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孤独に、聖書はどう答えるか
人でいっぱいの部屋にいながら、ひとりだと感じることがあります。人の行き交うオフィス、席の埋まった礼拝堂、家族が囲む食卓。それでも、隣の席だけがぽっかり空いているように思えるのです。孤独は、まわりに何人いるかで決まるものではありません。いま自分が立っている場所と、自分が本当に知られていると感じられる場所との、その隔たりのことなのです。 聖書はこの主題を避けません。詩篇にも、預言者の書にも、主イエスの...
検索語: “供給”
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人でいっぱいの部屋にいながら、ひとりだと感じることがあります。人の行き交うオフィス、席の埋まった礼拝堂、家族が囲む食卓。それでも、隣の席だけがぽっかり空いているように思えるのです。孤独は、まわりに何人いるかで決まるものではありません。いま自分が立っている場所と、自分が本当に知られていると感じられる場所との、その隔たりのことなのです。 聖書はこの主題を避けません。詩篇にも、預言者の書にも、主イエスの...
ききんの働きはただ一つです。倉を空にし、物の値を吊り上げ、選べる道を狭めていきます。だれもが一様に貧しくなっていきます。 だからこそ、創世記の三つの場面が際立ちます。三人の人がききんに遭いました。そして三人とも、前より多くのものを携えて、そこを通り抜けているのです。 アブラハムは、入った時より豊かになってエジプトを出ました。 ききんがアブラハムをエジプトへ追いやりました。 「さて、その地にききんが...
聖書が何と言っているかを知ることと、聖書がだれに向かって語っているかを知ることとは、別のことです。 主イエスは、その働きの初めに、弟子たちを遣わすにあたって、はっきりとした指示をお与えになりました。 「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け」 マタイによる福音書 10:5-6 (口語訳) もし、この主ご自身のことばを、そのまま今日のわたし...
揺り動かされうるものは、すべて揺り動かされます。 制度も、経済も、人の手で作られた宗教も、震えています。わたしたちはそういう時代に生きています。聖書は、神が地と天とを揺り動かされる、と告げます。それは「振われないものが残るため」です。 では、最後まで残るものとは何でしょうか。恵みの御国です。 この揺れを、わたしたちはどう生き抜くのでしょうか。 「このゆえに、わたしたちは震われない国を受けているのだ...
ギリシア語には、愛を表す言葉が四つあります。日本語には、ひとつしかありません。このささやかな違いが、歴史上のどんな神学論争にも劣らないほど、神についての誤解を生んできました。 夫が妻に「愛している」と言い、その同じ口で「ピザが大好きだ」と言う。日本語はどちらも同じ棚に並べてしまいます。ギリシア語はそうしません。ギリシア語には、神の愛だけを指す言葉があるのです。あまりに独特なので、初代のクリスチャン...
ひとりの人が、自分の持ち物すべての十分の一を、ひとりの祭司に手渡しました。モーセの律法が与えられる四百年以上も前のことです。命令もなく、義務もなく、神殿もありません。あるのはただ、自分を救い出してくださった神への、感謝のこたえだけでした。 その人がアブラハム。そして祭司がメルキゼデクです。 十分の一をめぐる話は、たいてい義務から始まります。「ささげるべきですか」「ささげなければ神に罰せられますか」...
シナイ山で神が律法をお与えになるはるか前に、一人の不思議な王、そして祭司がアブラハムの前に現れました。その名をメルキゼデクといいます。アブラハムは苦しい戦いから帰る途上で、疲れ果てていました。そのアブラハムを、メルキゼデクは力づけるもの、そして祝福の言葉をもって迎えたのです。 「その時、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った、...
わたしたちはつい、目に見える助けを探します。お金、食べ物、必要な物資。 けれども聖書は、まことの供給は霊の領域から始まると教えています。 イサクがヤコブを祝福したとき(長子エサウだと思い込んでいました)、こう宣言しました。 「どうか神が天の露と、地の肥えた所と、多くの穀物と、新しいぶどう酒とをあなたに賜わるように。」 創世記 27:28 (口語訳) エサウは狩人でした。穀物も、ぶどう酒も、すでに手...
律法は、何をすべきかを告げます。恵みは、何がすでに成し遂げられたかを告げます。一方はあなたから取り立て、もう一方はあなたに供給します。そして聖書は、わたしたちが今どちらの下に生きているのかを、少しもあいまいにしていません。 ローマ人への手紙6章14節を耳にしたことのある方は多いでしょう。けれども、その一節が何を宣言しているのかに立ち止まった方は、そう多くありません。パウロは「律法と恵みのつり合いを...
天から火を呼び下した預言者がいました。四百五十人の偽預言者を相手に、国を挙げた対決に勝ちました。王の戦車を追い越して走りました。その翌日、彼は神に、わたしの命を取ってくださいと願いました。 それが燃え尽きです。才能の不足ではありません。信仰の不足でもありません。人格の破れでもありません。燃え尽きとは、注ぎ出す量が、注がれる量を超えたときに起こることです。そして聖書は、多くの人が思うよりもずっとやさ...
ピリピ人への手紙の中に、読む人の心をざわつかせる一節があります。「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい」。 この言葉だけを切り取って読むと、救いとは自分の力でやり遂げねばならない課題のように聞こえます。けれども、すぐ後に続く言葉へ目を移した途端、その重圧はすっと消えていきます。 「…あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだ...
なぜ、わたしたちは罪を犯すのでしょうか。自分でも嫌でたまらない習慣や振る舞いに、どうして囚われてしまうのでしょうか。 たいていは、意志が弱いからだと考えます。善くあろうとする努力が足りないのだ、と。けれどもペテロは、根っこにあるのはまったく別のものだと告げます。信頼の欠けです。 「また、それらのものによって、尊くまた大いなる約束が、わたしたちに与えられているのである。それは、あなたがたが、世にある...
多くの人は、シャロームを「平和」と訳します。それは「家庭」を「建物」と訳すようなものです。間違いではありません。けれども、まだ足りません。 シャロームは、ヘブライ語聖書のなかでもっとも豊かな言葉のひとつです。旧約聖書に二百五十回以上あらわれます。日々のあいさつとして交わされ、軍勢の上に宣言され、預言者たちによって約束され、神ご自身の名にまで刻まれました。御使たちがイエスの誕生を告げたとき、ただ気分...
多くの人は「恵み」を、受けるに値しない者への好意、と説明します。間違いではありません。けれども、まだ足りません。ローマを訪れて噴水をひとつ眺め、これが街のすべてだと言うようなものです。 新約聖書で「恵み」と訳されている言葉は (カリス) χάρις — 「恵み、好意、賜物」です。新約に百五十六回、百四十七の節に現れます。パウロが用い、ヨハネは福音書の序文をこの語を軸に組み立て、ルカはイエスの口から...
神が関心をお持ちなのは、わたしたちの霊的な手入れだけ——祈りの生活、礼拝への出席、道徳的な立ち位置だけ。そんな誤解があります。わたしたちはいつのまにか、「信心」と日々の暮らしとを別々の棚に置いてしまうのです。 けれども神は、あなたの人生を「霊的なこと」と「世俗のこと」に仕分けたりなさいません。神が目を向けておられるのは、あなたという人間まるごとです。 「…神の力は、ご自身の栄光と徳とによってわたし...
聖書は、供給ということを果樹のはたらきになぞらえて教えています。見上げるほどの大木も、もとをたどればたった一粒の種です。その小さな一粒の中に、その木のすべてが畳み込まれている。けれども、木として立つためには、種は地に蒔かれなければなりません。 「地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も……やむことはないであろう」 創世記 8:22 (口語訳) 神は、私たちから取り上げる方ではありません。増やして与...
神はすべてのわざを終え、造られたものをことごとく見渡し、それから思いがけないことをなさいました。休まれたのです。疲れたからではありません。すべてが完成したからです。 このひとつの出来事――第七日の安息――が、聖書に記されたあらゆる平安の約束、供給の約束、守りの約束の土台になりました。それなのに、多くの信仰者は今も、安息を「余裕のある人にだけ許された贅沢」のように扱っています。 聖書は安息を付け足し...
この世は「一番でなければ意味がない」「速いほうが勝ち」という仕組みで動いています。急がなければ機会を失う、と世はささやきます。誰もあなたを守ってはくれないから、自分の身は自分で守れ、と教えます。これがこの世の霊です。その土台にあるのは、骨の折れる労苦と、絶え間ない緊張です。 けれども、それとはまったく別の仕組みが与えられています。聖書は、わたしたちが神の霊を受けたのは、すでに与えられているものを悟...