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検索語: “まなざし”

20件の記事が見つかりました

上げるのは、頭です

ある人が、寝床から出るより先にスマートフォンを開きます。戦争の記事、地震の速報、新しいウイルス、そして「この指導者は反キリストの特徴にすべて当てはまる」と語る動画を、指先で次々に流していきます。朝食のころには、もう恐れに捕らわれている。それを本人は「識別」と呼んでいます。 しるしは本物です。主イエスご自身が、それは来ると言われました。 「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、...

主よ、わたしの目を開いてください

エリシャの召使いは、危険を見ました。エリシャは、現実を見ました。 軍勢が町を取り囲んでいました。馬があり、戦車があり、兵士がいる。召使いは、うろたえました。 人の目から見れば、彼は正しかったのです。神の目から見れば、彼は半分しか見ていなかったのです。 エリシャは、短い祈りをささげました。 「主よ、どうぞ彼の目を開いて見させてください」 列王紀下 6:17 (口語訳) すると、ほんとうの世界が立ちあ...

仰ぎ見て、生きる

自分の問題を見つめること。それは、この世でいちばんたやすいことです。 荒野で、イスラエルの人々は毒蛇にかまれました。痛みがありました。傷口は腫れていきました。うつむいて、かまれた跡をのぞき込み、うろたえる——ごく自然な成り行きです。 けれども、自分の傷を見つめた者は、死にました。 神が備えられた治療法は、不思議なものでした。青銅で蛇を造り、竿の上に掲げよ、とモーセに告げられたのです。青銅は、さばき...

聖書は「考えすぎ」に何と言うか

頭が止まってくれません。夜、床に入ると、思いの群れが口々に叫び出します。交わした会話を何度も巻き戻し、まだ起きてもいない災いを予行演習し、存在してもいない問題を解こうとする。そして止めようとすればするほど、頭の中の音量は上がっていきます。 聖書には、この状態を指す言葉があります。いいえ、二つあります。 ギリシャ語の (メリムナオー) μεριμνάω — 「いくつにも分けられる」。十の方向へ引き裂...

攻撃されるのは、道を外れていない証拠

霊的な攻撃を受けると、自分が何か間違ったことをしたせいだと考える人がいます。けれども多くの場合、事実はその逆です。 主イエスはこう言われました。 「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。」ヨハネによる福音書 10:10 (口語訳) 盗人は、空っぽの家には押し入りません。宝の置かれている場所をこそ狙うのです。 敵は、あなたのまなざしに宿る安らぎを憎みます。あなたの語り...

孤独に、聖書はどう答えるか

人でいっぱいの部屋にいながら、ひとりだと感じることがあります。人の行き交うオフィス、席の埋まった礼拝堂、家族が囲む食卓。それでも、隣の席だけがぽっかり空いているように思えるのです。孤独は、まわりに何人いるかで決まるものではありません。いま自分が立っている場所と、自分が本当に知られていると感じられる場所との、その隔たりのことなのです。 聖書はこの主題を避けません。詩篇にも、預言者の書にも、主イエスの...

するか、知るか

主イエスを愛することと、主イエスを分かっていることとは、別のことです。 マグダラのマリヤは、深く主を愛していました。多くをゆるされた人でした。けれども復活の朝、彼女は香料を携えて墓へ来ました。亡骸に油を塗るための備えをして来たのです。心は献身で満ちていましたが、頭の中は死で占められていました。王を捜すべき朝に、彼女は遺体を捜していたのです。 ここでベタニヤのマリヤを思い起こしてみましょう。 主の足...

顕微鏡の朝、望遠鏡の朝

聖書には、誠実な読み方が二つあります。ところが多くの人は、そのうちの片方しか持ち合わせていません。 ひとつは、近くを見る読み方です。一つの節を選び、そこにとどまります。朝に読み、昼にもう一度それを転がしてみる。何年も素通りしていた一語に、ふと目が留まる。 「このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。」 詩篇 1:2 (口語訳) これが顕微鏡の読み方です。距離を稼ぐのではありませ...

乏しさではなく、神の気前よさを見る

主イエスが弟子たちをただされたとき、こうは言われませんでした。「どうしてもっと長く祈らなかったのか」とも「どうしてもっと努力しなかったのか」とも。 主が言われたのは、こうでした。 「ああ、信仰の薄い者たちよ。」マタイによる福音書 6:30 (口語訳) これは叱りつける言葉ではなく、むしろ愛のため息に近いのです。「わたしにはこんなに用意があるのに、あなたがたはこれほど少ししか受け取ろうとしないのか」...

詩篇90篇ではなく、91篇に生きる

多くのクリスチャンが、神はご自分の民の寿命を七十年、あるいは八十年に区切っておられる、と思い込んでいます。その根拠とされるのが、詩篇90篇の一節です。 「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悲しみとであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。」 詩篇 90:10 (口語訳) この詩篇を書いたのはモーセです。そして...

ありふれない、という生き方

きよさには、イメージの問題があります。 私たちはいつのまにか、きよさを「自分は他人より正しい」という態度と結びつけてしまいました。冷ややかで、人と距離を置き、裁くまなざし。高い台の上に立って、世を見下ろしている姿を思い浮かべるのです。 けれども、それはきよさではありません。高ぶりです。 ヘブライ語で「聖なる」は (カドーシュ) קָדוֹשׁ — 「選び分けられた、他と分けられた、聖なる」。ギリシ...

「いいえ」の隠れた報い

誘惑に「いいえ」と言うことが、霊的な識別力を育てます。 誘惑は、ただの試験ではありません。それは訓練です。 あなたが口にする一つひとつの「いいえ」が、内側に場所を刻みます。澄んだまなざしのための場所、力のための場所、知恵のための場所を。 ヨセフが夢を解く力を得たのは、宮殿ではありません。牢獄でした。 聖書は、その理由をこう示します。 「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである」 ヤコブの手紙 1:12...

信仰は罪を忘れず、救い主を見つめます

信仰は失敗を見ないふりをするのではありません。ただ、そこに目を据えつづけることをしないのです。 ペテロは、自分がしたことをよく知っていました。あの炭火を忘れてはいません。あの否認を忘れてはいません。あの鶏の声を忘れてはいません。 けれども、イエスが現れたとき、ペテロはあの場面を心の中で繰り返しませんでした。救い主だと、分かったのです。 「あれは主だ」 ヨハネによる福音書 21:7 (口語訳) 信仰...

神は一つの教会を見ておられます

神がご自身の民をご覧になるとき、そこに教派の線はありません。目に映るのは、一つの家族です。 エリヤは、それを知っていました。カルメル山の上で、イスラエルは裂かれていました。部族に分かれ、争い、散らされていたのです。 それでもエリヤは、十二の石を集めました。——部族の数と同じ、十二。そして、崩れた祭壇を築き直したのです。 なぜ十二だったのでしょう。地上が破片を数えていたそのとき、天は一つの民を見てい...

見つめる者が、変えられる

わたしたちの多くは、力ずくで自分を変えようとします。けれども主イエスは、まなざしによって、わたしたちを変えてくださいます。 パウロはこう言います。 「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」 コリント人への第二の手紙 3:18 (口語訳) 変化は、努力から生まれるのではありません。触れつづ...

拍手の向こう側で

古代アテネの両替商は、削られた貨幣と向き合わなければなりませんでした。柔らかい金属の縁をそっと削り取り、少しずつ価値をかすめ取る者がいたのです。そうした貨幣を受け取らなかった両替商は、(ドキモス) δόκιμος — 「試されて認められた」と呼ばれました。誠実さを試され、その試しに合格した人、という意味です。 「あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない働き人になって、神に自分をささげるよ...

群衆に目を奪われない

群衆に気を取られていると、救い主を見落としてしまいます。 エリコの通りは騒然としていました。人の声、足音、物売りのざわめきが入り混じり、だれもが押し合いへし合いしながら、あの名高い教師をひと目見ようとしていたのです。 けれども、有名人を眺めることと、命綱を仰ぐことは、まるで別のことです。 ザアカイは背が低く、人々の肩越しに見ることができませんでした。しかし、その切実さが、彼に別の種類のまなざしを与...

失敗は失格ではありません

失敗は、人があなたを見る目を変えます。けれども、主イエスがあなたを見るまなざしは変わりません。 復活のあと、ペテロは思いがけないことをしました。漁に戻ったのです。 忠誠を誓った人でした。決して主を知らないとは言わない、と約束した人でした。そして、人々の目の前で失敗した人でした。 それなのに聖書は、ヨハネによる福音書21章を叱責からではなく、朝の食事から始めます。 「イエスが岸に立っておられた」 ヨ...

闇を見れば恐れ、キリストを仰げば命

教えによっては、信じる者を闇に敏感な人にしてしまいます。敵のことで頭がいっぱいになり、終わりの日を思って落ち着かず、悪魔が何をしているかばかり気にかけるのです。 荒野でイスラエルがへびにかまれたとき、神は「かまれた傷をよく調べなさい」とは言われませんでした。高く掲げられた青銅のへびを仰ぎ見なさい、と言われたのです。 「すべてへびにかまれた者は、その青銅のへびを仰いで見て生きた。」 民数記 21:9...

どこまで迷っても、主は見つけられます

問題から逃げ出すとき、私たちはたいてい、行くべきでない場所にたどり着きます。 エリヤはイゼベルを逃れて、ホレブ(シナイ)の山まで走りました。そこは律法の山です。神がそこへ行けと命じられたわけではありません。彼をそこまで運んだのは、御霊の導きではなく、恐れの勢いでした。 彼は洞穴に身をひそめていました。委ねられた務めからは、はるかに遠い場所です。 それでも、神はそこにおられました。 「主の言葉が彼に...