アーメンの意味とは?神の言葉に身を預けるひと言

多くのクリスチャンは、一週間のうちに何度も「アーメン」と口にします。祈りの終わりに、賛美の歌のあとに、そして説教者が「まさにそのとおり」と思えることを語ったときに。アーメンとは「それは真実です」「そのとおりになりますように」という意味です。この言葉は「堅い」「真実な」「頼りになる」を意味するヘブライ語の語根から来ています。ですから、アーメンと言うとき、あなたは今語られたことが自分の重みを支えるに足るものだと認めているのです。
この言葉がどこから来たのか、立ち止まって考える人は多くありません。アーメンは聖書の中でも最も古い言葉の一つで、ほとんどの言語はこれを訳さずにそのまま受け入れました。英語でも日本語でも、韓国語でもインドネシア語でも、クリスチャンは三千年以上前にイスラエルがエバル山で唱えたのと同じヘブライ語を、それぞれの響きで口にしているのです。
この言葉には、礼儀正しい結びの挨拶以上のものが詰まっています。イエスは、それまでのどのラビもしなかった仕方でこの言葉を用いられました。パウロは、神のすべての約束をこの言葉に結びつけました。そして聖書の最後の書は、これをイエスの御名として用いています。
本稿では、アーメンをヘブライ語の語根からたどり、旧約聖書とイエスの言葉を経て、なぜ私たちが今も祈りの終わりにこの言葉を唱えるのかまでを見ていきます。
ヘブライ語におけるアーメンの意味
ヘブライ語では (アーメン) אָמֵן — 「確かに、まことに、そうなりますように」です。ストロング・コンコーダンスの番号は H543 です。
ストロングはこの語に三つの意味を挙げています。
- 確か:堅固で、崩れることのないもの。
- 真実:信頼できる人や言葉が持つ性質。
- 直前に語られたことを確かなものと認める、「まことに」という副詞。
アーメンはヘブライ語の旧約聖書に30回出てきます。日本語の聖書でも、たいていは訳さずに「アーメン」(口語訳では「アァメン」)と記されています。ただしイザヤ書 65:16 の一節では、二度とも「真実」と訳されています。
ほとんどの場合、アーメンは応答の言葉です。まず誰かが語り、それに対して一人の人が、あるいは群衆全体が「アーメン」と答えます。アーメンはいつも二番目に来ます。ほかの誰かが語ったことを、確かなものと認めるのです。
これがヘブライ語におけるアーメンの素朴な意味です。「あなたが今言ったことは堅い。私はその上に立ちます。」
語根アーマン――信仰と真理
アーメンは、動詞 (アーマン) אָמַן — 「支える、堅くある、真実である」(ストロング番号 H539)から来ています。この動詞は108回出てきます。最も基本的な意味は、何かを持ち上げる、支えるということです。同じ動詞が、子どもを抱いて運ぶ親や養い手の姿にも使われます(民数記 11:12 では、乳飲み子を抱く養い親を表すのに用いられています)。
「支える」という意味から、この言葉は堅さへ、真実さへ、そして信頼へと枝を伸ばしていきます。寄りかかれるものとは、信じることのできるものなのです。
聖書の大切な言葉のいくつかが、この一つの語根から生まれています。
エムーナー――揺るがない信仰
名詞 (エムーナー) אֱמוּנָה — 「堅さ、真実、信仰」(H530)も同じ家族の言葉です。聖書で最初に使われる箇所は、目に見える一つの情景です。
イスラエルがアマレクと戦ったとき、モーセが手を上げているあいだはイスラエルが勝ち、手を下ろすと負けました。やがてモーセは疲れてきました。そこでアロンとホルは彼を石の上に座らせ、その腕を支えたのです。
ここで「揺るがなかった」と訳した言葉がエムーナーです。エムーナーが「信仰」を意味するようになる前、それは誰かに支えられて下がらなかった腕を意味していました。聖書の語る信仰を、これほどよく表す絵はないでしょう。信仰とは、自分がどれほど強いと感じるかよりも、何が自分を支えているかにかかっているのです。
エメト――寄りかかれる真理
(エメト) אֶמֶת — 「真理、安定、真実」(H571)は、同じ語根から縮まってできた言葉です。神がご自身を、いつくしみとまことに豊かな方として言い表される出エジプト記 34:6 で、ヘセドと対になっているのがこの言葉です。この組み合わせについては ヘセドとは何か の記事でたどりました。ヘブライ人の考え方では、真理とは、その上に家を建てられるほど安定したものなのです。
アブラハムは信じた――信仰の背後にある動詞
聖書が初めて「人が神を信じた」と語る箇所で、この語根が使われています。
「信じた」は (ヘエミーン) הֶאֱמִן — 「彼は信じた、信頼した」で、アーマンの使役形です。文字どおりには、アブラハムが神に自分の重みを預けた、あるいは神を堅い方と見なした、という意味合いになります。アブラハムにはまだ息子がいませんでした。彼もサラも、子をもうけるには年を取りすぎていました。神が約束を語られ、アブラハムはアーメンと同じ語根の言葉で応えたのです。
パウロは、それがどのようなものであったかを説き明かしています。
アブラハムは自分の体を見つめ、それから約束を見つめ、そして約束のほうを選びました。その選択については 体を見ず、約束を見よ にも書きました。
信じよ、そうすれば堅く立つ
一つの節に、この語根の二つの形が並んでいる箇所があります。戦いを前にして、ヨシャパテ王はユダの民にこう語りました。
「信じなさい」は (ハアミーヌー) הַאֲמִינוּ — 「信じよ、信頼せよ」。「堅く立つことができる」は (テーアーメーヌー) תֵאָמֵנוּ — 「あなたがたは堅くされる」です。口語訳が「信じる」と「堅く立つ」と訳し分けたこの二つの言葉は、ヘブライ語ではどちらもアーマンから出ています。平たく言えば、この節は「堅い方である神に寄りかかりなさい。そうすれば、あなたがたも堅くされる」と語っているのです。イザヤ書 7:9 にも同じ二語の組み合わせが出てきます。
ですから、アーメンと言うとき、あなたは信仰、真実、真理と同じ家族の言葉を使っているのです。ヘブライ語では、これらはみな一つの考えに根ざしています。あなたを支えられるほど堅いもの、です。
旧約聖書のアーメン
旧約聖書は、いくつかのはっきりした場面でアーメンを用いています。その一つひとつが、この言葉の意味に厚みを加えています。
最初のアーメン――自分に向けて語られた言葉を受け入れる
聖書で最初のアーメンは民数記5章にあります。不貞の疑いをかけられた女性が、祭司が自分に向けて誓いの言葉を述べるのを聞きます。そして、彼女は答えました。
ヘブライ語の原文では「アーメン、アーメン」と同じ言葉が二度重ねられており、その重なりが「そうなりますように」という思いを表しています。彼女のアーメンは、自分に向けて語られた言葉を、自分を縛るものとして受け入れることでした。
エバル山の十二のアーメン
アーメンが最も長く続くのは申命記27章です。イスラエルが約束の地に入ったとき、レビ人たちはエバル山から十二ののろいを読み上げました。その一つごとに、民全体が答えたのです。
律法の下で、イスラエルはのろいに対してアーメンと言いました。律法を破る者は律法の定めるとおりの報いを受けて当然だと、同意したのです。
パウロはガラテヤ人への手紙でこの節を引用し、そのうえで答えを示します。
エバル山でのイスラエルのアーメンは、のろいへの同意でした。イエスはそののろいをご自身に引き受けられました。新しい契約のもとで、信じる者のアーメンは、のろいではなく祝福に向けて唱えられるのです。
神に裏づけを求めるアーメン
ダビデ王がソロモンを次の王に指名したとき、家臣のベナヤはこう答えました。
ベナヤのアーメンには二つの意味がありました。王に同意したこと。そして、神が王の言葉を裏づけてくださるよう願ったことです。人のアーメンは、その言葉の背後に立つ神と同じだけの強さしか持たないのです。
礼拝のアーメン
ダビデが神の箱をエルサレムに運び上げたとき、歌は神への祝福で結ばれ、群衆がそれに応えました。
捕囚から帰ったのち、エズラが民の前で律法の書を開いたときにも、同じことが起こりました。
詩篇は五巻に分かれており、そのうち四巻がアーメンで結ばれています(詩篇 41:13、72:19、89:52、106:48)。その最後の結びは、すべての人に声を合わせるよう呼びかけています。
アーメンは、決して指導者だけの言葉ではありませんでした。それは民のものでした。指導者が神をほめたたえ、民が声に出して同意したのです。
アーメンの神
イザヤ書には、アーメンを神ご自身を言い表す言葉として用いている節があります。
ヘブライ語で「真実の神」は (エロヘー・アーメン) אֱלֹהֵי אָמֵן — 「アーメンの神」です。その言葉が堅く揺るがない神、という意味です。この言い回しを心に留めておいてください。新約聖書がもう一度これを取り上げます。
ギリシア語と新約聖書のアーメン
新約聖書の記者たちはギリシア語で書きましたが、アーメンは訳しませんでした。ヘブライ語の響きをそのまま残し、ギリシア文字で書き記したのです。(アメーン) ἀμήν — 「まことに、そうなりますように」(ストロング番号 G281)。
この語はギリシア語新約聖書に百回をゆうに超えて現れます。正確な数は写本の伝承によって異なるため、辞典によって数え方もまちまちです。口語訳では、イエスが言葉の冒頭に置かれた場合には「よく聞きなさい」「よく言っておく」「よくよく言っておく」などと訳され、それ以外の場所では「アァメン」と記されています。手元の聖書で見比べてみると、その訳し分けがよくわかるでしょう。
旧約聖書の古いギリシア語訳である七十人訳は、ヘブライ語のアーメンをたいてい (ゲノイト) γένοιτο — 「そうなりますように、そうなれ」と訳しました。これは、救い主を身ごもると御使に告げられたとき、マリヤが口にしたのと同じ言葉です。
マリヤはアーメンという言葉そのものを口にしたわけではありません。けれども「成りますように」(ゲノイト)は、しばしばアーメンの代わりを務めたギリシア語です。彼女の答えは、アーメンが一人の人生の中でどのように響くのかを見せてくれます。神がそれをどのようになさるのか、彼女にはわかりませんでした。それでも、神がそうなさることに同意したのです。
「よく言っておく」――イエスのアーメン
イエスはアーメンを、それまでのユダヤ人の慣習にはっきりした前例のない仕方で用いられました。ほかの誰もが、人の言葉への応答として、終わりにアーメンと言いました。イエスは、ご自身の言葉の前、その冒頭にアーメンを置かれたのです。
ギリシア語では (アメーン・レゴー・ヒュミーン) ἀμὴν λέγω ὑμῖν — 「まことに、わたしはあなたがたに言う」です。口語訳はこれを「よく聞きなさい」「よく言っておく」などと訳しています。
十字架の上の強盗には、差し出せるものが何もなく、生き方を改める時間も残されていませんでした。イエスは、その彼への約束の前にアーメンを置かれました。彼はその言葉を足もとに敷いて、死を迎えることができたのです。
「よくよく言っておく」――ヨハネの二重のアーメン
ヨハネによる福音書では、イエスはこの言葉を重ねて (アメーン・アメーン) ἀμὴν ἀμήν — 「まことに、まことに」と言われます。ヨハネはこれを25回記しており、ほかの福音書にこの二重の形は見られません。口語訳では「よくよく言っておく」と訳されています。
信じる者がアーメンと言うとき、それは神が語られた言葉を確かなものと認めることです。イエスが先にアーメンと言われたとき、イエスはご自身の言葉を、語る前から確かなものとされました。第二の証人を必要とされなかったのです。イエスは、その言葉がすでに堅く立っている方として語られました。
ヘブル人への手紙の著者は、神が私たちのために同じようなことをなさったと記しています。
神は誓う必要などありませんでした。それでも、私たちが立つ足場をさらに増やすために誓ってくださったのです。イエスの「よく言っておく」も同じ働きをしています。信じることに苦しむ人々のために与えられた、念には念を入れた保証なのです。
しかりとアーメン――コリント人への第二の手紙 1:20
聖書の中で最もよく知られたアーメンの節は、旅の予定の変更から生まれました。
パウロはコリントの人々に、訪ねて行くと告げていました。ところが、その予定を変えました。教会の中には、これこそパウロが当てにならない証拠だと言う人々がいました。旅の約束ひとつ守れない人の福音を、どうして信頼できるだろうか、と。
パウロは、自分の語る言葉は、ある日は「しかり」、次の日は「否」というようなものではない、その背後におられる神が真実な方だからだ、と答えました。
そして彼は、多くの信仰者がそらで覚えている一節を書きました。
この節は二つの部分から成り、その順序が大切です。
まず、神の側です。神の約束はことごとく、彼において「しかり」となりました。 約束が「しかり」なのは、あなたがそれを勝ち取ったからではありません。「彼において」、つまりキリストにおいて「しかり」なのです。イエスがすべての条件を満たされたので、キリストにある者にとって、すべての約束はすでに定まっています。約束は、それを交わした方がどのような方かを物語ります。約束は、受け取る者の働きではなく、約束する方の真実にかかっているのです。
次に、私たちの側です。わたしたちは、彼によって「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰します。 アーメンは「わたしたち」を通して唱えられます。神が「しかり」と言われ、私たちが「アーメン」と応える。「しかり」は神の御業であり、キリストにおいてすでに完成しています。アーメンは、それに対する私たちの同意です。
これが恵みです。あなたのアーメンが、神の「否」を「しかり」に変えるのではありません。神はすでに「しかり」と言われました。あなたのアーメンは、「あなたが本気でそう言われたことを、私は信じます」と申し上げることです。そしてパウロは、その同意が神に栄光を帰するのだと言います。神が信頼に値する方であることを、それが証しするからです。
イエスこそアーメン
黙示録で、イエスは七つの教会に宛てた手紙を口述されます。その最後の教会、ラオデキヤに向けて、イエスはご自身をこう名のられます。
「アァメンたる者」とは、名前です。イザヤは「アーメンの神」について語りました。ここでイエスは、その称号をご自身のものとされます。そして、それを説き明かして「忠実な、まことの証人」と言われます。忠実と真実――語根アーマンが運んでいるのと、まったく同じ二つの考えです。
この場面には、さらに重みがあります。ラオデキヤは、イエスが熱くも冷たくもなく、なまぬるいと言われた教会でした(黙示録 3:15-16)。手紙の宛先の中で、最も腰の定まらない教会だったのです。その彼らに向かって、イエスはご自身を、決して揺るがない方として示されました。
これは、信仰に浮き沈みのあるすべての人にとっての良い知らせです。あなたのアーメンは、いつも力強いとは限りません。自分の口にしていることをほとんど信じられない週もあるでしょう。けれども、あなたの確かさは、あなたのアーメンの強さにかかっているのではありません。アーメンそのものであるイエスにかかっているのです。
モーセの手が揺るがなかったのは、アロンとホルが支えていたからです。あなたの信仰が揺るがないのは、キリストが支えておられるからです。あなたがアーメンと言えるのは、イエスこそがアーメンだからです。
なぜ祈りの終わりにアーメンと言うのか
クリスチャンが祈りをアーメンで結ぶのは、聖書の中で神の民がそうしているからであり、またこの言葉の意味そのものによります。
イエスは弟子たちに祈りの型を教えられました。教会で唱えられてきた主の祈りの形では、それはアーメンで結ばれています。
パウロは、教会で誰かが祈ったり感謝をささげたりするとき、ほかの人々が「アーメン」と応えるのを当然のこととしていました。そして同時に、語られたことが理解できてはじめてそう応えられるのだ、とも言いました。
この節は、大切なことを教えてくれます。アーメンとは、わかったうえでの同意であるべきなのです。言葉を聞き、それに心から同意するからこそ、アーメンと言うのです。
聖書そのものも、このように結ばれています。
イエスが約束されます。「確かに、わたしはすぐに来る」。ヨハネはアーメンと答え、その約束をそのまま祈りに変えます。「主イエスよ、来てください」。これが、あらゆる良きアーメンの型です。まず神が語られる。私たちは同意し、語られたとおりにしてくださいと願うのです。
ですから、祈りをアーメンで結ぶとき、あなたは一つの言葉で二つのことを語っています。祈ったことについて神が語っておられることに同意している、ということ。そして、自分の言葉の出来ばえではなく、神ご自身にそれを担っていただくと信頼している、ということです。
ほかの人の祈りにアーメンと言うとき、あなたはその祈りに加わります。エズラの祝福に群衆全体が加わったように、その祈りはあなた自身の祈りにもなるのです。
アーメンではないもの
あまりにも頻繁に口にするので、アーメンはその意味を失いかねません。よくある誤解をいくつか挙げておきましょう。
締めくくりの合図ではない
多くの人は、無線で「以上、交信終わり」と言うようにアーメンを使います。終わりを告げるだけで、それ以上の意味はない、と。けれどもアーメンは、一つの宣言です。「これは堅い」という意味なのです。文の途中で言うこともできますし、(イエスがなさったように)文の初めに言うこともできます。約束の言葉を読みながら、そっとつぶやくこともできます。アーメンの務めは同意することであり、祈りの終わりは、同意を表す場所の一つにすぎません。
魔法の封印ではない
アーメンで締めくくらなければ祈りが聞かれないのでは、と心配する信仰者もいます。まるでアーメンが合言葉であるかのように。けれども聖書はそのようなことを教えていません。あなたの祈りが聞かれるのは、イエスのゆえであって、最後に口にした言葉のゆえではありません。
エレミヤがわかりやすい例を示しています。ハナニヤという偽預言者が、捕囚の民は二年のうちにバビロンから帰ってくると告げました。エレミヤも、それが本当であってほしいと願いました。
そのうえでエレミヤは、ハナニヤの言葉が神から出たものかどうかは、時が明らかにするだろうと警告しました。そして、それは神から出たものではありませんでした。エレミヤのアーメンは願いを表してはいましたが、偽りの言葉を真実に変えることはできなかったのです。アーメンそのものには力がありません。その力は、アーメンが同意する言葉から来るのです。
約束を勝ち取る手段ではない
「アーメンと言えば約束を受け取れる」という言葉を聞いて、それを新しい種類の行いにすり替えてしまうことがあります。十分な回数言っただろうか。十分な信仰を込めて言えただろうか、と。
コリント人への第二の手紙 1:20 に戻りましょう。約束は、キリストにおいてすでに「しかり」なのです。あなたのアーメンは、すでに与えられているものを受け取るだけです。アブラハムは、信じることによって約束を勝ち取ったのではありません。神が惜しみなく約束されたものを受け取り、神はその信頼を義と認められたのです。信仰とは贈り物を受け取る手であり、贈り物を受け取るのに代価はいりません。
アーメンと言うとき、何が変わるのか
アーメンが同意であるなら、意識してそれを口にすることは、聖書の読み方と祈り方を変えていきます。それが最も大切になるのは、目の前の状況と聖書の言葉とが食い違って見える日です。
約束を読んだら、それに同意する
聖書の約束を読んだら、立ち止まってアーメンと言ってください。できれば声に出して。たとえばヨハネによる福音書 5:24、「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け」という言葉です。イエスはその前に、二重のアーメンを置かれました。あなたはその後に、自分のアーメンを置いてください。声に出して同意すること――アブラハムからマリヤに至るまで、聖書の中で信仰はそのように働いてきました。このことは 神の言われることを語る――それが信仰の働き方 にも詳しく書きました。
目に見える知らせより、約束に重きを置く
あなたは今、病院の待合室に座っているかもしれません。あるいは、今月を乗り切るには足りない預金残高を見つめているかもしれません。問題ははっきりと目に見えています。けれども神の約束は、目に見えるものよりも堅い、寄りかかれる支えを与えてくれます。アブラハムは「神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず」にいました。彼は自分の年齢を否定したのではありません。約束のほうが自分の体よりも堅いと、心に決めたのです。
ほかの人に腕を支えてもらう
モーセは、ひとりでは手を上げ続けることができませんでした。アロンとホルがその手を支え、彼の手は日の沈むまで「揺るがなかった」――エムーナーだったのです。神の民がともにアーメンと言う理由の一つも、ここにあります。疲れ果てて自分ひとりでは信じきれないとき、教会に身を置き、周りの人々が神の約束に同意する声を聞いてください。その人々のアーメンが、あなたの腕を支えてくれるでしょう。
偽りのないアーメンを
パウロが求めたのは、理解から生まれるアーメンでした。壇上から語られることすべてに、アーメンと叫ぶ必要はありません。聞いたことを聖書に照らして吟味してください。そして、それが神の語られたことと一致するなら、心の底から同意してください。わかったうえでのアーメンは、大きな声のアーメンにまさるのです。
神は「しかり」と言われ、あなたは「アーメン」と応える
アーメンは、長い歴史をもつ小さな言葉です。それは「支える」「堅くある」を意味するヘブライ語の語根から来ており、聖書の語る信仰や真理と同じ根を分け合っています。イスラエルはエバル山でのろいに対してアーメンと言い、イエスはそののろいを十字架の上で負われました。イエスはご自身の約束の前にアーメンを置き、それが堅い約束であることを私たちに知らせてくださいました。パウロは、神のすべての約束をこの言葉に結びつけました。そして黙示録は、この言葉をイエスの御名として与えています。
アーメンと言うたびに、あなたは、すでに「しかり」と言われた神に同意しています。神の約束に力を足しているのではありません。その約束に、あなたの重みを預けているのです。
アーメンと言っても、神の約束が真実になるわけではありません。アーメンとは、その約束に自分のすべての重みを預けると心に決めた、というしるしなのです。
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