聖書は、供給ということを果樹のはたらきになぞらえて教えています。見上げるほどの大木も、もとをたどればたった一粒の種です。その小さな一粒の中に、その木のすべてが畳み込まれている。けれども、木として立つためには、種は地に蒔かれなければなりません。

「地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も……やむことはないであろう」 創世記 8:22 (口語訳)

神は、私たちから取り上げる方ではありません。増やして与える方です。人が献げるとき、つまり「種」を蒔くとき、やがて刈り取るものは、手放したものよりはるかに大きい。これは気まぐれではなく、自然のうちに据えられた変わらない法則であり、そのまま霊的な供給の姿を映しています。

種が蒔かれなければ、味わうべき実りもありません。与えることを学ぶとき、人は自分の人生に、より多くのものが流れ込んでくる道筋を開くのです。この原則は、世界じゅうに満ちている果物の豊かさを見れば、誰の目にも明らかではないでしょうか。

供給は、待つことからではなく、蒔くことから始まります。