キリストの思い

もの忘れや思考の鈍り、頭にかかる霧のようなものを、わたしたちは人生の当たり前として受け入れてしまいがちです。「もう年だから」「自分にはそこまでの頭はないから」と。
けれども、わたしたちの本当の身元がイエスにつながっているのなら、その中には、わたしたちの思いも含まれています。
神がアダムを造られたとき、彼には輝くような知性がありました。数えきれないほどの生き物の一つひとつに、その本性を見抜いて名をつけ、しかもすべてを正確に覚えていたのです。最初のアダムにそれだけの力が備わっていたのなら、終りのアダムであるイエスには、どれほどのものが備わっているでしょうか。
聖書は、思いきってこう言います。
イエスはもの忘れをなさるでしょうか。学ぶのに苦労なさるでしょうか。頭に霧がかかることがあるでしょうか。
そんなはずはありません。主の思いはどこまでも澄んでいて、何ひとつ取りこぼすことがないのです。
ですから、思いがぼやけ、考えが空回りするように感じるときも、その症状にうなずいてしまう必要はありません。あなたはこう宣言することができます。「イエスが完全な思いを持っておられるように、わたしもこの世でそうです」と。
理屈は、そんなものは筋が通らないと言うでしょう。世は、よくなった証拠を見せられるまで信じようとしません。けれども信仰の道は逆を行きます。まだそう感じられなくても、神がそう言われたから、真実を口にするのです。
必要なのは、より切れる頭ではありません。だれの思いに自分がつながっているのかを知ることです。
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