祝福する祭司

シナイ山で神が律法をお与えになるはるか前に、一人の不思議な王、そして祭司がアブラハムの前に現れました。その名をメルキゼデクといいます。アブラハムは苦しい戦いから帰る途上で、疲れ果てていました。そのアブラハムを、メルキゼデクは力づけるもの、そして祝福の言葉をもって迎えたのです。
メルキゼデクが携えてきたのは、要求でも、掟でも、責めの言葉でもありませんでした。彼が持ってきたのはパンとぶどう酒であり、その口から出たのは祝福でした。この古い日の出来事は、今日の私たちと主イエスとの関係を映す一枚の絵なのです。
ヘブライ語で (メルキツェデク) מַלְכִּי־צֶדֶק という名は「義の王」を意味します。後に律法のもとで立てられたレビの祭司職は、要求の上に成り立っていました。従えば祝福し、失敗すれば呪う——そういう仕組みです。けれどもメルキゼデクの位に等しい祭司職は、供給の上に成り立っています。主イエスこそ、この新しい位における私たちの大祭司です。主は疲れきった私たちに、パンとぶどう酒——聖餐をもって会ってくださいます。そして私たちのからだと心に、癒しといこいを運んでくださるのです。
この恵みに対して、アブラハムは十分の一をささげることで応えました。ヘブライ語で十分の一は (マアセール) מַעֲשֵׂר — 「十分の一、十分の一の分け前」といい、その語根は (アーシャル) עָשַׂר — 「富む」という言葉です。アブラハムは律法に迫られてささげたのではありません。神のいつくしみを目の当たりにしたから、ささげたのです。恵みのもとにある私たちも、祝福を得るためにささげるのではありません。大祭司なる主によってすでに祝福されているからこそ、ささげるのです。
恵みの祭司職のもとで、神はあなたの働きを求められるのではなく、あなたの力を供えてくださいます。
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