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検索語: “平安”

20件の記事が見つかりました

カイロスの意味とは?時計では測れない神の時

多くの人は時計に従って生きています。時間、締め切り、カレンダー。そうやって人生を測っています。けれども聖書は、時について別の言葉を使います。壁にかかった時計とは、何の関係もない言葉です。 その言葉が (カイロス) καιρός — 「定められた、恵みにかなった時」です。この一語を知ると、新約聖書のおもだった約束の読み方が変わります。 カイロスは分を数えません。時を刻むのではなく、時を告げます。神が...

いやしは贖いのうちに

十字架の上でのイエスの死を思うとき、わたしたちがまず心に浮かべるのは、罪のゆるしです。負債は支払われ、神との間は和らげられた——そのことを喜びます。これこそ、わたしたちの信仰の土台です。 けれども、十字架のみわざは、それよりもさらに満ち足りたものでした。イエスが負われたのは、わたしたちの罪だけではありません。わたしたちの病と、わたしたちの患いをも負われたのです。からだのいやしもまた、贖いの中に含ま...

賢い人が道を誤る理由

わたしたちはしばしば、学識と知恵を取り違えます。 学識とは、事実を積み上げることです。知識を蓄え、データを分析し、試験に合格する力のことです。それは確かに尊いものですが、自分の器の大きさを超えることはできません。知恵は、それとは違います。知恵とは、その知識を用いる力です。分析する頭の働きを飛び越えて、ふいに与えられる明るさのことです。 聖書は語ります。ソロモンの知恵は大学から出たものではなく、神か...

バビロンのただ中で

信じる者は、神の基準を受け入れない世の仕組みの中で日々を送っています。これは今に始まったことではありません。イスラエルの民もまた、敵意に満ちた文化の秩序のもとで、七十年のあいだバビロンの捕囚として生きました。 預言者エレミヤを通して、神は神を知らぬ文化の中で生きるための、具体的な指示をお与えになりました。山の洞穴に身を隠せとも、普通の暮らしを捨てよとも、神はお命じになりませんでした。 「家を建てて...

鎖の中の輝き

伝道というと、私たちはつい議論の組み立てを思い浮かべます。要点を用意し、事実を覚え、相手の考えを変えようと努める。けれども、あなたが持っている最も力ある証しは、実はあなたの表情なのです。 使徒パウロを思い起こしてみましょう。彼はカイザリヤで、鉄の鎖につながれた囚人として立っていました。目の前にいるのは、彼の生殺与奪を握るアグリッパ王とローマの高官たち。それでもパウロは、あわれみを乞うこともなく、絶...

与えられた地を歩く

「自分のものにする」と聞くと、私たちはたいてい戦いを思い浮かべます。地を取るとは、汗を流し、力を尽くし、勝ち取ったものをどうにか守り抜くこと——そんな連戦の日々を想像するのです。けれども神が約束の地についてヨシュアに語られたとき、用いられたのは、その思い込みを根もとから覆す一語でした。「わたしは、すでに与えた」。 「あなたがたが足の裏で踏む所は、わたしがモーセに言ったとおり、ことごとくあなたがたに...

ソーゾー — 救いも、いやしも、解放も、ひとつの言葉に

多くのクリスチャンが、「救われた」という言葉を知っています。けれども、その言葉の背後にあるギリシア語 — ソーゾー — が、同時に「いやされた」「救い出された」「全きものとされた」「守られた」という意味を持っていることを知る人は、それほど多くありません。一つの言葉が、そのすべてを抱えているのです。 これは小さなことではありません。神は初めから、救いをあなたのたましいのところで止めるおつもりなどなか...

短気になるのは、恵みが尽きているから

律法は要求します。 恵みは供給します。 子どもに要求ばかりを突きつける親を思い浮かべてみてください。「どうしてもっとちゃんとできないの。なぜ怒るの。変わりなさい。やめなさい」。これが律法の声です。欠けを言い当てはしますが、それを直す力は少しも与えてくれません。 恵みは、同じ問題にまったく別の仕方で近づきます。行いを変えるために必要な「자기」ではなく、まず新しい身分を供給するのです。「あなたはこんな...

心の目を守る

使徒パウロは、エペソの信徒たちのために深い祈りをささげました。知恵と啓示との霊を受けるようにと願ったのです。そして、その霊的な知恵がどのように働くのかを、はっきりと言い表しました。それは、心の目が明るくされるときに起こる、と。 原文のギリシア語で「心」にあたる語は (ディアノイア) διάνοια — 「理解力、思い、想像」です。「明るくされる」にあたる語は (フォーティゾー) φωτίζω —...

癒しは、力むより休むところに

いちばん深い戦いは、病そのものではないことがあります。自分の心に、自分でかけている重圧のほうが、ずっと苦しいのです。 癒されたい一心で、私たちは力み始めます。告白は足りていただろうか。正しく信じられているだろうか。祈りの時間は十分だっただろうか。 そうして力んでいるうちに、いつのまにか安息が消えてしまうのです。 けれども聖書は、私たちに必要な唯一の努力は、安息にはいることだと思い起こさせます。 「...

聖書は「考えすぎ」に何と言うか

頭が止まってくれません。夜、床に入ると、思いの群れが口々に叫び出します。交わした会話を何度も巻き戻し、まだ起きてもいない災いを予行演習し、存在してもいない問題を解こうとする。そして止めようとすればするほど、頭の中の音量は上がっていきます。 聖書には、この状態を指す言葉があります。いいえ、二つあります。 ギリシャ語の (メリムナオー) μεριμνάω — 「いくつにも分けられる」。十の方向へ引き裂...

攻撃されるのは、道を外れていない証拠

霊的な攻撃を受けると、自分が何か間違ったことをしたせいだと考える人がいます。けれども多くの場合、事実はその逆です。 主イエスはこう言われました。 「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。」ヨハネによる福音書 10:10 (口語訳) 盗人は、空っぽの家には押し入りません。宝の置かれている場所をこそ狙うのです。 敵は、あなたのまなざしに宿る安らぎを憎みます。あなたの語り...

孤独に、聖書はどう答えるか

人でいっぱいの部屋にいながら、ひとりだと感じることがあります。人の行き交うオフィス、席の埋まった礼拝堂、家族が囲む食卓。それでも、隣の席だけがぽっかり空いているように思えるのです。孤独は、まわりに何人いるかで決まるものではありません。いま自分が立っている場所と、自分が本当に知られていると感じられる場所との、その隔たりのことなのです。 聖書はこの主題を避けません。詩篇にも、預言者の書にも、主イエスの...

備えの前に、すわる

世界はかつてないほど速く動いているのに、私たちの息はかえって詰まっていくようです。危機が来ると、私たちの本能はアクセルを踏むことです。もっと働き、もっとかき集め、とにかく動いて問題をねじ伏せようとします。けれども主イエスが示された順序は、それとは違いました。まずすわる。それから受け取る。 ヨハネによる福音書 6 章で、主は大勢の群衆を前にされます。手もとに食べ物はありません。けれども主は慌てもせず...

神の定める成功

私たちはつい、画面に並ぶ数字や机に向かった時間の長さで成功をはかります。昼も夜も相場を追いかけ、目が腫れるまで見つめ続けます。疲れ果てることこそ、繁栄の代価なのだと思い込んでいるのです。 けれども神は、成功をまったく別の言葉で定義なさいます。神がヨシュアに語りかけられたとき、お与えになったのは戦の作戦でも、額に汗する労働の手引きでもありませんでした。お与えになったのは、み言葉についての命令でした。...

ありふれない、という生き方

きよさには、イメージの問題があります。 私たちはいつのまにか、きよさを「自分は他人より正しい」という態度と結びつけてしまいました。冷ややかで、人と距離を置き、裁くまなざし。高い台の上に立って、世を見下ろしている姿を思い浮かべるのです。 けれども、それはきよさではありません。高ぶりです。 ヘブライ語で「聖なる」は (カドーシュ) קָדוֹשׁ — 「選び分けられた、他と分けられた、聖なる」。ギリシ...

労苦の呪いは終わりました

第一の園で、働きは呪いとなりました。アダムの堕落のゆえに、地は人に逆らうものとなり、実りは「顔に汗して」得るものとなったのです。ストレスも、不安も、重くのしかかる労苦も、その日に生まれました。 「あなたは顔に汗してパンを食べ」 創世記 3:19 (口語訳) 時をくだって、もうひとつの園があります。ゲツセマネです。そこで「第二のアダム」である主イエスは、受難の道を歩み始められました。祈っておられるう...

野の花よりも尊いあなた

私たちは人生の多くを、大きくなろうともがきながら過ごします。自分の背丈のこと、知恵のこと、行く末のこと。自分の手で安心を紡ぎ出し、自分の力で評判を積み上げようとします。 けれども主イエスは、それとはまったく別の道を指さされます。野の花の道です。 八福の丘の上、赤や黄の花に囲まれながら、主は一輪の花を手に取り、これがどう育っているか見てごらん、と言われました。夜更けまで働くわけでもなく、思いわずらう...

聖書が語る恐れ — 自由にする七つの真理

医者はパニック発作に薬を処方できます。カウンセラーは、思考の枠組みを組み替える術を教えてくれます。けれども聖書は、そのどちらにもできないことをします。恐れがどこから来たのか、だれがそれを打ち破ったのか、そしてなぜそれがもはやあなたの人生に立ち入る権利を持たないのかを、はっきり告げるのです。 恐れは、神が聖書の中で最も繰り返し語られた主題です。「恐れるな」という言葉は、聖書に三百六十五回以上出てきま...

幕屋を出る日

わたしたちが死を恐れるのは、それを「終わり」と見ているからです。冷たい部屋、止まった心臓、意識の消失——思い描くのはそんな光景でしょう。けれども聖書は、まったく別の絵を見せます。わたしたちの体を、仮に張られた一つの幕屋にたとえるのです。 「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。」 コリ...