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カイロスの意味とは?時計では測れない神の時
多くの人は時計に従って生きています。時間、締め切り、カレンダー。そうやって人生を測っています。けれども聖書は、時について別の言葉を使います。壁にかかった時計とは、何の関係もない言葉です。 その言葉が (カイロス) καιρός — 「定められた、恵みにかなった時」です。この一語を知ると、新約聖書のおもだった約束の読み方が変わります。 カイロスは分を数えません。時を刻むのではなく、時を告げます。神が...
検索語: “原則”
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多くの人は時計に従って生きています。時間、締め切り、カレンダー。そうやって人生を測っています。けれども聖書は、時について別の言葉を使います。壁にかかった時計とは、何の関係もない言葉です。 その言葉が (カイロス) καιρός — 「定められた、恵みにかなった時」です。この一語を知ると、新約聖書のおもだった約束の読み方が変わります。 カイロスは分を数えません。時を刻むのではなく、時を告げます。神が...
朝6時40分、ひとりの女性が目を覚まし、足が床に触れるより先にスマートフォンへ手を伸ばします。朝食の頃には、四十件の投稿と、新しいウイルスについての見出しを二つ、そして見知らぬ誰かの政治をめぐる言い争いまで読み終えています。聖書はまだ開いていません。昼になる頃、心はずっしりと重くなっています。けれども、その理由は自分でもわかりません。 彼女の身に何かが起きたわけではありません。ただ、言葉を取り込ん...
テサロニケ人への第一の手紙 4 章で、パウロは同じことを二度言います。わずか三節のうちに、同じ言葉が繰り返されるのです。「生きながらえて残る」。聖書における繰り返しは、書き手の不注意ではありません。強調です。神が一つの箇所で二度言われるとき、それは立ち止まって、よく見なさいという合図です。パウロはこう書いています。 「わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたち...
律法主義の説教は、圧力と脅しを頼りにします。要求すれば従うようになる、という前提です。けれども人の性は、その反対を証ししています。外から押しつけられた規則は、服従よりもむしろ反発を呼び起こすのです。 心の本当の変化は、値なしに与えられる神の恵みが示されるときに起こります。 「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことを知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」 ローマ人への手紙 2...
主イエスは、地上のご生涯を手さぐりで歩まれたのではありません。人間的な戦略や、ご自分の野心に頼られたのでもありません。主が生きておられたのは、ひとつの単純で力ある原則でした。父がしておられるのを見て、そのとおりになさる。ベテスダの池のほとりに立たれたとき、そこには大勢の病人が横たわっていました。それなのに主は、その群れの間を通り過ぎ、ただひとりの動けない人に声をおかけになったのです。その人を癒され...
ひとりの人が、自分の持ち物すべての十分の一を、ひとりの祭司に手渡しました。モーセの律法が与えられる四百年以上も前のことです。命令もなく、義務もなく、神殿もありません。あるのはただ、自分を救い出してくださった神への、感謝のこたえだけでした。 その人がアブラハム。そして祭司がメルキゼデクです。 十分の一をめぐる話は、たいてい義務から始まります。「ささげるべきですか」「ささげなければ神に罰せられますか」...
天から火を呼び下した預言者がいました。四百五十人の偽預言者を相手に、国を挙げた対決に勝ちました。王の戦車を追い越して走りました。その翌日、彼は神に、わたしの命を取ってくださいと願いました。 それが燃え尽きです。才能の不足ではありません。信仰の不足でもありません。人格の破れでもありません。燃え尽きとは、注ぎ出す量が、注がれる量を超えたときに起こることです。そして聖書は、多くの人が思うよりもずっとやさ...
聖書は、供給ということを果樹のはたらきになぞらえて教えています。見上げるほどの大木も、もとをたどればたった一粒の種です。その小さな一粒の中に、その木のすべてが畳み込まれている。けれども、木として立つためには、種は地に蒔かれなければなりません。 「地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も……やむことはないであろう」 創世記 8:22 (口語訳) 神は、私たちから取り上げる方ではありません。増やして与...
神はすべてのわざを終え、造られたものをことごとく見渡し、それから思いがけないことをなさいました。休まれたのです。疲れたからではありません。すべてが完成したからです。 このひとつの出来事――第七日の安息――が、聖書に記されたあらゆる平安の約束、供給の約束、守りの約束の土台になりました。それなのに、多くの信仰者は今も、安息を「余裕のある人にだけ許された贅沢」のように扱っています。 聖書は安息を付け足し...
私たちは旧約聖書を読むとき、これは昔の農耕の知恵だと、つい脇に置いてしまいます。 たとえば申命記 25:4。「脱穀をする牛に、くつこを掛けてはならない」申命記 25:4 (口語訳)。「くつこ」とは、家畜が餌を食べないように口に掛ける籠のことです。 いかにも、家畜をいたわりなさいという規則に聞こえます。事実、そのとおりです。けれども使徒パウロは、神がここで教会の報酬についての原則を立てておられるのだ...
ヨセフの兄弟たちの物語には、一つの霊的な原則が閉じ込められています。 ききんの時、兄弟たちがエジプトに下って来たとき、ヨセフは彼らを回し者だと責めました。意地悪をしたのではありません。彼は心の変化を探していたのです。彼らがなお父の愛を軽んじているのかどうか、それを知る必要がありました。 彼らを試すために、ヨセフはひとりの兄弟を縛り、獄に入れました。その兄弟の名は (シムオン) שִׁמְעוֹן...
自分のための繁栄と、務めのための繁栄。この二つの間には、はっきりとした違いがあります。 繁栄という言葉は、しばしば欲深さや放縦と結びつけられ、評判がよくありません。けれども聖書において富とは、神との契約に基づく務めを果たすための道具なのです。 エジプトのヨセフを思い起こしてみましょう。パロは夢を見ました。七頭の肥えた雌牛と、七頭のやせた雌牛の夢です。神はヨセフにその解き明かしを与えられました。七年...
聖書は、神の言葉をマナにたとえます。新しく、日ごとに、その人にふさわしく。 イスラエルが昨日のマナをとっておこうとしたとき、それは腐っていました。 主イエスも、祈りを教えられたとき、同じ原則を繰り返されました。 「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」 マタイによる福音書 6:11 (口語訳) 週ごとではありません。ときどきでもありません。日ごとに、です。 啓示も、同じ仕組みで働きま...
「クリスチャンとだけ付き合いなさい」——よく耳にする言葉です。 そのとおり、信仰を分かち合えることは大切です。 けれども、この話はしばしば単純にされすぎています。 少し視野を広げてみましょう。ラハブを見てみましょう。 イスラエルの男性に出会うより前に…… 契約の民に嫁ぐより前に…… その名がヘブル人への手紙十一章に記されるより前に…… ラハブの心は、すでにイスラエルの神へと向いていました。 彼女は...
誰かに批判されたとき、嘲られたとき、傷つけるために投げられた言葉を受けたとき、心に走る思いは単純です。 言い返す。 自分を守る。 相手と同じ調子、同じ声の大きさ、同じ高さで応じる。 けれども、そう反応した瞬間に、私たちはすでに降りてしまっています。 相手が用意した地上の土俵で、その勝負に付き合っているのです。 聖書は、もっと良い道を示します。私はそれを わしの原則 と呼んでいます。 信じる者は、す...
内省がなぜこれほど重いのか、理由があります。自分の内側をのぞき込み続けていると、やがて、欠けているものばかりが目に入ってくるからです。 コリー・テン・ブームは、こう言いました。「自分を見つめれば、沈む。キリストを見つめれば、安らぐ」 同じ原則が、聖書にも記されています。 「あなたは全き平安をもってこころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたを信頼しているからである。」イザヤ書 26:3 (口語訳)...