20件の記事が見つかりました
目と耳の門を守る
朝6時40分、ひとりの女性が目を覚まし、足が床に触れるより先にスマートフォンへ手を伸ばします。朝食の頃には、四十件の投稿と、新しいウイルスについての見出しを二つ、そして見知らぬ誰かの政治をめぐる言い争いまで読み終えています。聖書はまだ開いていません。昼になる頃、心はずっしりと重くなっています。けれども、その理由は自分でもわかりません。 彼女の身に何かが起きたわけではありません。ただ、言葉を取り込ん...
検索語: “健康”
20件の記事が見つかりました
朝6時40分、ひとりの女性が目を覚まし、足が床に触れるより先にスマートフォンへ手を伸ばします。朝食の頃には、四十件の投稿と、新しいウイルスについての見出しを二つ、そして見知らぬ誰かの政治をめぐる言い争いまで読み終えています。聖書はまだ開いていません。昼になる頃、心はずっしりと重くなっています。けれども、その理由は自分でもわかりません。 彼女の身に何かが起きたわけではありません。ただ、言葉を取り込ん...
ギデオンは酒ぶねの中に身を隠していました。モーセは「どうか、ほかの人を」と神に願いました。エレミヤは「わたしはまだ若い」と言いました。神に召された三人。そのだれもが、自分こそこの務めにふさわしくない人間だと思い込んでいたのです。 自信のなさは、現代に生まれた病ではありません。SNSや人事評価とともにやって来たものでもありません。それは堕落のときから人と共にありました。アダムとエバが神を避けて身を隠...
「繁栄」という言葉を聞くと、どこか落ち着かない気持ちになる人は少なくありません。強欲さや自分本位、あるいは上っ面だけの教えを思い浮かべてしまうからです。その警戒心のあまり、神の約束を霊的な領域だけに閉じ込めてしまう。神は霊において豊かにしてくださる、そこまでは信じられる。けれども、からだの健康や日々の必要については、どこか自信が持てないままなのです。 しかし使徒ヨハネは、愛する信徒たちのために、は...
エジプトでの最後の朝を思い描いてみてください。 二百万とも三百万とも言われる人々が、たった一夜で奴隷の地を出て行きます。彼らはれんが作りの労働者でした。背中が鞭を知っている人々でした。その中には年老いた男も、白髪の祖母も、小さな子どももいます。ところが、その群れのどこにも担架は一つも見当たりません。杖にすがる老婆もいません。誰かに背負われている者もいません。 「そして彼らに銀と金とを携えて出させら...
テサロニケ人への第一の手紙 4 章で、パウロは同じことを二度言います。わずか三節のうちに、同じ言葉が繰り返されるのです。「生きながらえて残る」。聖書における繰り返しは、書き手の不注意ではありません。強調です。神が一つの箇所で二度言われるとき、それは立ち止まって、よく見なさいという合図です。パウロはこう書いています。 「わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたち...
多くのクリスチャンが、「救われた」という言葉を知っています。けれども、その言葉の背後にあるギリシア語 — ソーゾー — が、同時に「いやされた」「救い出された」「全きものとされた」「守られた」という意味を持っていることを知る人は、それほど多くありません。一つの言葉が、そのすべてを抱えているのです。 これは小さなことではありません。神は初めから、救いをあなたのたましいのところで止めるおつもりなどなか...
パウロは、はっとさせられることを書いています。ただ一つの理由が——たった一つが——多くの信者が弱り、病み、ついには眠りについた訳を説き明かしています。 「あなたがたの中に弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである」コリント人への第一の手紙 11:30 (口語訳) ギリシア語は、その点をはっきりと示しています。(ディア トゥート) διὰ τοῦτο — 「このゆえに」。...
わたしたちは「希望」という言葉で、少しつまずいているのかもしれません。 日ごろ使う「望み」は、どこか心もとない願いです。「雨が降らないといいな」「あの仕事が決まるといいな」。そこには不確かさがにじみ、結果はまだ宙に浮いたままです。 けれども聖書の言う希望は、投げたコインの裏表ではありません。それは錨です。 希望を表すギリシア語は (エルピス) ἐλπίς です。「たぶん」という意味ではありません。...
わたしたちはしばしば、神のみもとへ行く前に、自分を強くしようとします。もっと蓄えを増やし、もっと知恵を磨き、もっと健康を整えなければ、神のお役には立てない——そう思い込むのです。けれども神は、まったく別の原理でお働きになります。世が「無きに等しい」と見なすものを用いて、世が「たいしたもの」と誇るものを、砕いてしまわれるのです。 パウロは、この神のご計画をコリントの人々への手紙の中で説き明かしていま...
古代の町は、門で生き、門で滅びました。番兵は門に立ち、商人は門から入り、敵は門をねらいました。門を通り抜けたものが、そのまま町の通りを支配したのです。 ソロモンは門というものをよく知っていました。そして箴言4章で、人の体にも門があるのだと、自分の子に語ります。 「わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。これをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。それは、これを得る者...
約束を読み違えた時制で受け取ると、しまい込む引き出しまで間違えてしまいます。 多くの信者が、ローマ人への手紙 8:11 でそれをしています。読んで、一瞬希望がわいて、それからその約束をまるごと未来へ押しやってしまう。「それは携挙のときの話でしょう」と。こうして、この御言葉は「いつの日か」と書かれた引き出しに眠り、火曜日の現実には指一本触れないままになります。 けれども、この節をよく見てください。...
敵の手口は、いつも決まっています。まず人を孤立させ、やがてその人自身の手で自分を損なわせるのです。マルコによる福音書五章は、ガダラ人の地で、墓場に住みついた一人の人の姿を伝えています。 「そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。」 マルコによる福音書 5:5 (口語訳) この人の状態には、三つのしるしがありました。ひとつは、人から離れて孤立していたこと。ひとつ...
それは、いかにも立派な衝動に見えます。牛がつまずいた。神の箱が落ちようとしている。ウザは手を伸ばし、それを支えようとしました。そして、彼は死にました。なぜでしょうか。神が腹を立てられたのでしょうか。いいえ。ウザは、今日の私たちの多くが犯すのと同じ、致命的な思い違いをしていたのです。神は自分の助けを必要としている、と彼は思いました。神の栄光はもろく、人の力で支えてやらなければ倒れてしまう、と思ったの...
もの忘れや思考の鈍り、頭にかかる霧のようなものを、わたしたちは人生の当たり前として受け入れてしまいがちです。「もう年だから」「自分にはそこまでの頭はないから」と。 けれども、わたしたちの本当の身元がイエスにつながっているのなら、その中には、わたしたちの思いも含まれています。 神がアダムを造られたとき、彼には輝くような知性がありました。数えきれないほどの生き物の一つひとつに、その本性を見抜いて名をつ...
望みがないという状態は、心だけでなく体にも及びます。望みを失うと、朝、目覚めた時点ですでに疲れています。何をするにも気力が湧かず、重たいものが胸の底に残ります。仕事を見ても、夫婦の間を見ても、家族を見ても、目に映るのは暗い色ばかりです。 こうした心の状態は、多くの場合、自分が何を取り入れてきたかの結果です。暗い報道や、この世の悲観的な見通しばかりで心を満たせば、心は沈みます。処方箋は、神の言に日ご...
人は神ではなくサタンを信じ、大逆の罪を犯しました。このただ一つの選びによって、傷ひとつなかった世界に、老いと病と死が入り込んだのです。 わたしたちはふだん、自分を地上の系図で説明します。父の短気を、父の不安を、父の病歴を、いずれ受け継ぐものと思い込んでいます。世は言います。あなたの健康も、あなたの性格も、血のつながりが決めるのだと。 けれども聖書は、その鎖をきっぱりと断ち切ります。イエスは第二のア...
天から火を呼び下した預言者がいました。四百五十人の偽預言者を相手に、国を挙げた対決に勝ちました。王の戦車を追い越して走りました。その翌日、彼は神に、わたしの命を取ってくださいと願いました。 それが燃え尽きです。才能の不足ではありません。信仰の不足でもありません。人格の破れでもありません。燃え尽きとは、注ぎ出す量が、注がれる量を超えたときに起こることです。そして聖書は、多くの人が思うよりもずっとやさ...
神が私たちのうちでなさる最も大切な働きは、しばしば、私たちが「霊的」とは決して呼ばない場所で起こります。赤信号、長い行列、のろのろと進む前の車、そして、その日に思い描いていた歩調をあっさり崩してしまう思いがけない中断の中で。 科学は今、聖書がずっとほのめかしてきたことを裏づけています。急ぎ、張りつめた暮らしは、体をすり減らしていきます。けれども、静かで急がない心は、長く保たれるのです。 箴言は、ご...
多くの人は、シャロームを「平和」と訳します。それは「家庭」を「建物」と訳すようなものです。間違いではありません。けれども、まだ足りません。 シャロームは、ヘブライ語聖書のなかでもっとも豊かな言葉のひとつです。旧約聖書に二百五十回以上あらわれます。日々のあいさつとして交わされ、軍勢の上に宣言され、預言者たちによって約束され、神ご自身の名にまで刻まれました。御使たちがイエスの誕生を告げたとき、ただ気分...
ふつう、種をまいてから実を口にするまでには、長い隔たりがあります。ある季節にまき、別の季節に刈り取る。それが自然の順序です。けれども神は、その時間の隔たりそのものが畳み込まれる日について語られます。あまりに豊かな実りのゆえに、次の作付けをしている人が、今の収穫を집めている人と肩をぶつけ合う——そんな光景です。 「見よ、その日が来る、と主は言われる。その時、耕す者は刈る者に追いつき、ぶどうを踏む者は...