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検索語: “イエス”

20件の記事が見つかりました

持っている人は、何を持っているのか

マタイによる福音書13章で、弟子たちは主イエスに、なぜ群衆には譬で話されるのかと尋ねます。その答えの中に、言葉がひとつ抜け落ちたような一文があります。 「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」 マタイによる福音書 13:12 (口語訳) 持っている人とは、何を持っている人なのでしょう。お金でしょうか。才能でしょうか...

カイロスの意味とは?時計では測れない神の時

多くの人は時計に従って生きています。時間、締め切り、カレンダー。そうやって人生を測っています。けれども聖書は、時について別の言葉を使います。壁にかかった時計とは、何の関係もない言葉です。 その言葉が (カイロス) καιρός — 「定められた、恵みにかなった時」です。この一語を知ると、新約聖書のおもだった約束の読み方が変わります。 カイロスは分を数えません。時を刻むのではなく、時を告げます。神が...

変わる時代、変わらぬ岩

世界は目まぐるしく変わります。技術も、伝える手段も、文化も、世代ごとに姿を変えていきます。残念なことに、教会はその変化に恐れをもって応じてしまうことが少なくありません。新しい道具にはすぐ「危ないもの」という札を貼り、慣れ親しんだ伝統の中へ引きこもる。けれどもその後退は、教会を世から切り離し、福音を伝える力をみずから狭めてしまいます。私たちは、メッセージを損なわずに方法を変える道を学ばなければなりま...

それでも、子どもに御言を届けましょう

ある父親が、九歳の息子の隣に腰を下ろします。息子は大好きなテレビ番組に見入っています。決められたテレビの時間なので、父親はテレビを消しません。 父親は聖書を開き、マタイによる福音書4章、荒野での試みの場面を息子に見せます。悪魔が口を開くたびに、イエスは同じ言葉で答えられます。「……と書いてある」。 「すると試みる者がきて言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごら...

目と耳の門を守る

朝6時40分、ひとりの女性が目を覚まし、足が床に触れるより先にスマートフォンへ手を伸ばします。朝食の頃には、四十件の投稿と、新しいウイルスについての見出しを二つ、そして見知らぬ誰かの政治をめぐる言い争いまで読み終えています。聖書はまだ開いていません。昼になる頃、心はずっしりと重くなっています。けれども、その理由は自分でもわかりません。 彼女の身に何かが起きたわけではありません。ただ、言葉を取り込ん...

いやしは贖いのうちに

十字架の上でのイエスの死を思うとき、わたしたちがまず心に浮かべるのは、罪のゆるしです。負債は支払われ、神との間は和らげられた——そのことを喜びます。これこそ、わたしたちの信仰の土台です。 けれども、十字架のみわざは、それよりもさらに満ち足りたものでした。イエスが負われたのは、わたしたちの罪だけではありません。わたしたちの病と、わたしたちの患いをも負われたのです。からだのいやしもまた、贖いの中に含ま...

本物のように感じます。でも本物ではありません

二時間、荒れた海に揺られたフェリーを降ります。足はコンクリートを踏んでいます。桟橋は動きません。けれども体は、そうは言いません。それから一時間ほど、地面はあなたの下で上がったり下がったりし続けます。何も動いていないのに、たしかに感じるのです。 あるいは、祭りを告げる鐘が五分間鳴り響きます。鐘つきが綱を放します。鐘は静かに垂れています。それでも、まだ聞こえます。音は空気の中ではもう止んでいます。けれ...

自信のない自分に、聖書は何と言うか

ギデオンは酒ぶねの中に身を隠していました。モーセは「どうか、ほかの人を」と神に願いました。エレミヤは「わたしはまだ若い」と言いました。神に召された三人。そのだれもが、自分こそこの務めにふさわしくない人間だと思い込んでいたのです。 自信のなさは、現代に生まれた病ではありません。SNSや人事評価とともにやって来たものでもありません。それは堕落のときから人と共にありました。アダムとエバが神を避けて身を隠...

収穫を期待するのは欲でしょうか

ひとりの少年が、枯れ葉を大きな籠にかき集めています。葉は軽いので、みるみるうちに山になり、籠はもう一杯に見えます。ところが少年は籠の中に入り、足で踏みつけます。葉は沈み、また入る余地ができます。もう一度かき集め、また満たし、また踏む。それから籠を揺すって葉を落ち着かせ、さらに足していきます。とうとう籠はもう一枚も受けつけず、山は縁からこぼれ落ちます。 主イエスが語られた収穫は、まさにこのとおりでし...

三十倍は、負けではない

最初の刈り入れを終えた農夫が、畑を歩いてまわります。まいた種一粒につき、実った粒は三十。それでも彼は、畑を掘り返したりはしません。もう一度、種をまくのです。 種まきのたとえを読むとき、私たちの多くは一足飛びに百倍を望みます。三十倍はびりのように聞こえ、六十倍は「あと一歩」のように聞こえます。 マタイは収穫を大きい数から並べています。マルコは小さい数から並べています。 「ほかの種は良い地に落ちた。そ...

鎖の中の輝き

伝道というと、私たちはつい議論の組み立てを思い浮かべます。要点を用意し、事実を覚え、相手の考えを変えようと努める。けれども、あなたが持っている最も力ある証しは、実はあなたの表情なのです。 使徒パウロを思い起こしてみましょう。彼はカイザリヤで、鉄の鎖につながれた囚人として立っていました。目の前にいるのは、彼の生殺与奪を握るアグリッパ王とローマの高官たち。それでもパウロは、あわれみを乞うこともなく、絶...

上げるのは、頭です

ある人が、寝床から出るより先にスマートフォンを開きます。戦争の記事、地震の速報、新しいウイルス、そして「この指導者は反キリストの特徴にすべて当てはまる」と語る動画を、指先で次々に流していきます。朝食のころには、もう恐れに捕らわれている。それを本人は「識別」と呼んでいます。 しるしは本物です。主イエスご自身が、それは来ると言われました。 「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、...

キリストだけが埋められる空洞

午前一時、ひとりの青年がベッドに横たわり、顔から十五センチのところにスマートフォンを掲げています。浜辺にいる女の子、友人の新しい車、行ったこともない街に住む見知らぬ誰かの部屋。指を滑らせ、いったん置き、また手に取り、また滑らせる。そして明日の朝、彼は今夜よりもう少し気分が沈んでいるのです。 彼は、他人を通して生きています。他人の目で世界を眺め、他人のいちばん良い瞬間と自分を並べてしまう。結果は目に...

自分探しは、イエスを仰ぐことから

多くの人が、聖書を自己改善の手引きのように読んでいます。よりよい人間になるための規則や公式、段取りを求めてページを開く。そうして本文の中に、自分自身を探そうとするのです。 けれども、自分を見つめることで本当の自分が分かることはありません。自分が何者かは、イエスを仰ぐときに分かるのです。聖書のいちばんの目的は、イエス・キリストを明らかにすることにあります。主を見るために——その麗しさ、そのみわざ、そ...

死は、もう後ろにあります

道の上に立ってみてください。人は一度に一つの方向しか向けません。墓に向かって立つか、救い主に向かって立つか。その両方を同時に向くことはできません。 多くの人は、死を前に置いて生きています。道の先にある動かぬ一点として扱うのです。誕生日が来るたびに一歩近づき、検査の結果は道のりを示す標識のように読める。だから人はそれを見越して計画を立て、備えて蓄え、そして恐れます。 聖書は、信じる者をその道の別の位...

人に気に入られたい心の正体

サウルは人を恐れて、王座を失いました。ダビデは神に愛されていることを知っていたので、王座を保ちました。この二人の王を分けたものは、人の承認の上に築かれた人生と、神の受け入れの上に築かれた人生の違いです。 人に気に入られようとすること――それは性格の問題ではありません。霊のありようの問題であり、聖書はそこに正面から触れています。「人に取り入る者」を指すギリシア語から、世論に膝を折った王の物語まで、聖...

文脈を離れた一節は、口実になる

1535年、マイルズ・カヴァデールが、英語で初めての完全な聖書を印刷しました。その序文で、彼は読者にたったひとつの心得を残しています。「聖書を理解するのに大いに助けとなるのは、何が語られ、何が書かれているかだけでなく、だれによって、だれに向かって、どのような言葉で、いつ、どこで、何のために、どのような状況のもとで語られたのかに心を留め、その前に何があり、その後に何が続くのかを考えることである」 長...

倒れる者はひとりもいなかった

エジプトでの最後の朝を思い描いてみてください。 二百万とも三百万とも言われる人々が、たった一夜で奴隷の地を出て行きます。彼らはれんが作りの労働者でした。背中が鞭を知っている人々でした。その中には年老いた男も、白髪の祖母も、小さな子どももいます。ところが、その群れのどこにも担架は一つも見当たりません。杖にすがる老婆もいません。誰かに背負われている者もいません。 「そして彼らに銀と金とを携えて出させら...

二度の渡り、ひとつの死

イスラエルは二度、水の中を、かわいた地の上に渡りました。 一度目は紅海。二度目はそれから四十年後、ヨルダン川。同じ神、同じ民、同じ奇跡です。水は立ち上がり、民は干上がった川底を歩いて渡りました。 ただ一点だけ、違いがあります。そして、それは小さな違いではありません。 紅海には、箱がありませんでした。ヨルダンでは、契約の箱が先に水の中へ入って行ったのです。 「見よ、全地の主の契約の箱が、あなたがたに...

資格を問わないいやし

わたしたちはしばしば、神の祝福を受けるには、まず自分がその資格を整えなければならないと思い込みます。抱えている問題を片づけ、心の苦さをひとつ残らず取り除き、罪をすべて言い表してから、ようやくいやしを願えるのだ、と。神の力を、行いの良さに対するご褒美のように扱ってしまうのです。 けれども、福音書に描かれた主イエスのみわざを見るとき、そこにはまったく違う筋道が見えてきます。主イエスは、人をいやされる前...