多くのクリスチャンが、「救われた」という言葉を知っています。けれども、その言葉の背後にあるギリシア語 — ソーゾー — が、同時に「いやされた」「救い出された」「全きものとされた」「守られた」という意味を持っていることを知る人は、それほど多くありません。一つの言葉が、そのすべてを抱えているのです。

これは小さなことではありません。神は初めから、救いをあなたのたましいのところで止めるおつもりなどなかった、ということだからです。イエスがあなたを救ってくださったとき、そこで用いられた言葉は、あなたのからだも、思いも、置かれた状況も、これから先の日々も覆っています。原語における救いとは、まるごとの救いなのです。

この記事では、(ソーゾー) σῴζω という語を新約聖書の中にたどり、それが現れる主な箇所を一つずつ見ていきます。ヘブル語の根にさかのぼり、この一語が、十字架で成し遂げられたことの理解をどれほど作りかえるかをお見せします。


ギリシア語ソーゾー — 意味の広がり

ギリシア語の動詞 (ソーゾー) σῴζω — ストロング番号 G4982 — は、(ソース) σῶς — 「無事な、健やかな」という語を根に持ちます。基本の意味は「救う、助け出す、解き放つ、いやす、保つ、全きものとする」です。

これは五つの別々の言葉を並べた一覧ではありません。一つの言葉が持つ、五つの面です。

セイヤーのギリシア語辞典は、ソーゾーをこう定義します。「救うこと、無事健やかに保つこと、危険や滅びから救い出すこと。病に苦しむ者を救い、健やかにし、いやし、健康を回復させること。滅びの危険にある者を守ること。来るべきさばきの罰から救い出すこと。」

肉体の救出から、からだの健康へ、さらにたましいの解放へ — 辞典はそのすべてを、ただ一つの見出しの下に並べています。新約聖書を最初に手にした人々は、「救われる」ための語と「いやされる」ための語を、別々に持っていたわけではありませんでした。彼らが持っていたのは、ソーゾーという一語です。どの面が前に出るかは文脈が決めましたが、言葉そのものは、いつでもそのすべてを抱えていたのです。


新約聖書はソーゾーをどう訳しているか

ソーゾーは新約聖書に百十回現れます。ところが翻訳となると、そのつど一つの訳語を選ばなければなりません。口語訳をひらくと、同じ一語が、こんなふうに訳し分けられています。

  • 「救われる」 — ローマ人への手紙 10:9
  • 「救ったのです」 — マルコによる福音書 5:34(十二年間、長血をわずらった女)
  • 「なおって助かる」 — マルコによる福音書 5:23(ヤイロの娘)
  • 「お助けください」 — マタイによる福音書 8:25(嵐の中の弟子たち)
  • 「救われた」 — ルカによる福音書 8:36(悪霊につかれていた人)

お手元の聖書でお確かめください。この訳し分けが、大切なことを教えてくれます。訳す側は、「救い」か「いやし」か「助け」か、どれか一つを選ばざるをえません。けれどもギリシア語は、選ぶ必要がありませんでした。あなたが「救われる」と読むとき、その下にある言葉は「いやされる」「全きものとされる」という響きを同時に持っています。「なおる」「助かる」と読むときも、その言葉は「救われる」を含んでいるのです。

翻訳者は、その場に最もふさわしい一語を選びました。しかし原語で聞いた人は、毎回その全幅を聞いていました。

福音書だけでも、ソーゾーは五十四回現れ、三つの領域にまたがっています。

  1. たましいの救い — 二十回
  2. 危険や死からの救出 — 二十回
  3. からだのいやし、悪霊からの解放 — 十四回

一つの言葉。三つの領域。その間に、境目はありません。


たましいの救いとしてのソーゾー

ソーゾーの用法として最もよく知られているのが、永遠の救いです。人がイエス・キリストを信じ、罪のゆるしと新しいいのち、神の前での正しい立場を受け取る、その瞬間です。

ローマ人への手紙 10:9–10

「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」
ローマ人への手紙 10:9–10 (口語訳)

ここで「救われる」と訳されているのがソーゾーです。そして「救」にあたる名詞は (ソーテーリア) σωτηρία — 同じ根から生まれた語です。パウロは救いの筋道を語ります。信じ、告白する。けれども、その結果を言い表す語 — ソーゾー — は、ほかの箇所でからだの健康や危険からの守りにも使われている、まさにその語なのです。パウロにとって救いは、たましいだけの狭い取引ではありませんでした。

エペソ人への手紙 2:8

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」
エペソ人への手紙 2:8 (口語訳)

「救われた」— ここでのソーゾーは完了形です。ギリシア語の完了形は、完了した出来事と、今もなお続いているその結果を指します。あなたはかつて救われ、そして今も、その安全の中に置かれている。時制そのものが、救いは待ち望むものではないと告げているのです。それはすでにあなたのものである、と。

使徒行伝 16:30–31

「そして、ふたりを外に連れ出して言った、『先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか』。ふたりが言った、『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます』。」
使徒行伝 16:30–31 (口語訳)

ピリピの獄吏が尋ねたのは、どうすればソーゾーされるか、ということでした。パウロの答えは、その射程をたましいだけに限っていません。「あなたもあなたの家族も」と言うのです。救いは、ひとりの物語ではなく、家族の物語です。ソーゾーという語は、獄吏も、その家族も、彼らの置かれた状況ごと、一つの完全な救出の中に包み込みます。


からだのいやしとしてのソーゾー

ここから、この語の学びはいっそう力を帯びてきます。永遠の救いに使われたその同じ語が、明らかに病の場面 — イエスがからだの病をいやされた場面 — にも現れるのです。

マルコによる福音書 5:34 — 長血をわずらった女

「イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい』。」
マルコによる福音書 5:34 (口語訳)

「救ったのです」がソーゾーです。この女は十二年のあいだ出血に苦しみ、持ち物をすべて医者につぎ込みました。律法のもとでは汚れた者とされていました。イエスの衣のふさに触れたとき、力がイエスから出て、出血は止まりました。そしてイエスは言われます。「あなたの信仰があなたをソーゾーしたのです」と。

この「救った」は、ローマ人への手紙 10:9 でパウロが永遠の救いについて用いたのと同じ語です。イエスは、彼女のからだのために一段低い言葉を選ばれませんでした。救いという言葉を、まるごと使われたのです。彼女のいやしは救いと別のものではなく、救いの一部でした。

ヤコブの手紙 5:15

「信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それはゆるされる。」
ヤコブの手紙 5:15 (口語訳)

「病んでいる人を救い」— ここもソーゾーです。ヤコブは、からだを病んでいる人に対して、救いの語を用いています。しかも同じ一文の中に、罪のゆるしを置いている。からだの回復とたましいのきよめが並んで現れるのは、ソーゾーがその両方を抱えているからです。

この一節には、もう一つ大切な意味があります。多くの信徒が、病のための祈りを救いという主題から切り離し、いやしを別の部署の仕事のように扱います。ヤコブは、その線引きを許しません。信仰の祈りが動かすのは、救いにおいて働くのと同じソーゾーです。

ルカによる福音書 7:50

「そして女に言われた、『あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい』。」
ルカによる福音書 7:50 (口語訳)

イエスは、涙でその足をぬらした女に語りかけておられます。「救ったのです」はソーゾー。ここでの文脈は罪のゆるしです。それなのにイエスは、長血の女に語られたのとまったく同じ言葉を使っておられます。ひとりはからだの回復を、もうひとりはたましいの回復を受けました。どちらもソーゾーです。同じ信仰が、同じ豊かな一語に手を伸ばしたのです。

マルコによる福音書 5:23 — ヤイロの願い

「しきりに願って言った、『わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、あの子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください』。」
マルコによる福音書 5:23 (口語訳)

「なおって助かりますように」— ここでもソーゾーが使われています。会堂司ヤイロは、娘のからだのために、救いの語を口にしました。ソーゾーしてくださいと願ったのです。イエスは出かけて行かれ、すでに息絶えていた少女は起き上がりました。ソーゾーという語は、そこまで覆うほどに大きいのです。


危険からの救出としてのソーゾー

ソーゾーは、いのちの危機からの救出も表します。病も罪も関わらない、ただ目の前に死が迫っている、そんな場面です。

マタイによる福音書 8:25 — 湖の嵐

「そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、『主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです』と言った。」
マタイによる福音書 8:25 (口語訳)

「お助けください」がソーゾーです。弟子たちはガリラヤ湖の舟の上にいました。水は舟に流れ込み、おぼれ死ぬ恐怖が迫っていました。彼らが叫んだその言葉は、のちにパウロが永遠の救いのために用いた言葉と同じです。彼らは神学を語っているつもりなどありませんでした。ただ助けが必要だった。そして、そのための言葉もまた、ソーゾーだったのです。

イエスは立ち上がり、風と海とをおしかりになり、水は凪ぎました。あの救出こそ、働くソーゾーでした。内側の嵐を静める主は、外側の嵐も静められます。

マタイによる福音書 14:30 — 水の上のペテロ

「しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、『主よ、お助けください』と言った。」
マタイによる福音書 14:30 (口語訳)

「お助けください」— ソーゾーです。ペテロは水の上を歩き、そして沈みはじめました。その叫びは、天国か地獄かという話ではありません。次の三秒をどうするか、という叫びです。そこで彼が使った言葉が、ソーゾーでした。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえられました。

ルカによる福音書 8:36 — 悪霊につかれていた人

「それを見ていた人たちは、この悪霊につかれていた者が救われた次第を、彼らに語り聞かせた。」
ルカによる福音書 8:36 (口語訳)

この節の「救われた」もソーゾーです。その人は大勢の悪霊に取りつかれ、墓場に住み、裸で、荒れ狂い、自分を傷つけていました。イエスが悪霊を追い出されたあと、町の人々が見たのは、着物を着て、正気に返り、イエスの足もとにすわっている姿でした。ルカはそれをソーゾーと呼びます。悪からの解放は別の部門ではありません。救いといやしと同じ言葉の中に、いっしょに収まっているのです。


全き回復としてのソーゾー — 長血をわずらった女

マルコによる福音書五章には、特に目を留める価値があります。ヤイロの娘と長血の女という、二つのソーゾーの物語が並んで置かれ、二つ合わせて、この語の幅をまるごと見せてくれるからです。

この女は十二年のあいだ出血していました(マルコによる福音書 5:25)。レビ記 15:25–27 のもとでは、その間ずっと汚れた者とされます。宮に入ることはできません。人に触れれば、その人を汚してしまいます。礼拝からも、交わりからも、ふつうの暮らしからも断たれていたのです。

そして彼女はイエスの衣に触れ、血の源はかわきました(マルコによる福音書 5:29)。イエスは振り向いて言われました。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい。」
マルコによる福音書 5:34 (口語訳)

この一言の中に、三つの贈り物があります。

  1. 「あなたを救ったのです」 — ソーゾー。まるごとの回復。
  2. 「安心して行きなさい」 — (シャローム) שָׁלוֹם — 「全きこと、満ち足りて何一つ欠けがないこと」。
  3. 「すっかりなおって、達者でいなさい」 — からだの面が、はっきりと確かめられます。

彼女のいやしは、からだのいやしであり(出血が止まり)、社会的な回復であり(イエスは人前で彼女を「娘よ」と呼び、共同体へ戻され)、たましいの回復であり(これから宮に入って礼拝できる)、心の回復でもありました(十二年の恥が、ひと言で終わったのです)。

それがソーゾーです。部分的な手当てではありません。からだを素通りするたましいだけの取引でもありません。全人的で、完全で、欠けのない回復です。だれも触れようとしなかったものにイエスは触れ、だれにも戻せなかったものを戻してくださいました。


ヘブル語の根 — ヤーシャ

ソーゾーは、何もないところから生まれた言葉ではありません。ヘブル語に先祖を持っています。

ヘブル語の動詞 (ヤーシャ) יָשַׁע — ストロング番号 H3467 — は「救う、助け出す、救い出す、安全なところへ導く」を意味します。七十人訳(ヘブル語聖書のギリシア語訳)では、ヤーシャはくり返しソーゾーと訳されました。この二語は、そのまま対応する言葉なのです。

ヤーシャもまた、ソーゾーと同じ幅を持っています。文脈に応じて、「救う」「救い主」「助け出す」「助ける」「守る」「勝利」と訳し分けられてきました。ソーゾーと同じく、たましいの救出も、からだの守りも、戦いにおける救いも、日々の保護も、一つの語が抱えています。

そして、ヤーシャから生まれた最も大切な言葉が、(イェシュア) יֵשׁוּעַ — イエスという名です。その名そのものが、「救う、助け出す、全きものとする」という根からできています。御使がヨセフに、その子をイェシュアと名づけよと告げたとき、こう言いました。

「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。」
マタイによる福音書 1:21 (口語訳)

ここの「救う」もソーゾーです。御使は、この子が民をソーゾーすると宣言しました。そしてその子のヘブル名イェシュアは、ヤーシャから来ています。名がそのまま使命であり、使命は名の広さと同じだけ広いのです。

あなたが「イエス」と呼ぶたびに、全き救いを意味するヘブル語を口にしていることになります。その名はただの呼び名ではありません。約束です。


ソーテーリア — ソーゾーの名詞形

ソーゾーの名詞形が (ソーテーリア) σωτηρία — ストロング番号 G4991 です。意味は「救い、解放、保護、安全、健康」。新約聖書に四十五回現れます。

ソーゾーと同じく、ソーテーリアも回心の一瞬にとどまりません。パウロはピリピ人への手紙 2:12 でこう使います。

「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしがいる時だけでなく、わたしがいない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。」
ピリピ人への手紙 2:12 (口語訳)

「自分の救の達成に努めなさい」— この「救」がソーテーリアです。パウロが語りかけているのは、すでに信じている人々です。もう一度救われよ、とは言っていません。すでに受け取ったソーテーリアを、外へ働き出し、生き、味わい、その中を歩けと言っているのです。そこには健康も、守りも、備えも、全き回復も含まれています。すでに与えられたものを、あなたは稼ぐ必要はありません。神がすでに内に置かれたものを、外へ働き出すのです。

ヘブル人への手紙の著者も、この語の広さが見える使い方をしています。

「わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。」
ヘブル人への手紙 2:3 (口語訳)

著者はこの救いを「こんなに尊い」と呼びます。ここで使われている語は (テーリクートス) τηλικοῦτος — 「これほど大きい、計り知れない」。著者は、この救いの大きさに驚いているのです。もし救いが「罪がゆるされて天国へ行く」だけを意味するのだとしても、「大きい」という言葉はふさわしいでしょう。けれどもソーテーリアは、ソーゾーと同じく、危険からの救出、健康の回復、悪からの解放、いのちの保護をも意味します。「こんなに尊い救」は、欠けのない救いです。それはあなたの存在の、どの領域にも届いています。


ソーゾーが恵みの理解を変える理由

この語の学びは、机上の豆知識ではありません。十字架で何が起こったのか、その理解そのものを作りかえます。

一、十字架は、部分的な救いを生まなかった

ソーゾーが「救われ、いやされ、解き放たれ、守られ、全きものとされる」を意味するなら、イエスがカルバリで成し遂げられたことは、人まるごとに及んでいます。その犠牲は、たましいだけを狙い、からだを素通りしたのではありません。イザヤ書五十三章がそれを確かめます。

「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」
イザヤ書 53:4 (口語訳)

ここで「病」と訳されたヘブル語は (ホリー) חֳלִי — 「病、疾患」。「悲しみ」と訳された語は (マクオーヴ) מַכְאוֹב — 「痛み、からだの苦しみ」です。マタイによる福音書 8:17 はこの言葉を引用し、イエスのいやしのわざにそのまま当てはめています。「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」。いやしは救いに添えられたおまけではありません。同じ一つの取引の中にありました。

二、恵みは、ゆるしで止まらない

多くの信徒が、ゆるしは受け取りながら、ソーゾーが同じように約束しているいやしと解放と全き回復には、手を伸ばさないままでいます。「救われた」という面は受け入れても、「全きものとされた」という面は自分のものとしない。同じ一語であるにもかかわらず、です。ある説教者の言葉が、それをよく言い表しています。「救いとは、地獄から救われて天国へ行くことだけではない。それがどれほどすばらしいとしても。救いとは、健康であり、全きことであり、いやしであり、守りであり、備えである。」

パウロはテモテに、聖書は「救に至る知恵」をあなたに与えることができると書きました(テモテへの第二の手紙 3:15)。ここの「救」もソーテーリアです。聖書はただ天国への備えをさせるのではありません。あなたのまるごとの救い — 健康、平安、守り、そして日ごとの糧について、賢くしてくれるのです。

三、信仰が、その全幅を開く

ソーゾーのいやしの場面で、イエスはいつも同じことを言われました。「あなたの信仰があなたを救ったのです」。「わたしの力があなたをいやした」とは言われません。力の源はご自身であったのに、です。イエスは、受け取る扉として信仰を指し示されました。

信仰こそが、ソーゾーの全幅から汲み取ります。長血の女は、衣に触れるだけ信じました。ヤイロは、イエスを娘のもとへ連れて行くだけ信じました。ピリピの獄吏は、問いを口にするだけ信じました。信仰が救いを造り出すのではありません。信仰は受け取るのです。そのすべてを。

四、救いは、いつも現在形である

エペソ人への手紙 2:8 でパウロは完了形を用います。「あなたがたの救われたのは」。ピリピ人への手紙 2:12 では、今この救いを「達成に努めなさい」と言います。コリント人への第二の手紙 1:10 では、神は死の危険から救い出してくださった、また救い出してくださる、今後も救い出してくださると書きます。過去も、今も、これからも — すべてソーゾーです。

ソーゾーは、初めて信じたあの日の出来事だけではありません。いやしが必要な今日、起こることです。危険に直面する明日、起こることです。救いは、いつも現在形の現実です。


今日のあなたにとってのソーゾー

あなたが信じているなら、あなたはすでにソーゾーされています。その言葉が覆うのは、永遠の行き先だけではありません。あなたのからだを覆います。あなたの思いを覆います。あなたの安全を覆います。あなたの家族を覆います。敵が盗み、壊し、汚してきたもののすべてを覆います。

必要ごとに別の言葉を探す必要はありません。たましいには「救い」、からだには「いやし」、状況には「解放」と、三つに分ける必要はないのです。ギリシア語は二千年前に、この問いに決着をつけていました。一つの言葉が、三つすべてを担っています。神が一語の中に結び合わされたものを、神学が三つの部署に分けてはなりません。

聖餐にあずかるとき、あなたは主のからだをわきまえ、その行為の中でソーゾーのいやしの面にあずかります。ローマ人への手紙 10:9 を告白するとき、ソーゾーの救いの面にあずかります。嵐の中で「主よ、お助けください」と叫ぶとき、ソーゾーの救出の面にあずかります。同じ言葉、同じイエス、同じ完成されたみわざです。

初代の教会は、救いを分類しませんでした。ただ一つの福音を語り、語られたところではどこでも、人々が救われ、いやされ、解き放たれました。福音はソーゾーを運び、ソーゾーはすべてを運ぶからです。

あなたが受け取ったのは、部分的な救出ではありません。あなたが受け取ったのは (ソーゾー) σῴζω — 人生のすみずみを覆う、全き、完全な、まるごとの救いです。ひとたび代価が払われ、今すでに用意され、いつまでも変わらない救いです。

救いは、あなたの人生の一室ではありません。建物のすべてです。