ハレルヤの意味とは?救いのあとに歌われる賛美

葬儀の席の後ろのほうに立っていた一人の男性が、聖歌隊の歌う「ハレルヤ」を耳にします。二週間後、クリスマスコンサートで同じ言葉を聞き、さらにラジオから流れるラブソングの中でもまた聞きます。ハレルヤとは「主をほめたたえよ」という意味です。 ヘブライ語のハレルー・ヤーという句で、人々に向かって、ヤハ、すなわち神の御名の短い形で呼ばれる方をほめたたえるよう呼びかける言葉です。

これが辞書の答えです。けれども聖書は、もっと豊かな答えを用意しています。

この言葉は、ヘブライ語の詩篇におよそ二十数回、ギリシア語の新約聖書に四回現れます。新約の四回は、すべてヨハネの黙示録のただ一つの章にあります。聖書の最後の五つの詩篇は、この言葉で始まり、この言葉で閉じられます。過越の食卓でも歌われました。そして黙示録19章では、天の群衆がこれを四度、続けて叫びます。

そのほとんどすべての箇所で、この言葉には理由が添えられています。詩篇は、ほめたたえよと命じる前か後に、なぜほめたたえるのかを告げるのです。この型こそ、言葉全体を解く鍵です。ハレルヤは、神が事を行われたあとに人が口にする言葉です。救いへの応答であって、救いの代価だったことは一度もありません。

この記事では、ハレルヤの背後にあるヘブライ語、聖書の中でこの言葉が現れる場所、そして、それが何気ない一週間に何をもたらすのかを、順にたどっていきます。

ハレルヤのヘブライ語の意味

ヘブライ語でハレルヤは、(ハレルー・ヤー) הַלְלוּ־יָהּ — 「ヤハをほめたたえよ、主をほめたたえよ」と書かれます。写本の中には、これを一語として הַלְלוּיָהּ と書くものもあれば、マッケフと呼ばれる短いつなぎ線で二つの部分を結ぶものもあります。いずれにしても、二つの語を一つに押し固めた言葉です。

前半は (ハレルー) הַלְלוּ — 「あなたがたは皆、ほめたたえよ」です。命令形で、しかも複数形です。詩篇の作者は独り言を言っているのではありません。部屋いっぱいの人々に、あるいは国全体に語りかけています。詩篇150篇にいたっては、「息のあるすべてのもの」に向かって語りかけているのです。

後半は (ヤハ) יָהּ — 「主」です。神の契約の御名を縮めた形です。

ですから、いちばん素直に訳せば「主をほめたたえよ」となります。複数であることを生かすなら、「皆よ、主をほめたたえよ」です。ストロング番号では、このヘブライ語の句に独自の番号は振られていません。H1984 (ハラル) と H3050 (ヤハ) の二つの組み合わせとして扱われています。一方、黙示録のギリシア語形には、G239 という独自の番号があります。

語根ハラル

ハレルヤの背後にある動詞は、(ハラル) הָלַל — 「ほめたたえる、誇る、輝く」です。ストロング番号は H1984 で、旧約聖書におよそ165回出てきます。

ヘブライ語の辞典は、ハラルに幅広い意味を挙げています。ある形では「輝く」「光を放つ」。最もよく使われる形では「ほめたたえる」。別の形では「誇る」「栄えとする」。そして一風変わった形では、「狂った者のようにふるまう」という意味になります。

この最後の意味は、よく知られた場面に出てきます。ダビデはサウルから逃れて、ペリシテ人の町ガテに行きました。そこで王に正体を見破られるのではないかと恐れ、気が触れたふりをしたのです。

「そこで彼は彼らの前でふるまいを変え、彼らの手の中で狂ったふりをし、門の扉をかきむしり、よだれをひげに垂らした。」サムエル記上 21:13 (NKJV より私訳)

「狂ったふりをし」という言葉が、ハラルです(ヘブライ語聖書では、この節は21:14と数えられています)。のちにダビデは、この同じ脱出を歌って詩篇34篇を書きました。その2節で、彼は再びハラルを用いています。今度は「誇る」という意味においてです。

「わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。」詩篇 34:2 (口語訳)

自分の命を守るために愚か者を演じた男が、いまは、その命を本当に救ってくださった神を誇っています。同じ一つの語根が、その両方を覆っているのです。

この「誇る」という意味合いが、ハレルヤを理解する助けになります。ヘブライ語で誰かをほめたたえるとは、その人を自慢することです。その人がしてくれたことを、声に出して、周りの人に聞こえるように語るのです。神ご自身も、エレミヤ書で同じ動詞を使っておられます。

「主はこう言われる、『知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる』。」エレミヤ書 9:23-24 (口語訳)

この箇所の「誇る」「誇とせよ」は、どれもハラルです。神は人々に、自分のしたことを誇るのはやめて、神のなさることを誇りなさいと言われます。その筆頭に挙げられているのが「いつくしみ」です。これはヘブライ語のヘセド、すなわち神の契約の愛です。神が私たちに望まれる誇りとは、神のいつくしみについての誇りなのです。

ひと言でいえば、ハレルヤとはこういうことです。神を自慢しよう、皆で、声に出して。

神の御名の短い形ヤハ

ハレルヤの後半は、(ヤハ) יָהּ — 「主」です。ストロング番号は H3050 です。神の個人的な御名、すなわち四文字の御名を、短く詩的にした形です。口語訳をはじめ多くの日本語訳聖書では、この御名は「主」と訳されています。ヤハは旧約聖書におよそ48回現れ、その多くは歌や詩篇の中にあります。

歌の中で初めて登場するのは、紅海のほとりです。イスラエルが乾いた地を渡りきり、パロの軍勢が海に沈むのを見届けた、その直後のことでした。

「主はわたしの力、またわたしの歌、主はわたしの救となられた。彼はわたしの神、わたしは彼をほめたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。」出エジプト記 15:2 (口語訳)

この節の最初の「主」がヤハです。ここで、何が先に起きたのかをはっきりさせておきましょう。イスラエルは歌いながら海を渡ったのではありません。神が海を開き、彼らが渡り、それから歌ったのです。ヤハという御名は、たったいま彼らを救い出した神の名として、イスラエルの礼拝に入ってきました。

聖書に現れるハレルヤ

詩篇の中で

標準的な数え方では、ヘブライ語の句ハレルー・ヤーは旧約聖書に24回現れます。そのすべてが詩篇の中にあります。ただし、ヤハの代わりに神の御名の完全な形を使った似た句がいくつかあるため、学者によって数え方には多少の差があります。

最初に出てくるのは、詩篇104篇の最後の一行です。

「罪びとを地から絶ち滅ぼし、悪しき者を、もはや、あらせられぬように。わがたましいよ、主をほめよ。主をほめたたえよ。」詩篇 104:35 (口語訳)

そこから先、この言葉は詩篇の終わりの三分の一に集まっていきます。105篇、106篇、111篇、112篇、113篇、115篇、116篇、117篇、135篇などの冒頭や結びに置かれています。最後の五つの詩篇、146篇から150篇は、どれもこの言葉で始まり、この言葉で終わります。詩篇という書物そのものが、ハレルヤで幕を閉じるのです。

「息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。主をほめたたえよ。」詩篇 150:6 (口語訳)

詩篇150篇はわずか6節しかありません。それでも、その中に動詞ハラルが13回も出てきます。詩篇は、繰り返し、繰り返し語られる賛美で終わるのです。

書物全体のヘブライ語の名も、同じ方向を指しています。ユダヤ人は詩篇を、(テヒリーム) תְּהִלִּים — 「賛美の数々」と呼びます。これは、ハラルから生まれた名詞 (テヒラー) תְּהִלָּה — 「賛美」の複数形です。イスラエルの祈りと嘆きと訴えを集めた書物が、賛美の名で呼ばれているのです。

口語訳ではなぜ「主をほめたたえよ」なのか

口語訳の詩篇で「ハレルヤ」という言葉を探しても、見つかりません。口語訳はこの句を日本語に訳して、「主をほめたたえよ」としているからです。ですから、後半の詩篇の冒頭や結びに、独立した叫びとして「主をほめたたえよ」とあれば、その下にあるヘブライ語は多くの場合ハレルヤです。新共同訳のように、詩篇でもそのまま「ハレルヤ」と記す訳もあります。手元の聖書で146篇から150篇を開き、最初と最後の一行を確かめてみてください。

新約聖書の中で

新約聖書がこの言葉を使うのは、わずか四回です。すべて黙示録19章の1、3、4、6節にあります。ギリシア語では、(ハレールーイア) ἀλληλουϊά — 「主をほめたたえよ」と綴られ、ストロング番号は G239 です。これは、もともとギリシア語の言葉ではありません。ヘブライ語の句をギリシア文字で書き写したものです。私たちが訳さずに「ハレルヤ」と言うのと同じです。口語訳も、黙示録ではそのまま「ハレルヤ」と記しています。

ハレルヤとアレルヤ

「ハレルヤ」と「アレルヤ」は別の言葉なのか、とよく尋ねられます。答えは、同じ言葉です。

ヘブライ語では、この言葉は息を吐く h の音で始まります。ギリシア語はその音を、独立した文字ではなく、最初の文字の上に付ける小さな記号で表しました。ラテン語では、その音が落ちました。こうしてギリシア語の形はラテン語の「アレルイア」となり、ラテン語の聖書と聖歌を通して教会に広まりました。

日本では、口語訳をはじめ多くのプロテスタントの聖書や賛美歌が、ヘブライ語に近い「ハレルヤ」を用いています。一方、カトリックの典礼や聖歌では、ラテン語に由来する「アレルヤ」が親しまれています。どちらも意味は「主をほめたたえよ」です。

ハレル詩篇と過越の食卓

詩篇113篇から118篇は、ユダヤの伝統で「ハレル」と呼ばれるひとまとまりです。この呼び名も、同じ語根ハラルから来ています。114篇がエジプトからの脱出を語り直していることから、「エジプトのハレル」と呼ばれることもあります。

ハレルは、過越の食事の席で歌われました。初期のユダヤ教の法典であるミシュナによれば、食事の前に113篇と114篇を、食事の後に115篇から118篇を歌うのが習わしでした。

この順序には意味があります。過越の祭が記念していたのは、ある夜の出来事です。一頭の小羊が死に、その血が門柱に塗られ、裁きがその家を過ぎ越していきました。イスラエルは、その夜を手に入れるために何一つしていません。家の中にとどまり、小羊を食べ、翌朝、自由の身となって出て行っただけです。ハレルは、運び出された人々の歌でした。

詩篇113篇は「主をほめたたえよ」で始まり、続いてその理由を告げます。

「主は貧しい者をちりからあげ、乏しい者をあくたからあげて、もろもろの君たち、すなわちその民の君たちと共にすわらせられる。」詩篇 113:7-8 (口語訳)

この詩篇の貧しい者は、自分の力であくたの中からはい上がるのではありません。神が彼を引き上げ、君たちと共にすわらせてくださるのです。それが、ハレルヤの理由です。

ハレルは118篇で締めくくられます。その書き出しはこうです。

「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」詩篇 118:1 (口語訳)

そして同じ詩篇の後半には、こうあります。

「家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。これは主のなされた事で、われらの目には驚くべき事である。これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。」詩篇 118:22-24 (口語訳)

イエスは、マタイによる福音書21章42節で、この捨てられた石をご自身に当てはめられました。最後の晩餐は過越の食事でした。その夜について、マタイはこう記しています。

「彼らは讃美を歌った後、オリブ山へ出かけて行った。」マタイによる福音書 26:30 (口語訳)

マタイは、その讃美の名を記していません。けれども多くの注解者は、それがハレルの後半であったと考えています。過越の食事を締めくくる歌だったからです。もしそうなら、イエスは、家造りらがご自分を捨てるほんの数時間前に、「家造りらの捨てた石」と歌われたことになります。そして主がそれを成し遂げられる場所へ向かう途中で、「これは主のなされた事」と歌われたことになります。これは明記された事実ではなく、有力な伝承による見方です。それでも、過越という場面にはよく合っています。

いずれにせよ、ハレルの型ははっきりしています。小羊が先にあり、ハレルヤはそのあとに来るのです。

黙示録19章のハレルヤ

聖書の最後のハレルヤは、歴史の終わりに響きます。黙示録19章は、天にいる大群衆の声を記しています。

「この後、わたしは天の大群衆が大声で唱えるような声を聞いた、『ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり、』」ヨハネの黙示録 19:1 (口語訳)

この章は、さらに三度この言葉を繰り返します。二度目の「ハレルヤ」は、神の民を迫害した都に神の裁きが下ったあとに上がります(3節)。三度目は、二十四人の長老と四つの生き物がひれ伏して、「アァメン、ハレルヤ」と言うものです(4節)。そして四度目が、最も大きな声です。

「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚宴の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。』」ヨハネの黙示録 19:6-7 (口語訳)

黙示録19章のハレルヤには、どれも理由が伴っています。救いは神のものです。あの群衆の中で、その一部を自分の手柄だと言う者は一人もいません。7節の花嫁は用意が整っています。そして次の節は、その婚礼の衣がどこから来たのかを告げています。

「彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである。」ヨハネの黙示録 19:8 (口語訳)

彼女は、その麻布を着ることを「許された」のです。天のハレルヤとは、救われた人々の群れが、救ったのは誰なのかという真実を語る声です。

過越の食卓にいたあの小羊が、黙示録の礼拝の中心に立っておられます。聖書のハレルヤは、エジプトの一頭の小羊に始まり、御座の小羊で終わるのです。

賛美を表すほかのヘブライ語

ヘブライ語には、日本語の聖書で「ほめたたえる」「感謝する」「ほめる」などと訳される言葉がいくつもあります。その違いを知ると、詩篇をより正確に読めるようになります。おもなものを挙げましょう。

ハラル:人前で誇る賛美

(ハラル) הָלַל — 「ほめたたえる、誇る」、H1984。先に見たとおり、これは神について語る賛美です。しばしばほかの人々に向かって語られます。声高く、公のものです。その最も名高い形がハレルヤです。

ヤダー:手を差し伸べる賛美

(ヤダー) יָדָה — 「投げる、感謝する、ほめたたえる」、ストロング番号 H3034、およそ114回。根本にあるのは、手を差し伸べるという考えです。最もよく使われる形では、感謝する、あるいは認めて言い表すという意味になります。

賛美の意味で最初に使われるのは、レアの物語です。レアは、ヤコブに望まれなかった妻でした。最初の三人の息子が生まれるたびに、彼女は形を変えて同じことを口にしました。今度こそ夫はわたしを愛してくれるだろう、と。ところが四人目の息子のとき、彼女は違うことを言ったのです。

「彼女はまたみごもって子を産み、『わたしは今、主をほめたたえる』と言って、名をユダと名づけた。そして子を産むことがやんだ。」創世記 29:35 (口語訳)

ここで「ほめたたえる」と訳されている動詞がヤダーです。ユダという名は、この語から来ています。口語訳は、ハラルもヤダーも同じ「ほめたたえる」と訳すことがあります。そのため、二つの違いはヘブライ語に目を向けて初めて見えてきます。レアは、夫の反応で自分の人生を測るのをやめました。そして、すでに与えられているものを神に感謝しはじめたのです。そのユダの家系からダビデが、ダビデの家系からイエスが出られました。

トダー:感謝のささげ物

(トダー) תּוֹדָה — 「感謝、感謝のささげ物」、ストロング番号 H8426。ヤダーから生まれた語です。言葉で表す感謝を指すこともあれば、感謝を表すために携えてくる実際のいけにえを指すこともあります。詩篇69篇30節は、ハラルとトダーを並べています。

「わたしは歌をもって神のみ名をほめたたえ、感謝をもって神をあがめる。」詩篇 69:30 (口語訳)

「ほめたたえ」がハラル、「感謝」がトダーです。

バラク:ほめる、ひざまずく

(バラク) בָּרַךְ — 「祝福する、ひざまずく」、ストロング番号 H1288、およそ330回。神が人を祝福されるとき、その動詞はバラクです。人が「主をほめる」ときも、動詞は同じバラクです。

「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。」詩篇 103:1-2 (口語訳)

詩篇104篇35節は、一行の中で二つの語を使っています。「わがたましいよ、主をほめよ。主をほめたたえよ」。前の「ほめよ」がバラクで、後の「ほめたたえよ」がハレルヤです。口語訳はこの二つをきちんと訳し分けているので、手元の聖書で確かめることができます。

テヒラー:賛美の歌

(テヒラー) תְּהִלָּה — 「賛美、賛美の歌」、ストロング番号 H8416。ハラルから生まれた名詞です。賛美について語る節の中でも、特によく知られた一節に、この語が出てきます。

「しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるかたです。」詩篇 22:3 (口語訳)

ここで「さんび」と訳されているのがテヒラーです。この節は詩篇22篇の中にあります。イエスが十字架の上で口にされた詩篇です。

互いにどう結びつくか

バラクは、神の前にひざまずきます。ヤダーは、神に向かって手を差し伸べます。トダーは、神に感謝のささげ物を携えます。そしてハラルは、振り返って、ほかのすべての人に神のことを語ります。ハレルヤはこのハラルの言葉であり、ほかの人々を呼び集める言葉なのです。

ハレルヤが意味しないこと

ハレルヤは支払いではありません。 詩篇のどこを見ても、賛美が神の好意を買い取ることはありません。理由はいつも逆向きに流れています。主が恵み深いから、そのいつくしみが絶えないから、主が貧しい者を引き上げてくださったから、ほめたたえるのです。

「主をほめたたえよ。主は恵み深いからである。み名をほめ歌え。それは麗しいことだからである。」詩篇 135:3 (NKJV より私訳)

この節で「からである」と訳したヘブライ語は、(キー) כִּי — 「なぜなら」です。この小さな一語が、神学のすべてを担っています。賛美は、神がすでになさったことへの応答です。神が次になさるかもしれないことを買い取るものではありません。

ハレルヤは神の必要を満たすものではありません。 神は不安を抱えておられる方ではありません。拍手がなければ神でいられないような方でもありません。賛美が益をもたらすのは、ささげる人のほうです。賛美はあなたの目を問題から引き離し、その問題よりはるかに大きな方へと向けさせます。パウロは、救いのご計画全体がそのように形づくられていると語っています。

「これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。」エペソ人への手紙 1:6 (口語訳)

あなたはまず、愛する御子によって恵みを賜わりました。その恵みをほめたたえるのは、そのあとです。

ハレルヤは良い日のためだけのものではありません。 この言葉を、良い知らせへの反応として扱うのはたやすいことです。検査の結果が問題なしと分かったときに叫ぶもの、というように。けれども、ハレルヤの詩篇を書いたのは、楽な人生を送っていた人々ではありませんでした。ハレルの最後の歌である詩篇118篇は、四方を敵に囲まれた状況を描いています。ヨシャパテ王は、三つの軍勢に一度に攻められたとき、軍隊の先頭に歌い手たちを立てました。

「彼は民と相談したうえで、主に向かって歌う者たちを任命し、聖なる麗しさをたたえさせた。彼らは軍勢の前を進みながら、こう歌った。『主をほめたたえよ。そのいつくしみはとこしえに絶えることがない』。」歴代志下 20:21 (NKJV より私訳)

彼らは、まだ何一つ勝ち取っていませんでした。では、何を歌ったのでしょうか。変わることのない神のいつくしみです。その日がどう終わるのかを知る前から、彼らの賛美は、神がどのような方であるかという土台の上に立っていたのです。

ハレルヤはおまじないではありません。 賛美を一種の技術のように扱う人がいます。十分に、大きな声で歌えば、突破口が開けるというのです。けれども詩篇の作者たちは、神を神ご自身のゆえにほめたたえました。何かを手に入れるための道具になったとたん、賛美はもう賛美ではなくなります。

ハレルヤが日々にもたらすもの

古い契約のもとでは、礼拝する者は感謝のささげ物として、トダー、すなわち動物を携えてきました。新しい契約のもとでは、いけにえはすでにささげられています。私たちに残されているのは、イエスを通してささげる賛美です。

「だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。」ヘブル人への手紙 13:15 (口語訳)

鍵となるのは「イエスによって」という言葉です。ギリシア語では、(ディ・アウトゥー) δι᾽ αὐτοῦ — 「彼によって」です。自分の小羊を連れてくる必要はありません。くちびるを携え、イエスによって近づけばよいのです。それが何気ない一週間の中でどんな姿をとるのか、見てみましょう。

1. 言葉だけでなく、理由もささげましょう。 詩篇は、理由を言わずに「主をほめたたえよ」と言うことはめったにありません。賛美するときは、神がしてくださったことを具体的に挙げてください。「赦されていることを感謝します」。「結果がどうであれ、面接の機会を与えてくださったことを感謝します」。具体的な理由が、賛美を誠実なものに保ちます。

2. 声に出しましょう。 ハラルは、口で語る言葉です。自分にも、ほかの人にも聞こえるように語られるためのものです。車の中で、食卓で、友人に向かって口にしてみてください。心の中で思うだけよりも、そのほうがこの言葉の本来の意味に近いのです。

3. 十字架から始めましょう。 今日、賛美する理由が見つからないなら、聖書のハレルヤの中で最も古い理由に立ち返ってください。小羊が死に、あなたは自由にされたのです。

「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」ローマ人への手紙 5:8 (口語訳)

この事実は、あなたの一週間がどう転んでも変わりません。一年でいちばんつらい日にも、ハレルヤと言える理由になるのです。

4. 結果を見る前にほめたたえましょう。 ヨシャパテの歌い手たちは、戦いの前に神のいつくしみをほめたたえました。あなたも、神の答えを見る前に、神のご性質を感謝することができます。問題が消えたふりをするのではありません。問題がそこにある間も変わらない、神についての真実を言い表すのです。

5. 立ち止まり、真理を心に染み込ませましょう。 詩篇には、もう一つセラという言葉があります。多くの読者は、これを立ち止まれという合図と受け取っています。賛美したら、しばらく静まってください。あなたは観客の前で演じているのではありません。すでにあなたを受け入れてくださっている父に、語りかけているのです。

書物の終わりに置かれた言葉

詩篇は、ハレルヤで終わります。聖書がこの言葉を最後に使うのは、小羊の婚宴の場面です。どちらの場所でも、それは道のりのすべてを運ばれてきた人々が、最後に口にする言葉です。

その群衆の中に加わる資格を得るために、ハレルヤと言うのではありません。その資格は、主イエスが十字架で、あなたのために勝ち取ってくださいました。あなたがハレルヤと言うのは、すでにその中にいるからです。

ハレルヤとは、救われた者が、自分を救ってくださった方について語る言葉です。

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