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検索語: “依存”

12件の記事が見つかりました

キリストだけが埋められる空洞

午前一時、ひとりの青年がベッドに横たわり、顔から十五センチのところにスマートフォンを掲げています。浜辺にいる女の子、友人の新しい車、行ったこともない街に住む見知らぬ誰かの部屋。指を滑らせ、いったん置き、また手に取り、また滑らせる。そして明日の朝、彼は今夜よりもう少し気分が沈んでいるのです。 彼は、他人を通して生きています。他人の目で世界を眺め、他人のいちばん良い瞬間と自分を並べてしまう。結果は目に...

人に気に入られたい心の正体

サウルは人を恐れて、王座を失いました。ダビデは神に愛されていることを知っていたので、王座を保ちました。この二人の王を分けたものは、人の承認の上に築かれた人生と、神の受け入れの上に築かれた人生の違いです。 人に気に入られようとすること――それは性格の問題ではありません。霊のありようの問題であり、聖書はそこに正面から触れています。「人に取り入る者」を指すギリシア語から、世論に膝を折った王の物語まで、聖...

闘いが終わるとき

解放とは、意志の力をふりしぼる激しい戦いだ——わたしたちはつい、そう思い込みます。習慣を断ち切ろうと歯を食いしばり、もう一日だけ耐えられますようにと願う。けれども肉は頑固なものです。押さえつければ押さえつけるほど、いっそう強く押し返してくるように感じられます。 「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」 ガラテヤ人への手紙 5:16 (口語訳) もっと高...

罪の本当の理由

なぜ、わたしたちは罪を犯すのでしょうか。自分でも嫌でたまらない習慣や振る舞いに、どうして囚われてしまうのでしょうか。 たいていは、意志が弱いからだと考えます。善くあろうとする努力が足りないのだ、と。けれどもペテロは、根っこにあるのはまったく別のものだと告げます。信頼の欠けです。 「また、それらのものによって、尊くまた大いなる約束が、わたしたちに与えられているのである。それは、あなたがたが、世にある...

救いは失われるのか——恵みの本当の意味

裁判はすでに終わりました。判決は言い渡され、裁判長は席を立ち、木槌の音も鳴りやんでいます。それなのに被告席の人は、もう一度立ち上がってこう尋ねるのです。「でも、本当に確かなのでしょうか」。 これが、自分の救いを疑っている信者の姿です。 「クリスチャンは救いを失うことがあるのか」——この問いは、まじめな信者を心の病へと追い込んできました。神を愛する人々から確信を奪い、良い知らせを、細かい但し書きのつ...

聖書は不安について何を語るか

精神医学の教科書と福音書が、同じことを語っています。今この瞬間を生きなさい、と。違いは、福音書がそれを二千年も前に語っていたことです。 不安は新しいものではありません。SNSと二十四時間流れ続けるニュースが生んだ現代病でもありません。ダビデは詩篇にそれを書き残しました。エリヤは生涯最大の勝利の直後にそれを味わいました。パウロは日々それを背負っていました。主イエスさえ、ゲツセマネの園でその重みの下に...

罪責感が、嫌いなことを繰り返させる

罪責感が人を変える。多くの人はそう思っています。けれども罪責感が生むのは自由ではなく、たいてい同じことの繰り返しです。 何かに囚われている人をよく見てみると、見えてくるのはいつも同じ構図です。その根っこに、罪責感が座っています。 理由はここにあります。 「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである」ローマ人への手紙 6:14 (口語訳)...

その思いは、あなたではありません

敵がもっとも巧みに使う道具のひとつは、「私」という一人称です。 暗い思いが心に入ってきます。恐れの思い、依存の思い、絶望の思い。すると次の瞬間、あなたはこう考えます。「私は依存症だ」。「私は落ち込んでいる」。「私は正気を失いかけている」。 あなたはその思いを自分のものとして引き受け、自分の正体として受け入れてしまうのです。けれども、戸をたたく者がいるからといって、その人がその家に住んでいるわけでは...

感情はあなたの正体ではありません

多くの信じる者の内側で、綱引きが起きています。感情はこう言い、福音はこう告げる。その間で、心が引き裂かれるのです。 パウロはこう記しました。 「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」コリント人への第二の手紙 5:21 (口語訳) あなたはなお、依存から抜け出せないと感じているかもしれません。なお、不安に飲み込まれそう...

恵みは議論しません

教理をめぐる言い争いが、人を変えることはめったにありません。けれども、変えられた一つの人生は、人を変えます。 主イエスが盲人をいやされたとき、パリサイ人たちは議論を始めました。その人は、議論しませんでした。 「ただ一つの事だけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」ヨハネによる福音書 9:25 (口語訳) それが、恵みのすることです。恵みは、どんな批判よりも長く生き残る物語...

恵みが開き、知恵が守る

ベテスダでいやされたあの人を、イエスはもう一度捜し出されました。 責めるためではありません。恥をかかせるためでもありません。守るためでした。 「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたに起るかも知れないから」ヨハネによる福音書 5:14 (口語訳) この言葉は脅しではありません。救い出しです。 聖書は、すべての病が罪のせいだとは決して教えていません。けれど...

意志の力に勝るもの

束縛から抜け出す道は、はじめのうち、たいして力があるようには見えないことがあります。むしろ、あまりにも単純に思えるのです。 「まだもがいている最中に、私はキリストにあって神の義です と告白したところで、いったい何が変わるのでしょうか」。そう問いたくなる信仰者もいるでしょう。 その問いに、聖書が答えます。 「彼は一つのささげ物によって、きよめられる者たちを、永遠に全うされたのである。」ヘブル人への手...