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検索語: “癒し”

20件の記事が見つかりました

人に気に入られたい心の正体

サウルは人を恐れて、王座を失いました。ダビデは神に愛されていることを知っていたので、王座を保ちました。この二人の王を分けたものは、人の承認の上に築かれた人生と、神の受け入れの上に築かれた人生の違いです。 人に気に入られようとすること――それは性格の問題ではありません。霊のありようの問題であり、聖書はそこに正面から触れています。「人に取り入る者」を指すギリシア語から、世論に膝を折った王の物語まで、聖...

倒れる者はひとりもいなかった

エジプトでの最後の朝を思い描いてみてください。 二百万とも三百万とも言われる人々が、たった一夜で奴隷の地を出て行きます。彼らはれんが作りの労働者でした。背中が鞭を知っている人々でした。その中には年老いた男も、白髪の祖母も、小さな子どももいます。ところが、その群れのどこにも担架は一つも見当たりません。杖にすがる老婆もいません。誰かに背負われている者もいません。 「そして彼らに銀と金とを携えて出させら...

癒しは、力むより休むところに

いちばん深い戦いは、病そのものではないことがあります。自分の心に、自分でかけている重圧のほうが、ずっと苦しいのです。 癒されたい一心で、私たちは力み始めます。告白は足りていただろうか。正しく信じられているだろうか。祈りの時間は十分だっただろうか。 そうして力んでいるうちに、いつのまにか安息が消えてしまうのです。 けれども聖書は、私たちに必要な唯一の努力は、安息にはいることだと思い起こさせます。 「...

孤独に、聖書はどう答えるか

人でいっぱいの部屋にいながら、ひとりだと感じることがあります。人の行き交うオフィス、席の埋まった礼拝堂、家族が囲む食卓。それでも、隣の席だけがぽっかり空いているように思えるのです。孤独は、まわりに何人いるかで決まるものではありません。いま自分が立っている場所と、自分が本当に知られていると感じられる場所との、その隔たりのことなのです。 聖書はこの主題を避けません。詩篇にも、預言者の書にも、主イエスの...

この約束は携挙の話ではありません

約束を読み違えた時制で受け取ると、しまい込む引き出しまで間違えてしまいます。 多くの信者が、ローマ人への手紙 8:11 でそれをしています。読んで、一瞬希望がわいて、それからその約束をまるごと未来へ押しやってしまう。「それは携挙のときの話でしょう」と。こうして、この御言葉は「いつの日か」と書かれた引き出しに眠り、火曜日の現実には指一本触れないままになります。 けれども、この節をよく見てください。...

喜びが湧くまで食べる

多くの人は、エレミヤのこの一文を前半だけ引いて、そこで止まってしまいます。 「わたしはあなたの言葉を見いだして、それを食べました。あなたの言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしはあなたの名をもってとなえられている者です」 エレミヤ書 15:16 (口語訳) この節には、二つの動きがあります。まず、彼は食べます。そのあとで、何かが立ち上がってくるのです。 エレミヤ...

からだを見ず、約束を見る

多くの信仰者が、自分のどこが悪いのかを調べることに、たくさんの力を注いでいます。検査の数値。症状。痛みの度合い。調べれば調べるほど不安をあおる検索結果や、ChatGPT への問いかけ。 アブラハムは、違う生き方をしました。 「彼は信仰が弱らず、すでに死んだも同然の自分のからだを、じっと見つめることをしなかった。不信仰によって神の約束を疑い、ぐらつくことはなかった。」ローマ人への手紙 4:19–20...

祝福する祭司

シナイ山で神が律法をお与えになるはるか前に、一人の不思議な王、そして祭司がアブラハムの前に現れました。その名をメルキゼデクといいます。アブラハムは苦しい戦いから帰る途上で、疲れ果てていました。そのアブラハムを、メルキゼデクは力づけるもの、そして祝福の言葉をもって迎えたのです。 「その時、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った、...

あきらめず、信頼し続ける

主に向かってもっとも多く問われてきた祈りの一つは、きっとこれではないでしょうか。「主よ……いつまでですか」。 ダビデも、同じように問いました。 「主よ、いつまでわたしをお忘れになるのですか」詩篇 13:1 (口語訳) けれどもダビデは、そこにとどまりませんでした。 「しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼します。わたしの心はあなたの救を喜びます」詩篇 13:5 (口語訳) ここで「いつくしみ」と訳...

あなたの本当の血筋

人は神ではなくサタンを信じ、大逆の罪を犯しました。このただ一つの選びによって、傷ひとつなかった世界に、老いと病と死が入り込んだのです。 わたしたちはふだん、自分を地上の系図で説明します。父の短気を、父の不安を、父の病歴を、いずれ受け継ぐものと思い込んでいます。世は言います。あなたの健康も、あなたの性格も、血のつながりが決めるのだと。 けれども聖書は、その鎖をきっぱりと断ち切ります。イエスは第二のア...

復活の主という鏡

わたしたちには癖があります。自分の人生を——その痛み、その失敗、その限界を——じっと見つめて、それを動かしようのない最終の現実として受け入れてしまう癖です。 けれども聖書は、別の鏡を差し出します。自分から目を離して、イエスを見なさい、と。しかも、ガリラヤの岸辺を歩かれた日のイエスだけではありません。今この瞬間のイエス——天に上げられ、栄光を受け、父の右に座しておられるそのお姿を見なさい、と招かれて...

油注ぎの論理

わたしたちは、筋の通ったものを好みます。神秘よりも論理のほうが、どこか安心できるのです。 ですから、病む人に油を塗るとか、家に油を注ぐといった話を読むと、理性が立ち止まります。古めかしく思えます。理屈に合わないと感じます。「油に何ができるというのか」と。 働くのは、油ではありません。従順です。 旧約に出てくる、らい病のナアマンを思い起こしてください。預言者は彼に、ヨルダン川に七たび身を浸せば清くな...

ダビデが開かなかった部屋

私たちの心には、できれば閉じたままにしておきたい部屋があります。触れられたくない、名前をつけられたくない、覗かれたくない場所です。 ダビデもまた、それを知っていました。 彼はほとんどすべてを神のもとへ携えていきました。恐れも、怒りも、受けた不当な仕打ちも、失望も、混乱も、そしていちばん暗い感情までも。 「主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。」詩篇 13:1 (口語訳)...

シャローム——「平和」では足りない

多くの人は、シャロームを「平和」と訳します。それは「家庭」を「建物」と訳すようなものです。間違いではありません。けれども、まだ足りません。 シャロームは、ヘブライ語聖書のなかでもっとも豊かな言葉のひとつです。旧約聖書に二百五十回以上あらわれます。日々のあいさつとして交わされ、軍勢の上に宣言され、預言者たちによって約束され、神ご自身の名にまで刻まれました。御使たちがイエスの誕生を告げたとき、ただ気分...

あなたが休むとき、神が働かれます

安息日は、何もしないための日ではありませんでした。それは、歩調を合わせるための日でした——あなたが手を止め、神が働かれるために。 だからこそ、イエスは安息日にこそ、繰り返し人を癒されたのです。反抗ではありません。啓示でした。 「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」ヨハネによる福音書 5:17 (口語訳) 人が休むとき、天が動きます。 けれども宗教の指導者たちは、癒しを人の...

収穫が、種まきを待たない日

自然の世界には、必ず「間(ま)」があります。 十月に種をまき、冬の間じっと待ち、四月に刈り取る。働きと報いとの間には、幾月もの沈黙があり、幾月もの待つ時間があります。 けれども神は、その時間割そのものが畳まれてしまう季節を約束しておられます。 「主は言われる、見よ、このような日が来る。その日には、耕す者は刈る者に相継ぎ、ぶどうを踏む者は種をまく者に相継ぐ……」 アモス書 9:13 (口語訳) 思い...

その心配が、体を蝕みます

心配は、害のない癖のように扱われがちです。少しくらい気を揉むのは真剣さの証拠——そう思ってはいないでしょうか。 けれども医学の目から見れば、慢性的な不安は体への攻撃にほかなりません。心配するとき、副腎はコルチゾールを分泌します。血流には糖があふれ、体は「闘うか、逃げるか」の構えを取ります。 この仕組みは、短期の生存にかけては見事なものです。虎に追われているなら、その糖こそ命綱です。 しかし、低く垂...

期待しないほうが、安全ですか

世の中はこう言います。「あまり期待しないほうがいいよ」。その言葉は、あなたを守るために差し出されます。期待を低く抑えておけば、うまくいかなかったときに落胆せずにすむ——そう考えるからです。 けれども聖書は、まるで逆のことを語ります。「救の望みのかぶと」をかぶりなさい、と。 ギリシア語で「望み」はこの言葉です。(エルピス) ἐλπίς — 「良いことが来るという、確信に満ちた喜ばしい期待」 それは願...

待たせるほどの愛

ラザロの物語には、私たちがつい読み飛ばしてしまう、不思議な一節があります。 主イエスのもとに、友が死にかけているという知らせが届きます。主が愛しておられたラザロが、病に伏している。ふつうなら、すべてを置いて駆けつけられるはずです。愛とは急ぐもの、そう思うのが人の常でしょう。 ところが聖書は、正反対のことを記します。 「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。ラザロが病気であることを聞...

啓示は、備えられた人生を開く

海を渡る船の中で、下の船室にこもり、ビスケットだけをかじって過ごした男がいました。食事は船賃に含まれていたのに、そのことを知らなかったのです。食べ物ははじめから彼のものでした。ただ、知らなかっただけなのです。 多くの信者が、これと同じ旅をしています。祝福が足りないからではありません。足りないのは、光なのです。 パウロはこう書きました。 「神の召しによって与えられる望みがどんなものであるか、聖徒たち...