世界はかつてないほど速く動いているのに、私たちの息はかえって詰まっていくようです。危機が来ると、私たちの本能はアクセルを踏むことです。もっと働き、もっとかき集め、とにかく動いて問題をねじ伏せようとします。けれども主イエスが示された順序は、それとは違いました。まずすわる。それから受け取る。

ヨハネによる福音書 6 章で、主は大勢の群衆を前にされます。手もとに食べ物はありません。けれども主は慌てもせず、人々を食糧探しに走らせもしませんでした。主が最初に言われたのは、こうです。

「イエスは言われた、『人々をすわらせなさい』。その場所には草が多かった」
ヨハネによる福音書 6:10 (口語訳)

「すわる」と訳されているギリシア語は (anaklinō) ἀνακλίνω — 「身を横たえる、席に着く」です。

それは休みの姿勢です。備えが現れる前に、人々はまず自分の場所に身を落ち着けました。私たちは、忙しくしていなければ祝福されないと思い込みがちです。けれども羊飼いは、まず私たちを横たわらせてくださいます。「主はわたしを緑の牧場に伏させ」詩篇 23:2 (口語訳) とあるとおりです。豊かさの真ん中で身を横たえるとき、あなたは自分の心にこう告げていることになります——供えは、乏しさよりも大きい、と。

草は「多かった」とあります。それで足りたのです。緑の牧場に伏している羊は、文字どおり、自分の糧の上にすわっているのです。

同じ型は、詩篇にも見えます。

「いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は」
詩篇 91:1 (口語訳)

「住む」と訳されている言葉は (yashav) יָשַׁב — 「すわる、とどまる」です。

備えは、位置のあとに続きます。火のついたようにあたふたと駆けまわっているなら、静けさの中でこそ与えられる導きを取り逃がしてしまいます。腰を下ろして供えを受け取るとき、手はようやく何をすべきかを知り、足はようやくどこへ行くべきかを知るのです。

安息は、よく働いた者への褒美ではありません。よく生きる歩みの、出発点です。

すわることが、備えに先立ちます。