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カイロスの意味とは?時計では測れない神の時
多くの人は時計に従って生きています。時間、締め切り、カレンダー。そうやって人生を測っています。けれども聖書は、時について別の言葉を使います。壁にかかった時計とは、何の関係もない言葉です。 その言葉が (カイロス) καιρός — 「定められた、恵みにかなった時」です。この一語を知ると、新約聖書のおもだった約束の読み方が変わります。 カイロスは分を数えません。時を刻むのではなく、時を告げます。神が...
検索語: “平和”
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多くの人は時計に従って生きています。時間、締め切り、カレンダー。そうやって人生を測っています。けれども聖書は、時について別の言葉を使います。壁にかかった時計とは、何の関係もない言葉です。 その言葉が (カイロス) καιρός — 「定められた、恵みにかなった時」です。この一語を知ると、新約聖書のおもだった約束の読み方が変わります。 カイロスは分を数えません。時を刻むのではなく、時を告げます。神が...
また、やってしまいました。そのとき真っ先に心をよぎったのは、失敗そのもののことではありませんでした。神のことでした。「きっと、神はわたしに失望しておられる」。 この一言は、信じる者なら誰しも、どこかの時点で胸の奥に抱えるものです。無神論者の堂々とした反論でもなく、神学者の議論でもありません。声に出さず、ひとりでしまい込んでおく恐れ——自分を救ってくださったその神が、今は自分を見て首を横に振っておら...
ひとりの人が、自分の持ち物すべての十分の一を、ひとりの祭司に手渡しました。モーセの律法が与えられる四百年以上も前のことです。命令もなく、義務もなく、神殿もありません。あるのはただ、自分を救い出してくださった神への、感謝のこたえだけでした。 その人がアブラハム。そして祭司がメルキゼデクです。 十分の一をめぐる話は、たいてい義務から始まります。「ささげるべきですか」「ささげなければ神に罰せられますか」...
第一の園で、働きは呪いとなりました。アダムの堕落のゆえに、地は人に逆らうものとなり、実りは「顔に汗して」得るものとなったのです。ストレスも、不安も、重くのしかかる労苦も、その日に生まれました。 「あなたは顔に汗してパンを食べ」 創世記 3:19 (口語訳) 時をくだって、もうひとつの園があります。ゲツセマネです。そこで「第二のアダム」である主イエスは、受難の道を歩み始められました。祈っておられるう...
医者はパニック発作に薬を処方できます。カウンセラーは、思考の枠組みを組み替える術を教えてくれます。けれども聖書は、そのどちらにもできないことをします。恐れがどこから来たのか、だれがそれを打ち破ったのか、そしてなぜそれがもはやあなたの人生に立ち入る権利を持たないのかを、はっきり告げるのです。 恐れは、神が聖書の中で最も繰り返し語られた主題です。「恐れるな」という言葉は、聖書に三百六十五回以上出てきま...
律法は、何をすべきかを告げます。恵みは、何がすでに成し遂げられたかを告げます。一方はあなたから取り立て、もう一方はあなたに供給します。そして聖書は、わたしたちが今どちらの下に生きているのかを、少しもあいまいにしていません。 ローマ人への手紙6章14節を耳にしたことのある方は多いでしょう。けれども、その一節が何を宣言しているのかに立ち止まった方は、そう多くありません。パウロは「律法と恵みのつり合いを...
多くの人は、シャロームを「平和」と訳します。それは「家庭」を「建物」と訳すようなものです。間違いではありません。けれども、まだ足りません。 シャロームは、ヘブライ語聖書のなかでもっとも豊かな言葉のひとつです。旧約聖書に二百五十回以上あらわれます。日々のあいさつとして交わされ、軍勢の上に宣言され、預言者たちによって約束され、神ご自身の名にまで刻まれました。御使たちがイエスの誕生を告げたとき、ただ気分...
私たちはしばしば、平安を「どこかにある目的地」のように思い描きます。 静かな海辺。森の中の小屋。扉を閉め、耳をふさいで、音を遮断した一室。私たちは平安を、どこかで見つけ出すものか、深呼吸と予定表の余白によって自分でつくり出すものだと考えています。 けれども主イエスは、「平安を探しに行きなさい」とは言われませんでした。 「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」ヨハネ...
神はすべてのわざを終え、造られたものをことごとく見渡し、それから思いがけないことをなさいました。休まれたのです。疲れたからではありません。すべてが完成したからです。 このひとつの出来事――第七日の安息――が、聖書に記されたあらゆる平安の約束、供給の約束、守りの約束の土台になりました。それなのに、多くの信仰者は今も、安息を「余裕のある人にだけ許された贅沢」のように扱っています。 聖書は安息を付け足し...
精神医学の教科書と福音書が、同じことを語っています。今この瞬間を生きなさい、と。違いは、福音書がそれを二千年も前に語っていたことです。 不安は新しいものではありません。SNSと二十四時間流れ続けるニュースが生んだ現代病でもありません。ダビデは詩篇にそれを書き残しました。エリヤは生涯最大の勝利の直後にそれを味わいました。パウロは日々それを背負っていました。主イエスさえ、ゲツセマネの園でその重みの下に...
多くの人が、もっと平安がほしい、もっと恵みを受けたいと願います。そして人の本能は、決まってこう尋ねます。「そのために、何をすればいいのか」と。 増やしたいなら、もっと努力するほかない——私たちはそう思い込んでいます。もっと自分を律し、もっと奉仕し、もっと時間を注ぐ。けれども聖書は、成長についてまったく別の道筋を示します。 「神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに...
「もし神が、わたしに愛想を尽かしておられたら。もし今度こそ、行き過ぎてしまったのなら。」 そんな思いが胸を離れないなら、この御言葉は、誓いをもって答えます。 「わたしは再びあなたを怒らない、またあなたを責めないと誓った。……わがいつくしみはあなたから移ることなく、わが平和の契約は動くことがない」イザヤ書 54:9–10 (口語訳) 神は、軽い気持ちでこれを約束されたのではありません。御子の成し遂げ...
多くの人が、神はいまも自分を値踏みしておられると思いながら生きています。もっとよくなるのを待たれ、できばえを測られている、と。 けれども聖書は、それよりもはるかに強いことを告げます。 「わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」ローマ人への手紙 5:1 (口語訳) ここで「平和」と訳されている語は (エイレーネー) εἰρήνη — 「平和、戦いの終わった和解の状態」です。敵...
感情は移ろいます。神は変わりません。 近くに感じる日があります。遠く感じる日もあります。けれども、真実はいつも同じところに立っています。 「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」ローマ人への手紙 5:1 (口語訳) 平和 — (エイレーネー) εἰρήνη — 「一時の気分ではなく、定まった状態」 神との平和とは、...
主イエスがくださったのは、世の平安ではありませんでした。ご自身の平安でした。 「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。……あなたがたは心を騒がせるな」 ヨハネによる福音書 14:27 (口語訳) 。 預言者イザヤは、この方を「平和の君」と呼びました(イザヤ書 9:6 口語訳)。 この平安は、人生の歯車がかみ合うのを待つ種類のものではありません。状況が変わったとたん...