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影はあなたを傷つけない
影には実体がありません。犬の影に噛まれることはなく、剣の影に切られることもありません。見た目はいかにも恐ろしくても、傷つける力は持っていないのです。 多くの信者が、暗い谷のような試練の中を歩きます。体の病、家庭の問題、仕事の重圧。そんなとき、敵はあなたに「もう逃げ場はない」と思わせたがります。けれども詩篇の作者ダビデは、私たちの見方を変える一つの約束を書き残しました。 「たといわたしは死の陰の谷を...
検索語: “導き”
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影には実体がありません。犬の影に噛まれることはなく、剣の影に切られることもありません。見た目はいかにも恐ろしくても、傷つける力は持っていないのです。 多くの信者が、暗い谷のような試練の中を歩きます。体の病、家庭の問題、仕事の重圧。そんなとき、敵はあなたに「もう逃げ場はない」と思わせたがります。けれども詩篇の作者ダビデは、私たちの見方を変える一つの約束を書き残しました。 「たといわたしは死の陰の谷を...
今、信じる者と世との間でいちばん際立って見える違いのひとつは、老いをめぐる見方です。からだは弱り、記憶はかすみ、それはもうどうにもならない——世はそう言います。 けれども、この思い込みをくっきりと照らし出す三人の姿を、ご一緒に見ていきたいのです。 まずヨシュア。イスラエルを約束の地へ導き入れた指導者です。その生涯の終わりに近いころ、神はこう言われました。 「あなたは年が進んで老人となったが、取るべ...
人でいっぱいの部屋にいながら、ひとりだと感じることがあります。人の行き交うオフィス、席の埋まった礼拝堂、家族が囲む食卓。それでも、隣の席だけがぽっかり空いているように思えるのです。孤独は、まわりに何人いるかで決まるものではありません。いま自分が立っている場所と、自分が本当に知られていると感じられる場所との、その隔たりのことなのです。 聖書はこの主題を避けません。詩篇にも、預言者の書にも、主イエスの...
世界はかつてないほど速く動いているのに、私たちの息はかえって詰まっていくようです。危機が来ると、私たちの本能はアクセルを踏むことです。もっと働き、もっとかき集め、とにかく動いて問題をねじ伏せようとします。けれども主イエスが示された順序は、それとは違いました。まずすわる。それから受け取る。 ヨハネによる福音書 6 章で、主は大勢の群衆を前にされます。手もとに食べ物はありません。けれども主は慌てもせず...
主イエスは、地上のご生涯を手さぐりで歩まれたのではありません。人間的な戦略や、ご自分の野心に頼られたのでもありません。主が生きておられたのは、ひとつの単純で力ある原則でした。父がしておられるのを見て、そのとおりになさる。ベテスダの池のほとりに立たれたとき、そこには大勢の病人が横たわっていました。それなのに主は、その群れの間を通り過ぎ、ただひとりの動けない人に声をおかけになったのです。その人を癒され...
新しい車を買ったなら、指定された燃料を入れなければなりません。タンクにオレンジジュースを注げば、エンジンは動かなくなります。「オレンジジュースは体にいいのだ」といくら力説しても、結果は変わりません。機械は、造った人の設計どおりにしか動かないからです。 人間も同じです。自分で勝手に人生の規則をこしらえておきながら、心と体が健やかに働くことを期待するわけにはいきません。 「心をつくして主に信頼せよ、自...
新しい季節は、しばしば嵐とともに始まります。世界を見渡せば、騒がしさばかりが目につきます。自分の状況に目をやれば、風の冷たさが肌に触れます。舟は荒れた海のただ中にあるように思え、不安が心を占めようとします。 けれども、嵐はあなたの行き先ではありません。 神がイスラエルをエジプトから救い出されたのは、彼らを荒野に置き去りにするためではありませんでした。ある特定の場所へ導き入れるために、救い出されたの...
十字架の前、その仮の宿は満ちていました。 旧約の信仰者たち——アブラハム、ダビデ、サラ。彼らは天に入ることができませんでした。イエスの血が、まだ流されていなかったからです。彼らは慰めの場で待っていました。聖書はその場所を (パルデース) פרדס — 「楽園、パラダイス」と呼びます。そこは安らかに守られた領域であり、陰府との間には、越えることのできない大きな淵が定められていました。 イエスが息を引...
信仰は失敗を見ないふりをするのではありません。ただ、そこに目を据えつづけることをしないのです。 ペテロは、自分がしたことをよく知っていました。あの炭火を忘れてはいません。あの否認を忘れてはいません。あの鶏の声を忘れてはいません。 けれども、イエスが現れたとき、ペテロはあの場面を心の中で繰り返しませんでした。救い主だと、分かったのです。 「あれは主だ」 ヨハネによる福音書 21:7 (口語訳) 信仰...
長い語りかけの終わりに、イエスはひとつの、単純でありながら深いことをなさいます。ご自分の民を、安息をもって祝福されるのです。 何もしないでいることの安息ではありません。現実から目をそらすことの安息でもありません。信頼から生まれる安息です。 「信じたわたしたちは、その安息にはいるのです。」ヘブル人への手紙 4:3 (NKJV より私訳) 安息とは、心が恐れをくり返し思い描くのをやめる場所です。安息と...
多くの人は「恵み」を、受けるに値しない者への好意、と説明します。間違いではありません。けれども、まだ足りません。ローマを訪れて噴水をひとつ眺め、これが街のすべてだと言うようなものです。 新約聖書で「恵み」と訳されている言葉は (カリス) χάρις — 「恵み、好意、賜物」です。新約に百五十六回、百四十七の節に現れます。パウロが用い、ヨハネは福音書の序文をこの語を軸に組み立て、ルカはイエスの口から...
恵みを語りすぎると、信じる者は気がゆるんでしまう——そう思っていませんか。聖書は、その問いに答えています。 パウロはこう書いています。 「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。」ローマ人への手紙 6:14 (口語訳) 律法が生むのは、恐れです。恵みが生むのは、変化です。 律法は言います。「行え、さもなければ罰を受ける」と。恵みは言い...
問題から逃げ出すとき、私たちはたいてい、行くべきでない場所にたどり着きます。 エリヤはイゼベルを逃れて、ホレブ(シナイ)の山まで走りました。そこは律法の山です。神がそこへ行けと命じられたわけではありません。彼をそこまで運んだのは、御霊の導きではなく、恐れの勢いでした。 彼は洞穴に身をひそめていました。委ねられた務めからは、はるかに遠い場所です。 それでも、神はそこにおられました。 「主の言葉が彼に...