主イエスを愛することと、主イエスを分かっていることとは、別のことです。

マグダラのマリヤは、深く主を愛していました。多くをゆるされた人でした。けれども復活の朝、彼女は香料を携えて墓へ来ました。亡骸に油を塗るための備えをして来たのです。心は献身で満ちていましたが、頭の中は死で占められていました。王を捜すべき朝に、彼女は遺体を捜していたのです。

ここでベタニヤのマリヤを思い起こしてみましょう。

主の足もとに座って、御言葉に聞き入っていた、あのマリヤです。その朝、彼女は墓にいた人々の中に数えられていません。なぜでしょうか。

主がそこにはおられないと、知っていたからです。

彼女は聞いていました。霊の目で物事を見分ける力が、彼女のうちに育っていたのです。ほかの人々が「する」ことに追われていたとき、彼女は「受ける」ことに心を注いでいました。死が主をつなぎとめられるはずがない——彼女はそう分かっていました。時間をかけて、主の心を聞いていたからです。

「しかし、無くてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」 ルカによる福音書 10:42 (口語訳)

忙しさは、しばしば見分ける力の欠けを覆い隠します。私たちは神のために何かを「してさしあげよう」と走り回り、すでに死んでしまった状況に香料を運びます。その間ずっと、主は待っておられるのです。私たちが腰を下ろして耳を傾けるのを。そうすれば、いのちがどこにあるかを示してくださるのに。

活動を差し出すだけで終わらないでください。まなざしを差し出してください。

御足のもとに座る者は、墓へ走る者よりも、多くを知っています。