聖書は不安について何を語るか

精神医学の教科書と福音書が、同じことを語っています。今この瞬間を生きなさい、と。違いは、福音書がそれを二千年も前に語っていたことです。
不安は新しいものではありません。SNSと二十四時間流れ続けるニュースが生んだ現代病でもありません。ダビデは詩篇にそれを書き残しました。エリヤは生涯最大の勝利の直後にそれを味わいました。パウロは日々それを背負っていました。主イエスさえ、ゲツセマネの園でその重みの下に、血のような汗を流されました。
聖書は不安を性格の欠陥としては扱いません。人間の経験として扱います。しかもそれは、神が具体的な約束をもって、具体的な言葉をもって、そして具体的なひとりの方をもって出会ってくださる経験です。
この記事では、不安について語る鍵となる聖句を集め、もとのヘブル語とギリシア語をたどりながら、恵みを中心とした応答がどのようなものかを見ていきます。
「不安」を表すギリシア語
ピリピ人への手紙 4:6 で「思い煩う」と訳されている語は (merimnao) μεριμνάω — 「思いわずらう」です。これは (merizo) μερίζω — 「分ける、引き裂く」から来ています。
描かれている光景は、心が一度に十の方向へ引っ張られている状態です。集中できません。じっと座っていられません。思いはあらゆる結末へ散っていき、しかもその多くは悪い結末です。
近い語に (thorybazo) θορυβάζω — 「騒がしく取り乱す」があります。ルカによる福音書 10:41 でマルタの様子を表すのに使われた語で、もとは (thorybos) θόρυβος — 「騒動、ざわめく群衆」です。二つの語を並べると、不安の姿がありありと浮かびます。心は断片に分かれ、そのあいだで思いの群衆が口々に叫んでいるのです。
主イエスはマルタに、この二つの語を同時に用いられました。
ルカによる福音書 10:41-42 (口語訳)
口語訳がこの二つの語を「心を配って」「思いわずらっている」と訳し分けているところを、ぜひ手元の聖書で確かめてみてください。主は台所での働きを責められたのではありません。彼女の内側に起きていること——分裂し、騒ぎに満ちた思い——に触れられたのです。そしてその答えは「もっと落ち着く努力をしなさい」ではありませんでした。答えはひとりの方でした。マリヤは主の足もとに座ることを選んだのです。
詩篇 127:2 は、この状態を「辛苦のかて」と呼びます。不安を食事のように食べる、というヘブル語の言い方です。人は心配をパンのように食べることができます。癖のように、習いのように、眠れない夜更けに。
詩篇 127:2 (口語訳)
ここで「愛する者」と訳された言葉の背後にあるのが (Yedidyah) יְדִידְיָהּ — 「主に愛された者」です。これはソロモンのもう一つの名でもあります。辛苦のかての処方は努力ではありません。身分です。あなたは主に愛された者なのです。
不安についての聖句十二
1. マタイによる福音書 6:25-26 — 思いわずらうな
マタイによる福音書 6:25-26 (口語訳)
主イエスは、思いわずらう人を責められません。目を父の性質のほうへ向け直させるのです。「あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」(32節)。処方は意志の力ではありません。自分がどれほど大切にされているかという啓示です。
2. ピリピ人への手紙 4:6-7 — 何事も思い煩ってはならない
ピリピ人への手紙 4:6-7 (口語訳)
パウロは「不安を感じるのをやめよ」とは言いません。その不安を神のもとへ持って行け、と言うのです。結末は、あなたが自分を直すことではありません。平安があなたを守るのです。働くのは平安の側です。あなたがそれを生み出すのではありません。
3. ペテロの第一の手紙 5:7 — 思いわずらいをいっさい
ペテロの第一の手紙 5:7 (口語訳)
ゆだねることができる根拠は、あなたの強さではありません。神の愛情です。「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから」。荷を虚空に放るのではありません。すでにあなたを心にかけている方の上に置くのです。(「ゆだねる」の原語についてはのちほど触れます。)
4. 詩篇 55:22 — あなたの荷を主にゆだねよ
詩篇 55:22 (口語訳)
約束は「問題が消える」ではありません。「主はあなたをささえられる」です。神はいつも状況を取り去られるわけではありません。その只中であなたを支えられるのです。
5. イザヤ書 41:10 — 恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる
イザヤ書 41:10 (口語訳)
「……してはならない」の後には、必ず「わたしは……する」が続きます。恐れてはならない——わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない——わたしはあなたの神である。神が「わたしは」と言われる言葉が五つ並び、重い荷はすべて神が担われます。どんな危機にあっても、最初に聞くべき声は神の声です。
6. テモテへの第二の手紙 1:7 — おくびょうの霊ではなく
テモテへの第二の手紙 1:7 (口語訳)
ここで「おくびょう」と訳されている語は、よく使われる (phobos) φόβος — 「恐れ」ではありません。(deilia) δειλία — 「臆病、すくみ上がる怯え」です。後ずさりさせ、身をこわばらせる怯えです。口語訳が「おくびょうの霊」と訳し分けているところに注目してください。パウロはテモテにこう告げます。その感覚はあなたの父から来たものではない、と。では父から来たものは何でしょうか。(dunamis) δύναμις — 「力」。(agape) ἀγάπη — 「愛」。(sophronismos) σωφρονισμός — 「健全で整った思い」。どれも達成すべき水準ではなく、すでにあなたのうちに預けられている贈り物です。
7. 詩篇 94:19 — 思いわずらいが増すとき
詩篇 94:19 (NKJV より私訳)
詩人は、思いわずらいが去ったふりをしません。それは「増す」と言うのです。それでいて——まさにその真ん中で——神の慰めが魂を喜ばせます。この一節では、不安と神の慰めが同居しています。神は、あなたが心を整理し終えた後ではなく、思いわずらいが群れをなしている只中で出会ってくださるのです。
8. 詩篇 23:4-5 — 敵の前の食卓
詩篇 23:4-5 (口語訳)
ダビデは谷を避けません。谷を通り抜けて歩きます。そしてもっとも暗い場所で、神は食卓を整えられます。敵が立ち去ってからではありません。「わたしの敵の前で」です。恵みは谷を消し去りません。恵みは谷の中に宴を設けます。
9. マタイによる福音書 11:28-30 — わたしのもとにきなさい
マタイによる福音書 11:28-30 (口語訳)
主は「わたしのもとにきなさい」と言われます。「自分を整えてから来なさい」ではありません。約束は「休ませてあげよう」です。休みは習得すべき技術ではなく、ひとりの方からの贈り物です。しかも主はご自身を「柔和で心のへりくだった者」と言われます。不安な者に厳しい方ではありません。やさしい方です。
10. ローマ人への手紙 8:15 — 子たる身分を授ける霊
ローマ人への手紙 8:15 (口語訳)
ここで恐れは「奴隷」と結びついています。律法にもとづく成績の古い仕組みです。その解毒剤は、さらなる努力ではありません。子であるという身分です。「アバ」は、幼な子が父を呼ぶ、もっとも親しい呼びかけです。恐れは成績によってではなく、関係によって溶けていきます。
11. ヨハネによる福音書 14:27 — わたしの平安を与える
ヨハネによる福音書 14:27 (口語訳)
主は「わたしの平安」と言われます。嵐の中で眠っておられたとき、主が生きておられたその平安です。概念を譲るのではありません。ご自身の所有をそのまま譲られるのです。遺産のように。世の平安は良い状況に依存します。主の平安は主ご自身に依存します。
12. 詩篇 46:1-2 — いと近き助け
詩篇 46:1-2 (口語訳)
神は遠くの助けではありません。「悩める時のいと近き助け」です。悩みの後ではなく、悩みの中に。ここでのヘブル語は、すぐそこに、豊かに見いだされるという響きを持っています。今、ここに、です。
不安と格闘した四人
エリヤ — 勝利のあとの落ち込み
カルメル山での生涯最大の勝利——天から火が降った、あの日——の直後、エリヤはイゼベルの殺害予告を受けて逃げました。れだまの木の下で倒れ込み、死を願います。
列王紀上 19:4 (NKJV より私訳)
これに対する神の応答は、じっくり味わう価値があります。神はエリヤを責めませんでした。聖句を突きつけもしませんでした。御使いを遣わし、食べ物と水を与えられました。しかも二度です。眠らせてくださいました。そして、旅路が遠すぎるのだからと言われました(列王紀上 19:7)。
エリヤが信仰に立っていた日には、烏が彼を養いました。落ち込みの日には、御使いが仕え、神ご自身が近づかれました。神はあなたのいちばん低い場所であなたを見捨てません。むしろ、近づいてこられます。
ダビデ — 神の前での偽らぬ正直さ
「神の心にかなう人」と呼ばれたダビデは、聖書の中でもっとも不安に満ちた言葉を書き残しました。
詩篇 55:4-5 (NKJV より私訳)
ダビデは、神に近づく前に自分の感情を整えたりしませんでした。装いませんでした。彼の詩篇は削られていない、生のままの叫びです。そして神は、その一語一語を聖書に残されました。詩篇は、あなたの本当の感情を神のもとへ持っていく許可を与えてくれます。
主イエス — ゲツセマネの苦悶
ルカによる福音書 22:44 (NKJV より私訳)
ここで「苦しみもだえ」と訳された語は (agonia) ἀγωνία — 「極限の苦悶」です。医学には血汗症という稀な症状が知られています。極度の苦悩によって汗腺近くの毛細血管が破れる現象です。罪のない神の御子である主イエスが、記録された中でもっとも激しい不安を通られました。そして、罪を犯されませんでした。
パウロ — 日々の心づかい
「何事も思い煩ってはならない」と書いたパウロが、こう告白してもいます。
コリント人への第二の手紙 11:28 (NKJV より私訳)
ここで「心づかい」と訳される語は (merimna) μέριμνα — 「思いわずらい」で、ピリピ人への手紙 4:6 の「思い煩う」と同じ語根です。手元の聖書で、訳語の違いを見比べてみてください。パウロは偽善者ではありません。不安についてもっとも偉大な一節を書いた人が、日々それを味わっていたのです。ピリピ人への手紙 4:6 は、一度も葛藤しなかった人の言葉ではありません。絶えず葛藤し、それをどこに置けばよいかを見いだした人の言葉です。
不安は罪ではありません
これは、多くの人が思っている以上に大切なことです。
もし不安が罪なら、主イエスはゲツセマネで罪を犯されたことになります。それはありえません。もし不安が道徳的な失敗なら、ダビデの詩篇は礼拝ではなく罪の告白になってしまいます。もし不安が信仰の薄さの証拠なら、パウロは自分の書いた手紙から失格させられるでしょう。
不安は人間の経験です。神はあなたをそこから救い出したいと願われるでしょうが、そのことであなたを罪に定めることは決してありません。ローマ人への手紙 8:1 はこう言い切ります。
ローマ人への手紙 8:1 (口語訳)
「本当のクリスチャンならこんなふうには感じないはずだ」という声は、あなたの父のものではありません。それは訴える者の声であり、その者はすでに敗れています。エリヤの不安に対する神の最初の応答は、食べ物と水と眠りでした。神学の訂正ではありませんでした。
もちろん、心配は体に代償を払わせます。それは記録され、確かに実在する影響です。慢性的な心配はコルチゾールを高く保ち、来もしない脅威に備えて血中に糖を流し込み、時とともに免疫を弱めます。けれども、その代償への答えは罪の意識ではありません。恵みです。あなたの体を造られた神が、それを回復させる道もすでに備えておられます。
本当の解毒剤 — 平安はひとりの方です
ヘブル語の (shalom) שָׁלוֹם — 「平安」と、ギリシア語の (eirene) εἰρήνη — 「平和」は、どちらも穏やかな気分よりはるかに広い言葉です。シャロームは全体であること、欠けのないこと、繁栄、健やかさを意味します。エイレーネーの語根は「つなぐ、再び一つにする」という意味を持ちます。
主イエスが「わたしの平安をあなたがたに与える」と言われたとき、用いられたのは全体としての健やかさを表す言葉でした。そして新約聖書では、エイレーネーは性質にとどまりません。ひとりの方と同一視されています。パウロはこう書きます。
エペソ人への手紙 2:14 (口語訳)
平安は技術ではありません。呼吸法でも、前向きな思考でもありません。平安はひとりの方であり、その名はイエスです。「わたしの平安をあなたがたに与える」と言われるとき、主はご自身を与えておられるのです。
イザヤ書 9:6 は主を (Sar Shalom) שַׂר שָׁלוֹם — 「平和の君」と呼びます。穏やかな気分の君ではありません。全体としての、根っこからの健やかさの君です。この平安は外の状況に依存しません。困難の中にも、谷の中にも、嵐の音が大きいときにもそこにとどまります。
だからこそ、主イエスの平安は世が差し出すものとは根本から異なります。休暇は問題からしばらく離れさせてくれます。よく眠れた朝は、新しい視点をくれます。どちらも良いものです。けれども、どちらも状況に左右されます。主が差し出す平安は、困難の内側で働きます。嵐が過ぎ去るのを待たないのです。
思いわずらいを神にゆだねる
詩篇 55:22 で「ゆだねよ」と訳された語は、ヘブル語の (shalak) שָׁלַךְ — 「投げる、放り出す、投げつける」です。同じ動詞が、ヨセフを穴に投げ入れた兄たちの行為(創世記 37:24)や、海に投げ込まれたヨナ(ヨナ書 1:15)にも使われています。口語訳の「ゆだねよ」という穏やかな訳語の下に、これほど勢いのある動詞があることを覚えておいてください。
これは丁重な引き渡しではありません。力のこもった動作です。神は、心配を祭壇にきちんと並べよとは言われません。投げよ、と言われます。自分から遠くへ放り出せ、と。
ペテロの第一の手紙 5:7 のギリシア語は (epirrhipto) ἐπιρρίπτω — 「上に投げかける」。epi(〜の上に)と rhipto(力をこめて投げる)の合成語です。時制はアオリスト分詞、つまり一度で決着する行為です。ペテロが描いているのは重さの完全な移し替えであり、心配をこまめに管理し続ける日課ではありません。
そしてペテロが挙げる理由——「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから」——は現在形です。あなたの側の移し替えは一度で決まります。神の顧みは絶えることがありません。
続く節が置かれているのは偶然ではありません。
ペテロの第一の手紙 5:8 (口語訳)
敵が食いつくせるのは、思いわずらいに押しつぶされている者だけです。荷を主イエスの上に投げた者には、手が届きません。不安は足がかりであり、休みは防御です。あなたの思いには兜が必要です。その兜は望みです。
休み — 忘れられた武器
イスラエルがレピデムという場所に着いたとき——それは「休み場」を意味するヘブル語です——アマレクが攻めてきました(出エジプト記 17:8)。アマレクという名は (amal) עָמָל — 「骨折り、疲れさせる労苦」という語根から来ています。
筋道は明らかです。あなたが休みに入るたびに、あくせくと働かせる霊が抵抗してきます。恵みのもとであなたが戦うべき戦いはただ一つ、休みにとどまることです。
聖書で「聖なる」——(kadosh) קָדוֹשׁ — 「聖い、聖別された」——という語が最初に現れる場面は、休みと結びついています。
創世記 2:3 (口語訳)
そして「恵み」が最初に現れるのは、ノアと結びついています。その名 (noach) נֹחַ は「休み」を意味します。
創世記 6:8 (口語訳)
休みが恵みを見いだしました。休むほどに、恵みが近づきます。力み続けるほどに、恵みは遠のきます。これは仕事や責任を放り出す話ではありません。内側の力み——自分の努力で結果を出さねばと落ち着かない衝動——のことです。
ヘブル人への手紙 4:11 は、信じる者にただ一つの努力を呼びかけます。力むのをやめる努力です。
ヘブル人への手紙 4:11 (NKJV より私訳)
新約聖書で「悪」と訳される語 (poneros) πονηρός は、辞書の第一の意味が「労苦と骨折りと煩わしさに満ちた」であり、第二の意味が「悪い」です。聖書の意味で「悪い心」とは、まず何より、あくせくとした不安な労苦に満ちた心のことなのです。
心配が、解決すると約束した問題を決して解決しないのには理由があります。あなたがいちばん心配している領域こそ、恵みがいちばん流れていない領域です。不安はあなたを守りません。守っているふりをするだけです。立ち止まれば取り残される、と囁きます。けれども実際は、その逆です。
ある上場企業の役員が、こんなことを話してくれました。「状況が気になって、急いで office に飛び込んで手を打つと、いつも事態は悪くなります。でも立ち止まって休み、みことばに耳を傾けていると、なぜか良いほうへ運ばれていくのです」。力むのをやめたとき、商いの失敗さえ利益に変わったといいます。
配偶者や子ども、同僚に感じるいら立ちも、しばしばここから始まります。相手からではなく、すでに自分の内側に座り込んでいる心配からです。心配が去るとき、忍耐が戻ってきます。
福音の答え
不安に対する福音の答えは、「もっと信頼する努力をしなさい」ではありません。福音の答えは、「すでに与えられているものを受け取りなさい」です。
力は与えられました。愛は与えられました。健やかな思いは与えられました。平安は与えられました。休みは与えられました。
あなたは平安へ向かって登っているのではありません。平安はすでに、あなたのところへ降りてきています。
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