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17件の記事が見つかりました

頭で読むか、心で読むか

聖書を開き、山のような知識を積み上げながら、その著者にはついに出会わない——そういうことが起こり得ます。神学校を優秀な成績で卒業し、頭は満ち足りているのに、心は空っぽのまま、ということも。 聖書は「知識は人を誇らせ」ると告げます(コリント人への第一の手紙 8:1 口語訳より)。誇らせるのが知識なら、人を建て上げるのは啓示です。その違いは頭の良し悪しにあるのではありません。心の姿勢にあるのです。 「...

救は、いつも「今」

神は「おできになる」と信じることに、私たちはあまり苦労しません。難しいのは、「してくださる」と信じること、しかもそれを今信じることです。 けれども主イエスは、救を遠い未来に置かれたことがありません。いつも、その人の「今」の中に踏み込んでこられました。 足もとで震える女に向かって、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」マルコによる福音書 5:34 (口語訳) 木の上のザアカイに向かって、「きょ...

不安では人は育ちません

教会の会衆席のあいだを、そっと流れている一つの恐れがあります。 それは、神との関係にあまり安心しきってしまうと、人は怠けてしまうのではないか、という恐れです。「救いの確信」を語りすぎれば、信じる者は努力をやめてしまうのではないか。少しくらいの不安は、聖さへの良い動機づけになるのではないか。そう考えるのです。 けれども、これほど真実から離れた考えもありません。 不安は聖さを生みません。不安が生むのは...

至聖所のことば

わたしたちは、霊と魂と体という三つからなる者です。それは、古代の幕屋の姿をそのまま映しています。外庭は体、聖所は魂、そして至聖所は霊にあたります。 日々の暮らしの大半は、はじめの二つの場所で営まれています。体で感じることに目を向け、心で考えることに時間を費やす。けれども、異言をもって祈るとき、あなたは至聖所から――霊なる人として――神の前に立っているのです。 「しかし、愛する者たちよ。あなたがたは...

意志の力なしに変わる

世にある自己改善の多くは、意志の力を求めます。規則を決めなさい、習慣を記録しなさい、そして自分で自分を変えなさい、と。けれども新しい契約は、まったく別の道を差し出します。 パウロは、クリスチャンが変えられていく道筋をこう描きます。 「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」 コリント人への...

十分の一は、律法より先にありました

ひとりの人が、自分の持ち物すべての十分の一を、ひとりの祭司に手渡しました。モーセの律法が与えられる四百年以上も前のことです。命令もなく、義務もなく、神殿もありません。あるのはただ、自分を救い出してくださった神への、感謝のこたえだけでした。 その人がアブラハム。そして祭司がメルキゼデクです。 十分の一をめぐる話は、たいてい義務から始まります。「ささげるべきですか」「ささげなければ神に罰せられますか」...

野の花よりも尊いあなた

私たちは人生の多くを、大きくなろうともがきながら過ごします。自分の背丈のこと、知恵のこと、行く末のこと。自分の手で安心を紡ぎ出し、自分の力で評判を積み上げようとします。 けれども主イエスは、それとはまったく別の道を指さされます。野の花の道です。 八福の丘の上、赤や黄の花に囲まれながら、主は一輪の花を手に取り、これがどう育っているか見てごらん、と言われました。夜更けまで働くわけでもなく、思いわずらう...

歩みに残る神の指紋

自分の人生に神のみわざを読み解く力、それが知恵です。 私たちはたいてい、何が起こったかを知ってから、ずいぶん経ってようやくなぜかを知ります。 ヨセフは、裏切られ、奴隷として売られ、身に覚えのない罪を着せられ、獄につながれました。けれども、来し方をふり返ってこう言えるようになったのは、ずっと後のことでした。 「神はそれを良きに変らせて」 創世記 50:20 (口語訳) これこそ知恵です。人生を思いど...

恵みの深みへ沈む

霊的な成長とは、自分自身が強くなることではありません。キリストにあって、確信が深まっていくことです。 パウロは、それを見事に言い表しました。 「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」コリント人への第二の手紙 12:10 (口語訳) 成長は、高く登っていく手ごたえとしては訪れません。むしろ、沈んでいくように感じられます——より深く、依り頼むことのうちへ。より深く、恵みのうちへ。より深く、あな...

安息がすべてを変える

長い語りかけの終わりに、イエスはひとつの、単純でありながら深いことをなさいます。ご自分の民を、安息をもって祝福されるのです。 何もしないでいることの安息ではありません。現実から目をそらすことの安息でもありません。信頼から生まれる安息です。 「信じたわたしたちは、その安息にはいるのです。」ヘブル人への手紙 4:3 (NKJV より私訳) 安息とは、心が恐れをくり返し思い描くのをやめる場所です。安息と...

神は根から実を測られます

わたしたちはしばしば、目に見えるもので働きを測ります。規模、活動の多さ、人目につくかどうか。けれども聖書は、外に現れた姿がすべてを語ることはない、と告げます。 サムエルはエリアブを見て、心を動かされました。けれども神は、そうではありませんでした。 「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」サムエル記上 16:7 (口語訳) 神の見極めは、枝からではなく、根から始まります。 しかし、聖書はもう一つの真実...

力ではなく、権威

この世では、声の大きさが値打ちと取り違えられ、腕力が有効さと混同されがちです。状況を変えるには、もっと力がいる——私たちはそう思い込んでいます。けれども、力と権威のあいだには、思いのほか深い隔たりがあります。 交差点の真ん中に立つ警官を思い浮かべてみてください。背丈は小さいかもしれません。見るからに頼りない体つきかもしれません。十トンのトラックを押しとどめるだけの筋力など、もちろん持ち合わせてはい...

遅い時間が、人を強くする

神が私たちのうちでなさる最も大切な働きは、しばしば、私たちが「霊的」とは決して呼ばない場所で起こります。赤信号、長い行列、のろのろと進む前の車、そして、その日に思い描いていた歩調をあっさり崩してしまう思いがけない中断の中で。 科学は今、聖書がずっとほのめかしてきたことを裏づけています。急ぎ、張りつめた暮らしは、体をすり減らしていきます。けれども、静かで急がない心は、長く保たれるのです。 箴言は、ご...

加速の恵み

ふつう、種をまいてから実を口にするまでには、長い隔たりがあります。ある季節にまき、別の季節に刈り取る。それが自然の順序です。けれども神は、その時間の隔たりそのものが畳み込まれる日について語られます。あまりに豊かな実りのゆえに、次の作付けをしている人が、今の収穫を집めている人と肩をぶつけ合う——そんな光景です。 「見よ、その日が来る、と主は言われる。その時、耕す者は刈る者に追いつき、ぶどうを踏む者は...

罪が痛むのは、新しいいのちのしるし

恵みを知る前、罪はあたりまえの顔をしていました。恵みを知った後、罪は重くのしかかります。 その痛みは、偽善ではありません。それは、造り変えられている証拠です。 多くの信者を苦しめているのは、救われる前の自分の姿ではありません。救われた後も、なお顔を出してくるもののほうです。 聖書は、この葛藤をはっきりと言い表しています。 「わたしは自分の欲する事は行わず」 ローマ人への手紙 7:15 (口語訳)...

もう力まなくていい――聖書が語る安息

神はすべてのわざを終え、造られたものをことごとく見渡し、それから思いがけないことをなさいました。休まれたのです。疲れたからではありません。すべてが完成したからです。 このひとつの出来事――第七日の安息――が、聖書に記されたあらゆる平安の約束、供給の約束、守りの約束の土台になりました。それなのに、多くの信仰者は今も、安息を「余裕のある人にだけ許された贅沢」のように扱っています。 聖書は安息を付け足し...

実だけは、まねできない

結ぶ実は、まねのできないものです。それは福音を信じるところから育ちます。 人の行いをまねることはできます。けれども、その人の結ぶ実をまねることはできません。 実は写し取るものではなく、いのちを通して育つものです。 主イエスは、こう語られました。 「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」ヨハネによる福音書 15:5 (口語訳) つなが...