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検索語: 計画

20件の記事が見つかりました

神は無きに等しい者を用いられます

わたしたちはしばしば、神のみもとへ行く前に、自分を強くしようとします。もっと蓄えを増やし、もっと知恵を磨き、もっと健康を整えなければ、神のお役には立てない——そう思い込むのです。けれども神は、まったく別の原理でお働きになります。世が「無きに等しい」と見なすものを用いて、世が「たいしたもの」と誇るものを、砕いてしまわれるのです。 パウロは、この神のご計画をコリントの人々への手紙の中で説き明かしていま...

あなたは小さな人生のために造られていません

多くの人は、日々を仕事と用事と、たまの休みの繰り返しのように過ごしています。けれども神は、あなたのために、それとは別の計画を用意しておられます。 あなたは、生まれるより前から定まり、一生の長さでは収まりきらない使命を負っています。 パウロは、神の夢をこう描いています。 「それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。」エペソ人...

孤独に、聖書はどう答えるか

人でいっぱいの部屋にいながら、ひとりだと感じることがあります。人の行き交うオフィス、席の埋まった礼拝堂、家族が囲む食卓。それでも、隣の席だけがぽっかり空いているように思えるのです。孤独は、まわりに何人いるかで決まるものではありません。いま自分が立っている場所と、自分が本当に知られていると感じられる場所との、その隔たりのことなのです。 聖書はこの主題を避けません。詩篇にも、預言者の書にも、主イエスの...

この約束は携挙の話ではありません

約束を読み違えた時制で受け取ると、しまい込む引き出しまで間違えてしまいます。 多くの信者が、ローマ人への手紙 8:11 でそれをしています。読んで、一瞬希望がわいて、それからその約束をまるごと未来へ押しやってしまう。「それは携挙のときの話でしょう」と。こうして、この御言葉は「いつの日か」と書かれた引き出しに眠り、火曜日の現実には指一本触れないままになります。 けれども、この節をよく見てください。...

造るには御言葉、あがなうには血

創造が神にとってどれほどの代価であったかを、少し考えてみてください。 神は、ひと言で光を造られました。 「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」創世記 1:3 (口語訳) 星も、海も、山々も、銀河も——すべて同じでした。神が語られると、そのとおりに立ちました。 「主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである。」詩篇 33:9 (口語訳) 骨折りもなく、代価もなく、犠...

贖いは、あなたのすべてに届く

多くの信じる者は、イエスが自分の霊を贖ってくださったことを知っています。そのことを、私たちは喜び祝います。また、主がからだを癒やしてくださることも信じています。 けれども、その二つの間にある部分を、私たちはつい忘れてしまいます。心、すなわち思いです。 パウロは、一つの祈りの中にその三つをすべて並べています。 「あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに...

父がなさるのを見て

主イエスは、地上のご生涯を手さぐりで歩まれたのではありません。人間的な戦略や、ご自分の野心に頼られたのでもありません。主が生きておられたのは、ひとつの単純で力ある原則でした。父がしておられるのを見て、そのとおりになさる。ベテスダの池のほとりに立たれたとき、そこには大勢の病人が横たわっていました。それなのに主は、その群れの間を通り過ぎ、ただひとりの動けない人に声をおかけになったのです。その人を癒され...

ふたりの子、ふたつの生き方

人生の歩み方には、二つの道があります。そしてその二つは、はるか昔に生まれたふたりの子によって示されています。 使徒パウロは、アブラハムの家族の物語は単なる歴史ではないと語ります。それは象徴であり、比喩です。(allēgoreō) ἀλληγορέω — 「比喩で語る」という言葉が、そこで用いられています。 すなわち、アブラハムにふたりの子があり、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた、と書...

十分の一は、律法より先にありました

ひとりの人が、自分の持ち物すべての十分の一を、ひとりの祭司に手渡しました。モーセの律法が与えられる四百年以上も前のことです。命令もなく、義務もなく、神殿もありません。あるのはただ、自分を救い出してくださった神への、感謝のこたえだけでした。 その人がアブラハム。そして祭司がメルキゼデクです。 十分の一をめぐる話は、たいてい義務から始まります。「ささげるべきですか」「ささげなければ神に罰せられますか」...

落ち込む心に、御言葉を

望みがないという状態は、心だけでなく体にも及びます。望みを失うと、朝、目覚めた時点ですでに疲れています。何をするにも気力が湧かず、重たいものが胸の底に残ります。仕事を見ても、夫婦の間を見ても、家族を見ても、目に映るのは暗い色ばかりです。 こうした心の状態は、多くの場合、自分が何を取り入れてきたかの結果です。暗い報道や、この世の悲観的な見通しばかりで心を満たせば、心は沈みます。処方箋は、神の言に日ご...

ユダヤの婚礼とキリストの花嫁

創世記二十四章で、アブラハムは名の記されていないしもべを遣わし、息子イサクのために花嫁を探させます。この史実は、今日の聖霊のみわざを映し出す一枚の絵です。二千年のあいだ、聖霊は御子イエス・キリストのために、一人の花嫁――すなわち教会――を整えつづけてこられました。 この関係を知るには、古代ユダヤの婚礼のならわしに目を向ける必要があります。神が人の慣習をまねられたのではありません。ご自身のご計画を目...

台無しに見えて、そうではない

ちょうどよい時に、ちょうどよい場所にいる——それは、そよ風のように心地よいものだと、わたしたちはつい思い込みます。足もとに赤いじゅうたんがすべらかに敷かれ、扉はひとりでに開き、何もかもがぴたりと収まっていく。そんな光景を思い描くのです。 けれども、神の定めた出会いは、まるで災難のような顔をしてやって来ることがあります。 (カイロス) καιρός — 「定められた時、ふさわしい季節、好機」 「ちょ...

律法の下ではなく、恵みの下に

律法は、何をすべきかを告げます。恵みは、何がすでに成し遂げられたかを告げます。一方はあなたから取り立て、もう一方はあなたに供給します。そして聖書は、わたしたちが今どちらの下に生きているのかを、少しもあいまいにしていません。 ローマ人への手紙6章14節を耳にしたことのある方は多いでしょう。けれども、その一節が何を宣言しているのかに立ち止まった方は、そう多くありません。パウロは「律法と恵みのつり合いを...

敵は全知ではありません

わたしたちは、悪魔をあまりに買いかぶりがちです。こちらの思いも、これからの歩みも、神が自分のために備えておられる具体的な計画も、すべて見透かされていると思い込んでしまいます。 そんなことはありません。 敵は神の対極に立つ存在ではありません。神は全知のお方です。けれども敵は、ただ観察しているにすぎません。あなたのことを知るために、あなたを見ているほかないのです。 この構図は、エデンの園で始まりました...

燃え尽きたあなたへ、休んでよいのです

天から火を呼び下した預言者がいました。四百五十人の偽預言者を相手に、国を挙げた対決に勝ちました。王の戦車を追い越して走りました。その翌日、彼は神に、わたしの命を取ってくださいと願いました。 それが燃え尽きです。才能の不足ではありません。信仰の不足でもありません。人格の破れでもありません。燃え尽きとは、注ぎ出す量が、注がれる量を超えたときに起こることです。そして聖書は、多くの人が思うよりもずっとやさ...

努力では開かない扉

学ぶことも、人とのつながりも、悪いものではありません。けれども、そのどちらも、神だけが開くことのできる扉を保証してはくれません。 ヨセフには、誇れる経歴がありませんでした。肩書もありません。後ろ盾となる人脈もありません。 それでも、聖書はこう記します。 「主が彼の手のすることをみな栄えさせられる」創世記 39:3 (NKJV より私訳) 栄えたのは、うまい手立てがあったからではありません。主がとも...

系図に隠された福音

多くの人は、聖書の系図を読み飛ばします。見慣れない古い名前が延々と並ぶのを見て、情報の「ブラックホール」のように感じるのです。冗長で、味気ないもの、と。けれども御国には、無駄な言葉というものが一つもありません。 創世記五章を開くと、アダムからノアまでの名前が並んでいます。表面だけを見れば、生まれた、生んだ、死んだ、という記録にすぎません。ところが、そのヘブライ語の名前の意味をたどっていくと、そこに...

シャローム——「平和」では足りない

多くの人は、シャロームを「平和」と訳します。それは「家庭」を「建物」と訳すようなものです。間違いではありません。けれども、まだ足りません。 シャロームは、ヘブライ語聖書のなかでもっとも豊かな言葉のひとつです。旧約聖書に二百五十回以上あらわれます。日々のあいさつとして交わされ、軍勢の上に宣言され、預言者たちによって約束され、神ご自身の名にまで刻まれました。御使たちがイエスの誕生を告げたとき、ただ気分...

うつと聖書——あなたは信仰の失格者ではありません

火曜日、エリヤは天から火を呼び下ろしました。その翌日には、木の下に座り込み、神に「もう死なせてください」と願ったのです。 これは信仰の弱さの物語ではありません。生身の体を持ち、限界を抱えた、ひとりの本物の預言者の物語です。聖書はその一部始終を書き残しました——エリヤに恥をかかせるためではなく、神の民が底を打ったとき、神が何をなさるかを見せるためです。 神は説教をなさいません。みことばを投げつけて叱...

あなたの思いも救いの外ではありません

多くの人は、霊の救いと体のいやしについては熱心に語ります。けれども思いについては、衰えていくのが当たり前だと受け入れてしまいます。まるで、そこだけは神が手をつけずに残されたかのように。 けれども聖書は、まさにその領域について、はっきりと語っています。 「しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。」コリント人への第一の手紙 2:16 (口語訳) ここで「思い」と訳されている語は (ヌース) ν...