “エペソ人への手紙”
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葬儀の席の後ろのほうに立っていた一人の男性が、聖歌隊の歌う「ハレルヤ」を耳にします。二週間後、クリスマスコンサートで同じ言葉を聞き、さらにラジオから流れるラブソングの中でもまた聞きます。ハレルヤとは「主をほめたたえよ」という意味です。 ヘブライ語のハレルー・ヤーという句で、人々に向かって、ヤハ、すなわち神の御名の短い形で呼ばれる方をほめたたえるよう呼びかける言葉です。 これが辞書の答えです。けれど...
ダビデには三十七人の勇士がいました。その名は、サムエル記下の終わりに、戦没者の碑のように並べられています。城門の攻防や、燃え上がる塔の物語を期待するところです。 ところが、そこに記されているのはこれです。 「彼の次はハラルびとアゲの子シャンマであった。ペリシテびとが一団となって集まったところに、レンズ豆の茂った地所があった。民はペリシテびとの前から逃げた。しかし彼はその畑の真ん中に身を置き、これを...
ギデオンは酒ぶねの中に身を隠していました。モーセは「どうか、ほかの人を」と神に願いました。エレミヤは「わたしはまだ若い」と言いました。神に召された三人。そのだれもが、自分こそこの務めにふさわしくない人間だと思い込んでいたのです。 自信のなさは、現代に生まれた病ではありません。SNSや人事評価とともにやって来たものでもありません。それは堕落のときから人と共にありました。アダムとエバが神を避けて身を隠...
ある父親は、毎晩息子のベッドのそばにひざまずいて祈ります。けれども、庭でいっしょにボールを蹴ったことは一度もありません。十五歳になるころには、息子は部屋のドアをたたく音に身をこわばらせるようになっていました。 別の父親は、毎週土曜日になると娘とレゴの塔を組み立てます。けれども、娘といっしょに祈ったことはありません。娘は楽しい父親のもとで育ちましたが、神が自分の声を聞いてくださるという実感を持たない...
サウルは人を恐れて、王座を失いました。ダビデは神に愛されていることを知っていたので、王座を保ちました。この二人の王を分けたものは、人の承認の上に築かれた人生と、神の受け入れの上に築かれた人生の違いです。 人に気に入られようとすること――それは性格の問題ではありません。霊のありようの問題であり、聖書はそこに正面から触れています。「人に取り入る者」を指すギリシア語から、世論に膝を折った王の物語まで、聖...
多くのクリスチャンが、「救われた」という言葉を知っています。けれども、その言葉の背後にあるギリシア語 — ソーゾー — が、同時に「いやされた」「救い出された」「全きものとされた」「守られた」という意味を持っていることを知る人は、それほど多くありません。一つの言葉が、そのすべてを抱えているのです。 これは小さなことではありません。神は初めから、救いをあなたのたましいのところで止めるおつもりなどなか...
使徒パウロは、エペソの信徒たちのために深い祈りをささげました。知恵と啓示との霊を受けるようにと願ったのです。そして、その霊的な知恵がどのように働くのかを、はっきりと言い表しました。それは、心の目が明るくされるときに起こる、と。 原文のギリシア語で「心」にあたる語は (ディアノイア) διάνοια — 「理解力、思い、想像」です。「明るくされる」にあたる語は (フォーティゾー) φωτίζω —...
頭が止まってくれません。夜、床に入ると、思いの群れが口々に叫び出します。交わした会話を何度も巻き戻し、まだ起きてもいない災いを予行演習し、存在してもいない問題を解こうとする。そして止めようとすればするほど、頭の中の音量は上がっていきます。 聖書には、この状態を指す言葉があります。いいえ、二つあります。 ギリシャ語の (メリムナオー) μεριμνάω — 「いくつにも分けられる」。十の方向へ引き裂...
シナイ山で、イスラエルは仲立ちをする人を求めました。 神が山の上に降られ、人々はそのふもとに立っていました。けれども彼らは、自分から近づこうとせず、モーセを前に押し出したのです。 「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」 出エジプト記 20:19 (口語訳) この本能は、今も私たちから離れてい...
多くの人は、日々を仕事と用事と、たまの休みの繰り返しのように過ごしています。けれども神は、あなたのために、それとは別の計画を用意しておられます。 あなたは、生まれるより前から定まり、一生の長さでは収まりきらない使命を負っています。 パウロは、神の夢をこう描いています。 「それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。」エペソ人...
聖書において、油はただの調味料ではありません。それは聖霊と、その力を指し示すしるしです。 ヤコブの手紙には、病んでいる人に油を注いで祈る場面があります。癒すのは油そのものではありません。その油が指し示している、御霊の力です。 けれども御霊は、癒すだけのお方ではありません。守ってくださるお方でもあります。聖書はこう語ります。 「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救...
ギリシア語には、愛を表す言葉が四つあります。日本語には、ひとつしかありません。このささやかな違いが、歴史上のどんな神学論争にも劣らないほど、神についての誤解を生んできました。 夫が妻に「愛している」と言い、その同じ口で「ピザが大好きだ」と言う。日本語はどちらも同じ棚に並べてしまいます。ギリシア語はそうしません。ギリシア語には、神の愛だけを指す言葉があるのです。あまりに独特なので、初代のクリスチャン...
エペソ人への手紙には、はっきりとした設計図があります。 前半の三章は、あなたが何を持っているかを語ります。後半の三章は、あなたが何をするかを語ります。この順序に意味があります。「召にふさわしく歩きなさい」と告げられる前に、あなたはまず、キリストにあってどれほど富んでいるかを聞かされるのです。 パウロは、わたしたちの立ち位置を言い表すのに、ひとつの語を選びました。(kharitoō) χαριτόω...
ひとりの人が、自分の持ち物すべての十分の一を、ひとりの祭司に手渡しました。モーセの律法が与えられる四百年以上も前のことです。命令もなく、義務もなく、神殿もありません。あるのはただ、自分を救い出してくださった神への、感謝のこたえだけでした。 その人がアブラハム。そして祭司がメルキゼデクです。 十分の一をめぐる話は、たいてい義務から始まります。「ささげるべきですか」「ささげなければ神に罰せられますか」...
創世記二十四章で、アブラハムは名の記されていないしもべを遣わし、息子イサクのために花嫁を探させます。この史実は、今日の聖霊のみわざを映し出す一枚の絵です。二千年のあいだ、聖霊は御子イエス・キリストのために、一人の花嫁――すなわち教会――を整えつづけてこられました。 この関係を知るには、古代ユダヤの婚礼のならわしに目を向ける必要があります。神が人の慣習をまねられたのではありません。ご自身のご計画を目...
医者はパニック発作に薬を処方できます。カウンセラーは、思考の枠組みを組み替える術を教えてくれます。けれども聖書は、そのどちらにもできないことをします。恐れがどこから来たのか、だれがそれを打ち破ったのか、そしてなぜそれがもはやあなたの人生に立ち入る権利を持たないのかを、はっきり告げるのです。 恐れは、神が聖書の中で最も繰り返し語られた主題です。「恐れるな」という言葉は、聖書に三百六十五回以上出てきま...
私たちはしばしば、苦しみと喜び、つまずきと祝福を、同じ一本の時間軸の上に並べて眺めます。どちらも同じ重さを持つかのように。けれども聖書は、私たちの人生にもう少し違うかたちを——別の幾何学を描いています。 「悪しき日」と「さいわいな日々」。この二つには、はっきりとした違いがあります。 「それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」 エペ...
聖書は七十四回、ある言葉をさしはさみます。節の終わりに、たいていは括弧のなかに、ぽつりと置かれています。多くの人は脚注のように見て、そのまま通り過ぎてしまいます。けれども、もしその小さな一語が、聖書のなかで最も実践的な勧めだとしたら、どうでしょうか。 その言葉が「セラ」です。 詩篇に七十一回、ハバクク書に三回。ほかの書には一度も出てきません。預言者も説明せず、使徒も定義しません。それでいて、この語...
使徒パウロは、使徒たちの中でも最も偉大な人物と見られています。新約聖書の多くの書簡は、彼の筆によるものです。働きが広がるにつれて、その自信もまた高まっていった——そう思うのが自然でしょう。 ところが、彼の手紙を書かれた順に並べてみると、まったく逆の軌跡が浮かび上がります。 働きの初めのころ、コリントの人々にあてた手紙で、彼は自分を他の指導者たちと比べています。「わたしは、使徒の中で最も小さい者であ...
かつてダビデは、神の臨在のしるしである契約の箱を、自分の町へ迎え入れようとしました。新しい車を用意し、盛大な行列を整えての出立でした。けれども、その旅は悲劇に終わります。ウザという人が、箱を支えようと手を伸ばし、その場で命を落としたのです。 (ウザ) עֻזָּא —「彼の力」 神の臨在を「自分の力」で扱おうとするとき、待っているのは疲れ果てた心と、力尽きた働きです。神が求めておられるのは、あなた...