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検索語: “聖餐”

20件の記事が見つかりました

倒れる者はひとりもいなかった

エジプトでの最後の朝を思い描いてみてください。 二百万とも三百万とも言われる人々が、たった一夜で奴隷の地を出て行きます。彼らはれんが作りの労働者でした。背中が鞭を知っている人々でした。その中には年老いた男も、白髪の祖母も、小さな子どももいます。ところが、その群れのどこにも担架は一つも見当たりません。杖にすがる老婆もいません。誰かに背負われている者もいません。 「そして彼らに銀と金とを携えて出させら...

ソーゾー — 救いも、いやしも、解放も、ひとつの言葉に

多くのクリスチャンが、「救われた」という言葉を知っています。けれども、その言葉の背後にあるギリシア語 — ソーゾー — が、同時に「いやされた」「救い出された」「全きものとされた」「守られた」という意味を持っていることを知る人は、それほど多くありません。一つの言葉が、そのすべてを抱えているのです。 これは小さなことではありません。神は初めから、救いをあなたのたましいのところで止めるおつもりなどなか...

多くの人が病む、ただ一つの理由

パウロは、はっとさせられることを書いています。ただ一つの理由が——たった一つが——多くの信者が弱り、病み、ついには眠りについた訳を説き明かしています。 「あなたがたの中に弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである」コリント人への第一の手紙 11:30 (口語訳) ギリシア語は、その点をはっきりと示しています。(ディア トゥート) διὰ τοῦτο — 「このゆえに」。...

十分の一は、律法より先にありました

ひとりの人が、自分の持ち物すべての十分の一を、ひとりの祭司に手渡しました。モーセの律法が与えられる四百年以上も前のことです。命令もなく、義務もなく、神殿もありません。あるのはただ、自分を救い出してくださった神への、感謝のこたえだけでした。 その人がアブラハム。そして祭司がメルキゼデクです。 十分の一をめぐる話は、たいてい義務から始まります。「ささげるべきですか」「ささげなければ神に罰せられますか」...

祝福する祭司

シナイ山で神が律法をお与えになるはるか前に、一人の不思議な王、そして祭司がアブラハムの前に現れました。その名をメルキゼデクといいます。アブラハムは苦しい戦いから帰る途上で、疲れ果てていました。そのアブラハムを、メルキゼデクは力づけるもの、そして祝福の言葉をもって迎えたのです。 「その時、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った、...

長子の祝福

わたしたちはつい、目に見える助けを探します。お金、食べ物、必要な物資。 けれども聖書は、まことの供給は霊の領域から始まると教えています。 イサクがヤコブを祝福したとき(長子エサウだと思い込んでいました)、こう宣言しました。 「どうか神が天の露と、地の肥えた所と、多くの穀物と、新しいぶどう酒とをあなたに賜わるように。」 創世記 27:28 (口語訳) エサウは狩人でした。穀物も、ぶどう酒も、すでに手...

あきらめず、信頼し続ける

主に向かってもっとも多く問われてきた祈りの一つは、きっとこれではないでしょうか。「主よ……いつまでですか」。 ダビデも、同じように問いました。 「主よ、いつまでわたしをお忘れになるのですか」詩篇 13:1 (口語訳) けれどもダビデは、そこにとどまりませんでした。 「しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼します。わたしの心はあなたの救を喜びます」詩篇 13:5 (口語訳) ここで「いつくしみ」と訳...

すべての病に、そのいやしは届きます

イザヤ書53章は「霊的な」いやしだけを語っているのではないか。そう思いめぐらす信仰者がいます。あるいは、限られた種類の病だけを指しているのではないか、と考える人もいます。 イザヤはこう記しました。 「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」イザヤ書 53:4 (口語訳) ここで用いられているヘブライ語に、目を留めてみたいのです。 (ホリー) חֳלִי — 「病、疾患」……...

探さなくてよい出口

自分で脱出路を引かなくてもよい——そう気づいたとき、肩の力がすっと抜けました。わたしに求められているのは、すでに「のがれる道」そのものであるお方に信頼することだけなのです。 パウロはこう書いています。 「試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」コリント人への第一の手紙 10:13 (口語訳) ギリシア語の原文で、この「のがれる道」には定冠詞がついています。(tēn...

シャローム——「平和」では足りない

多くの人は、シャロームを「平和」と訳します。それは「家庭」を「建物」と訳すようなものです。間違いではありません。けれども、まだ足りません。 シャロームは、ヘブライ語聖書のなかでもっとも豊かな言葉のひとつです。旧約聖書に二百五十回以上あらわれます。日々のあいさつとして交わされ、軍勢の上に宣言され、預言者たちによって約束され、神ご自身の名にまで刻まれました。御使たちがイエスの誕生を告げたとき、ただ気分...

うつと聖書——あなたは信仰の失格者ではありません

火曜日、エリヤは天から火を呼び下ろしました。その翌日には、木の下に座り込み、神に「もう死なせてください」と願ったのです。 これは信仰の弱さの物語ではありません。生身の体を持ち、限界を抱えた、ひとりの本物の預言者の物語です。聖書はその一部始終を書き残しました——エリヤに恥をかかせるためではなく、神の民が底を打ったとき、神が何をなさるかを見せるためです。 神は説教をなさいません。みことばを投げつけて叱...

聖餐という守り

アダムが堕ちたとき、この世界にあるものが入り込みました。罪に対する、神の宣告です。それは体にも、心にも、被造物そのものにも及ぶ、こわれた有り様でした。 パウロはこう書いています。 「わたしたちがさばかれるのは、この世と共に罪に定められないために、主によって懲らしめられているのである」コリント人への第一の手紙 11:32 (NKJV より私訳) この世はすでに、罪に定められた下にあります。一人ひとり...

もう力まなくていい――聖書が語る安息

神はすべてのわざを終え、造られたものをことごとく見渡し、それから思いがけないことをなさいました。休まれたのです。疲れたからではありません。すべてが完成したからです。 このひとつの出来事――第七日の安息――が、聖書に記されたあらゆる平安の約束、供給の約束、守りの約束の土台になりました。それなのに、多くの信仰者は今も、安息を「余裕のある人にだけ許された贅沢」のように扱っています。 聖書は安息を付け足し...

初子の祝福を納める倉

いにしえのソロモンの神殿には、本堂に寄り添うようにして、祭司たちの住まう部屋がありました。それはただの住居ではなく、倉でもありました。その一階に納められていたのは、三つのもの。穀物と、ぶどう酒と、油です。 これは単なる農作物ではありません。「初子の祝福」——神がご自分の民に、心から慕い求めてほしいと願っておられる相続財産を表しています。 イサクがヤコブを祝福したとき、その言葉は目に見えるものを超え...

のろいを残さなかった血

多くの信者が、心のどこかに不安を抱えたまま聖餐にあずかってきました。「わたしは、ほんとうに赦されているのだろうか」「わたしの人生には、まだのろいが残っているのではないか」「神は、まだ何かをわたしに対して数え上げておられるのではないか」 けれども主イエスは、この問いに一度きりで決着をつけてくださいました。 杯を取り上げて、主はこう言われました。 「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のため...

神の愛の言語

人にはそれぞれ、こう愛されたらうれしいという形があります。神もまた、同じです。主は、ご自分をどのように覚えていてほしいかを、はっきりと言い残してくださいました。 主イエスは「わたしを記念して記念碑を建てなさい」とは言われませんでした。言われたのは、こうです。 「わたしを記念するため、このように行いなさい」 ルカによる福音書 22:19 (口語訳) 聖餐のことです。パンと杯のことです。 聖餐にあずか...

聖餐は儀式ではなく、あずかること

聖餐は儀式でも象徴でもありません。聖書はそれを、思い起こすためのものだと語ります。 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。ルカによる福音書 22:19 (口語訳) ここで用いられているのは (アナムネーシス) ἀνάμνησις — 「記念、思い起こすこと」という言葉です。...

癒やしは、主を見つめるところから

主イエスは、こう言われませんでした。「あなたがたの失敗を記念するため、このように行いなさい」とは。あなたの状態を、とも。あなたの葛藤を、とも。 主が言われたのは、こうでした。 「わたしを記念するため、このように行いなさい」ルカによる福音書 22:19 (口語訳) いやしは、自分の弱さを見つめることからは流れ出しません。主の強さを見つめるところから、流れ出します。 裂かれ、破られ、血に染まったあの御...

ふさわしくないのは、あなたではありません

「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。」コリント人への第一の手紙 11:29 (口語訳) この一節のゆえに、多くの信仰者が「自分はふさわしくない」と感じて、主の食卓から遠ざかっています。けれどもパウロは、人がふさわしくないとは、ひとことも言っていません。ふさわしくないのは仕方のほうです。 ここは言葉のかたちが大切です。原語は (アナクシオー...

かすんだまなざしが、また開くとき

何も悪いことは起きていないのに、どうにも心がかすんで見える日があります。世界が暗いからではなく、内側のまなざしが疲れているからです。 聖書は、それが今に始まったことではないと語ります。堕落の前、アダムとエバの霊の目は閉じていました。彼らに見えていたのは、神のいつくしみだけでした。ところが善悪を知る木を選んだとき、その目は思わぬ方へ開かれます(創世記 3:7)。神の豊かさではなく、自分に欠けているも...