神はすべてのわざを終え、造られたものをことごとく見渡し、それから思いがけないことをなさいました。休まれたのです。疲れたからではありません。すべてが完成したからです。

このひとつの出来事――第七日の安息――が、聖書に記されたあらゆる平安の約束、供給の約束、守りの約束の土台になりました。それなのに、多くの信仰者は今も、安息を「余裕のある人にだけ許された贅沢」のように扱っています。

聖書は安息を付け足しのようには扱いません。安息は、神が最初に祝福されたものです。安息は、神が最初に「聖」と呼ばれたものです。安息は、いのちに至る狭い門です。そして恵みのもとに生きるあなたに残された、ただひとつの戦いです。

この記事では、安息についての鍵となる聖句を集め、ヘブライ語とギリシア語の原語をたどり、キリストの完成したみわざが安息を「修練」から「賜物」へと変えたことを見ていきます。


原語が語る「安息」――ヘブライ語とギリシア語

聖書は「安息」を表すのに、いくつもの言葉を用いています。そのひとつひとつが、神の設計された安息の別の面を照らし出します。

ヘブライ語:(シャーバット) שָׁבַת ――「やめる、手を止める、絶える」。安息日という言葉の語根です。最初に現れるのは創世記 2:2、神がみわざを終えて手を止められた場面でした。力点は「くつろぎ」ではなく「完成」にあります。仕事が終わったから、神は手を止められたのです。

ヘブライ語:(メヌーハー) מְנוּחָה ――「憩いの場、静けさ、落ち着いた平安」。詩篇 23:2 の「いこいのみぎわ」がこの語で、直訳すれば「安息の水」です。口語訳の「いこい」という言葉づかいが、この意味をそのまま映しています。魂が落ち着き、供給が絶えない場所を指します。ナオミがルツに語った言葉も、同じ語でした。「娘よ、わたしはあなたの身の落ち着き所を求めて、あなたをしあわせにすべきではないでしょうか」ルツ記 3:1 (口語訳)。メヌーハーとは、活動がないことではなく、整えられた供給がそこにあることです。

ヘブライ語:(ヌーアハ) נוּחַ ――「休む、落ち着く、とどまる」。ノア (ノーアハ) נֹחַ という名の動詞形です。箱舟がアララテの山の上にとどまった時 (創世記 8:4)、使われたのはこの語でした。鳩が足を休める場所を見つけられなかった時も、同じ語です。ヌーアハには、堅い地を見いだした人生の姿があります。

ギリシア語:(カタパウシス) κατάπαυσις ――「やめさせること、安息」。ヘブル人への手紙 4 章で、神の民に残されている安息を指す語です。接頭辞カタが意味を強め、労苦からの完全な停止を表します。ひと眠りではありません。永く続く状態です。

ギリシア語:(アナパウシス) ἀνάπαυσις ――「元気の回復、力の取り戻し」。マタイ 11:28 でイエスが「あなたがたを休ませてあげよう」と言われた時の語です。接頭辞アナは「上へ」「再び」を意味します。人を引き上げ、力を戻す安息です。イエスが差し出されたのは人生の小休止ではなく、力を回復させてくださるお方ご自身でした。

この五つの言葉を重ねると、ひとつの絵が浮かび上がります。聖書の安息とは、完成したみわざにはいること (シャーバット)、供給が流れ続ける落ち着いた場所 (メヌーハー)、人生が腰を下ろせる堅い地 (ヌーアハ)、自分の力みからの永い停止 (カタパウシス)、そして魂を生き返らせてくださるお方 (アナパウシス) です。


聖書が最初に「聖」と呼んだもの

「聖」という言葉が聖書に最初に現れるのは、神ご自身か、御使いか、律法を語る場面だろう――多くの人がそう思っています。ところが、そうではありません。(カードーシュ) קָדוֹשׁ ――「聖なる、選り分けられた」。この語根が最初に姿を見せるのは創世記 2:3、口語訳の「聖別された」という言葉です。

「神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。」
創世記 2:3 (口語訳)

神が最初に聖と呼ばれたのは、休みの日でした。儀式でも、いけにえでも、建物でもありません。わざが終わったがゆえに、選り分けられた一日です。

これは大切なことを教えます。聖さとは、根のところで何であるのか。聖さとは、十分に良い者になろうとあくせくすることではありません。聖さとは、わざが完成したことを知っている者の状態です。神はわざの始まった第一日を聖別されませんでした。わざが終わった第七日を聖別されたのです。

新しい契約のもとで、あなたはキリストの完成したみわざの中に生きています。毎日が第七日です。わざが完成しているのですから、毎日が聖なる日です


聖書に最初に「恵み」が現れる場所

「恵み」――(ヘン) חֵן ――という語が聖書に最初に現れるのは、その名が「安息」を意味する人のところでした。

「しかし、ノアは主の前に恵みを得た。」
創世記 6:8 (口語訳)

ノア――(ノーアハ) נֹחַ ――は「安息」という意味です。父レメクは、ひとつの預言を込めてこの名をつけました。「主が地をのろわれたため、われわれは労苦しているが、この子はわれわれを慰めるであろう」創世記 5:29 (口語訳)。

安息が、恵みを得ました。「安息」という名を持つ人が、聖書で最初に恵みを受けた人でした。偶然ではありません。これは聖書全体を貫く型です。安息すればするほど、恵みが迎えに来ます。力めば力むほど、恵みは遠のきます。恵みと安息は切り離せません。

この結びつきは、繰り返し現れます。アブラハムが契約を受けたのは、深い眠りの中でした (創世記 15:12)。ヤコブが祝福を受けたのは、石を枕に眠っている間でした (創世記 28:11-16)。ソロモンが知恵を受けたのも、眠っている時でした (列王紀上 3:5)。あなたが自分のわざをやめる時、神は最良のみわざをなさいます


安息を語る聖句 10 選

1. 創世記 2:2-3 ――神が休まれた

「神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。」
創世記 2:2-3 (口語訳)

神は疲れ果てて休まれたのではありません。イザヤ書 40:28 は、はっきりと「彼は弱ることなく、また疲れることなく」と言います。すべてが完成したから、休まれたのです。そしてその安息を祝福し、聖別し、そこに生きるようにと人を招かれました。

2. 出エジプト記 20:8-11 ――安息日を覚えよ

「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。……主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」
出エジプト記 20:8-11 (口語訳)

古い契約のもとで、安息日は一日でした。新しい契約のもとで、安息日はひとりのお方です。コロサイ人への手紙 2:16-17 は、安息日は「きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある」と語ります。安息の本体は、イエスご自身です。日を守るのではなく、お方の内にとどまるのです。

3. 詩篇 23:1-2 ――主は伏させてくださる

「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。」
詩篇 23:1-2 (口語訳)

「いこいのみぎわ」は、ヘブライ語で (メー・メヌーホート) מֵי מְנֻחוֹת ――「安息の水」です。主は、回復させる前に、導く前に、守る前に、まずあなたを伏させられます。よき牧者の最初のみわざは、あなたを落ち着かせることなのです。供給は安息のあとに続きます。順序が逆になることはありません。あなたが身を横たえる時、主は導かれます。あなたが休む時、主は回復させてくださいます。

4. イザヤ書 30:15 ――立ち返って、落ち着くならば

「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。」
イザヤ書 30:15 (口語訳)

救いの手だては、四つの言葉に尽きています。立ち返ること、落ち着くこと、穏やかであること、信頼すること。うろたえることも、策を練ることも、そこにはありません。この約束に対するイスラエルの応えが、聖書でもっとも痛ましい一言でした。「しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」。彼らは馬を選び、同盟を選び、自分の力を選んだのです。神の民が安息を退けるのは、たいてい神を疑うからではありません。休むことが、無責任に思えるからです。

5. マタイによる福音書 11:28-30 ――わたしのもとにきなさい

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
マタイによる福音書 11:28-30 (口語訳)

ここでイエスは、二種類の安息を差し出しておられます。第一の安息――「あなたがたを休ませてあげよう」――は賜物です。御もとに来たその瞬間に受け取ります。これは良心の安息です。罪は赦され、負債は支払われました。第二の安息――「あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」――は、主のご性質を学ぶところから来ます。この方が柔和で、心のへりくだった方だと見えてくる時、魂は落ち着くのです。良心の安息は与えられ、魂の安息は見いだされます。主を見つめることによって

ここで「休ませる」と訳された語は (アナパウシス) ἀνάπαυσις ――人を引き上げる回復です。イエスはただ重荷を軽くされるのではありません。あなたのくびきをご自分のくびきと取り替えてくださいます。そしてそのくびきが負いやすいのは、重さを担いでおられるのが主だからです。

6. 詩篇 46:10 ――静まって、知れ

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。」
詩篇 46:10 (口語訳)

「静まって」はヘブライ語で (ラーフー) רָפוּ ――「手を放せ、力を抜け、やめよ」。武器を手放すという軍事的な文脈でも使われる語根です。神は静かな時間を求めておられるのではありません。武器を置け、戦いはわたしがすると言っておられるのです。静まれという命令は、信頼せよという命令です。

7. ヘブル人への手紙 4:9-11 ――残されている安息

「こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめられたように、自分もわざをやめてしまっているからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じ不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るであろう。」
ヘブル人への手紙 4:9-11 (口語訳)

9 節の「安息日の休み」は、カタパウシスではありません。(サッバティスモス) σαββατισμός ――「安息日の休息」という、ここだけに現れる語です。著者はあえてこの珍しい語を選び、安息日の原則は取り消されてはいないと告げています。ただ、それはひとりのお方において成就しました。そしてあなたに残された唯一の努力は、力むのをやめる努力です。このことは、下でさらに見ていきます。

8. 出エジプト記 33:14 ――わたし自身が共に行く

「主は言われた、『わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう』。」
出エジプト記 33:14 (口語訳)

神のご臨在と安息は、ひとつに結ばれています。主がおられるところに、安息が続きます。モーセが受け取ったのは地図ではなく、道連れでした。約束された安息は目的地ではなく、旅路に共におられる方から自然にこぼれ出るものだったのです。案内してくださる方がおられるなら、計画はいりません

9. エレミヤ書 6:16 ――いにしえの道

「主はこう言われる、『あなたがたは道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安らかな道を見出せ』。しかし彼らは答えて、『われわれはその道に歩まない』と言った。」
エレミヤ書 6:16 (口語訳)

イザヤ書 30:15 と同じ拒みが、ここにも現れます。神は安息という古い道を指し示され、民はそれを断るのです。人の性は安息に逆らいます。安息には信頼が要るからです。だれかが引き受けてくれていると信じられなければ、人は休めません。安息は、信仰のもっとも目に見えるあらわれです

10. ヨハネによる福音書 19:30 ――すべてが終った

「イエスは、この酸いぶどう酒を受けられて言われた、『すべてが終った』。そして首をたれて、霊をわたされた。」
ヨハネによる福音書 19:30 (口語訳)

ギリシア語は (テテレスタイ) τετέλεσται ――「完了して、そのまま立っている、全額支払い済み」。考古学者たちは、この語が古代の納税証書に「完済」の印として押されているのを見つけました。イエスが「すべてが終った」と言われた時、創造の第七日に神が宣言されたのと同じ完成が宣言されたのです。聖書に散りばめられた安息への招きは、ことごとくこの一瞬を指しています。わざは終わりました。あなたは手を止めてよいのです。


レピデムの原則――あなたの唯一の戦いは、安息にとどまること

出エジプト記 17 章で、イスラエルはレピデムという場所に着きました。ヘブライ語の (レフィーディーム) רְפִידִם は「憩いの場所」――しかも複数形です。そしてこの憩いの場所で、アマレクが襲いかかりました。

「ときにアマレクびとが来て、イスラエルとレピデムで戦った。」
出エジプト記 17:8 (口語訳)

アマレクという名は、語根 (アーマール) עָמָל ――「苦しい労苦、骨折り」から来ています。絵が見えてきます。苦しい労苦の霊は、あなたが安息の場に入るたびに攻めてくるのです。

これは、エジプトとシナイのあいだ、律法が与えられる前の純粋な恵みの期間に、イスラエルが経験した唯一の戦いでした。この一点は見逃せません。恵みのもとで、敵はひとつしかありません。安息を離れ、自分の力に戻ろうとする誘惑です

モーセは丘に登り、岩の上に座り、手を上げました。手が上がっているあいだ、イスラエルは勝ちました。手が下がると、アマレクが勝ちました。アロンとホルが傍らに来て、彼を石の上に座らせ(キリストである岩の型です)、日の入るまでその手を支え続けました。

出エジプト記 17:12 で「(手が)しっかりしていた」と語られる時のヘブライ語は (エムーナー) אֱמוּנָה ――「信仰」「真実」と訳されるのと同じ語です。モーセの手は「信仰」そのものであり、イスラエルは勝ちました。戦い全体の決着は、岩の上に座って手を上げ、ふたりに支えられたひとりの人によってついたのです。

これはキリスト者の生き方の絵です。あなたは岩の上に座ります。手を上げます。ほかの人が支えます。そして苦しい労苦の霊――アマレク――は敗れます。あなたの努力によってではありません。あなたの安息によってです

神はこの戦いを、これほど真剣に受け止めておられました。アマレクに対して、絶えざる戦いを誓われたのです。

「主は誓われた。主は世々かぎりなくアマレクと戦われる。」
出エジプト記 17:16 (NKJV より私訳)

思いわずらいと労苦の霊は、生涯あなたに抗い続けます。だからこそヘブル人への手紙 4:11 は「この安息にはいるように努力しようではないか」と言うのです。そこには確かに戦いがあります。けれども、その戦いは成果を出すための戦いではありません。座り続けるための戦いです


ヘブル人への手紙 4 章――なお残されている安息

ヘブル人への手紙 4 章は、新約聖書の中でもっとも凝縮された安息の教えです。著者は、安息が選択肢ではない理由を五つ挙げています。

1. 神が「恐れよ」と言われる、ただひとつのこと。

「それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。」
ヘブル人への手紙 4:1 (口語訳)

ここで「注意しようではないか」と訳された語は、原語では (フォベオー) φοβέω ――「恐れる」です。聖書は繰り返し「恐れるな」と語ります。しかしここだけは「恐れよう」と言い、恐れるべき対象はただひとつ、安息にはいりそこなうことなのです。ほかのすべての領域で、神は恐れるなと言われます。この領域だけは、恐れよと言われます。それは、安息がキリスト者の生活の中心にあることを物語っています

2. 良い知らせは、信仰と混ぜ合わされなければなりません。

「というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、彼らには、聞いた御言が益にならなかった。それが、聞いた者たちに信仰によって結びつけられなかったからである。」
ヘブル人への手紙 4:2 (口語訳)

イスラエルは、安息の地という良い知らせを聞きました。それでもはいれなかったのは、みことばを信仰と混ぜなかったからです。信仰こそ、安息を働かせる鍵です。そして安息の反対――不信仰――が、ひとつの世代を荒野に留め置きました。

3. みわざは、世の初めにでき上がっていました。

「ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、『わたしが怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしないと、誓ったように』と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。」
ヘブル人への手紙 4:3 (口語訳)

神は、あなたが生まれる前にすべてを完成しておられました。あなたの健康も、必要も、家族も、召しも――あなたが今後必要とするみわざは、ことごとく世界の始まる前に終わっています。あなたが休めるのは、事態が手の内にあるからではありません。わざがすでに終わっているからです。

4. 「悪い」という語は、「労苦に満ちた」という意味です。

著者は「不信仰な悪い心」(ヘブル人への手紙 3:12)を警告します。「悪い」に当たるギリシア語は (ポネーロス) πονηρός。その第一義は「労苦と骨折りと煩わしさに満ちた」です。聖書の言う悪い心とは、まず第一に、思いわずらいと労苦で詰まった心なのです。自分の力みは美徳ではありません。それこそ、聖書が悪と呼ぶものです

5. 残されている労苦は、安息にはいることだけです。

「したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じ不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るであろう。」
ヘブル人への手紙 4:11 (口語訳)

この矛盾した言い方は、わざとです。休むために労する。働かないことに励む。著者は努力の言葉を用い、その矛先を安息に向けています。キリスト者の生活に与えられた任務はひとつ。力むのをやめ、完成したみわざにはいることです。ほかのすべては、その座から流れ出ます


キリストと共に座す――安息という立ち位置

新約聖書は、安息へ招くだけではありません。安息こそがあなたの変わらぬ立ち位置だと告げています。

「キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。」
エペソ人への手紙 2:6 (口語訳)

あなたはすでに座らされています。動詞は完了した出来事を語ります。神は「座れるよう努めよ」とも「席を勝ち取れ」とも言われませんでした。ご自身が、そこに置いてくださったのです。座るという姿勢は、わざを終えた者の姿勢です。王が王座に座るのは、戦いが勝ち取られたからです。裁判官が席に着くのは、判決が下ったからです。あなたが座っているのは、キリストがわざを完成されたからです。

二十世紀の初め、心臓を専門とする医師ハンス・セリエは、診療所の椅子を調べていて、あることに気づきました。患者の椅子はどれも、背もたれではなく前の縁がすり切れていたのです。患者は縁に腰かけ、前のめりになり、握りしめていました。その人生も同じでした。強い緊張、心臓の病、休まらない心。それを先に見抜いたのは、医師ではなく椅子を張り替える職人の女性でした。緊張は人を椅子の縁に座らせます。信仰は人を背もたれに預けさせます。

あなたは天上でキリストと共に座らされています。これは比喩ではありません。あなたの住所です。悪魔は安息の場にいるあなたに手を伸ばせません。安息は彼が足を踏み入れられない領域だからです。イエスは、汚れた霊について「休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない」(マタイによる福音書 12:43 口語訳)と言われました。敵は休むことを知りません。安息の領域では、彼は働けないのです。


ぶどうの木の生き方――安息の実際

ヨハネによる福音書 15 章で、イエスは日々の安息のかたちを、これ以上ないほど明らかに示されました。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」
ヨハネによる福音書 15:5 (口語訳)

「つながる」に当たるギリシア語は (メノー) μένω ――「とどまる、居続ける、住む」。これ以上ないほど簡単な指示です。今いるところにとどまりなさい。ぶどうの木になろうとしてはいけません。あなたは枝です。木が供給し、枝はただ、木が生み出すものを実らせるだけです。

ぶどうを実らせた枝に話を聞けたとしても、誇れることは何ひとつないでしょう。「私は苦闘していません。何も生み出していません。ただつながっていただけです。樹液が働き、実がなり、褒められたのは私でした」と。

それがキリスト者の生き方です。あなたが平安を生み出すのではありません。平和の君の内にとどまるとき、平安があなたを通って流れます。あなたが知恵を製造するのでもありません。「知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」(コロサイ人への手紙 2:3 口語訳)お方につながっているなら、知恵は必要な時に届きます。

ぶどうの木の生き方は、受け身ではありません。生きた木につながった枝は、必ず実を結びます。聖なる熱心を持つ方と結ばれているのですから、怠けることなど起こりえません。ただし、力は木から来るのであって、枝から出るのではありません。あなたは、緊張の中でしてきた以上のことを、安息の中でするようになります


安息せず、思いわずらうとき

もっとも思いわずらう領域が、もっとも恵みの流れない領域になります。

天から下りてくる金の管を思い描いてください。ひとつは結婚に、ひとつは子どもたちに、ひとつは経済に、ひとつは健康に。供給は絶えることなく、休むことなく注がれています。ところがある領域を思いわずらうと、その不安が管を握りしめ、締めつけてしまいます。天からの供給が止まるのではありません。こちら側で、流れがふさがれるのです

上場企業のある役員が、こんなことを語りました。「状況を心配して、事務所に駆け込み、部下にああしろこうしろと言うたびに、事はかえって悪くなります。けれども立ち止まり、みことばに耳を傾け、ただ休んでいると、なぜか物事はうまく運ぶのです」。力むのをやめたとき、事業上の失敗さえ利益に変わりました。

これはまさに、ペテロの第一の手紙 5:7-8 が描いている通りです。

「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。」
ペテロの第一の手紙 5:7-8 (口語訳)

悪魔が食い尽くすのは、思いわずらいを抱えている者です。思いわずらいのない人に、彼は近づけません。だからこそ、思いわずらいをゆだねよという勧めが、敵についての警告のすぐ前に置かれているのです。心配を手放せば、敵は足がかりを失います。

配偶者に、子どもに、同僚にいらだつ――その多くは、相手から始まっていません。すでに自分の内側にある落ち着かなさから始まっています。思いわずらいが去ると、忍耐が戻ります。不安が占めていた場所を安息が満たすとき、あなたはすべての関係において別人になります。


安息は怠惰ではありません

安息と怠惰は、似ても似つかぬものです。

怠け者は責任を避けます。安息している人は、責任を別の源から担います。怠け者にはぶどうの木がありません。安息している人は生きた木につながり、一瞬ごとに供給を引き出しています。

パウロは自分の働きを、こう語りました。

「わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。」
コリント人への第一の手紙 15:10 (口語訳)

誰よりも働きながら、その一切を恵みに帰したのです。ここに安息の逆説があります。成し遂げる量は減るどころか増えます。ただ、燃料が違うのです。モーセが山で見たあの柴のように、燃えながら、燃え尽きません。

出エジプト記の安息日の戒めは、何もしないことが目的ではありませんでした。信頼が問われていたのです。六日目に、七日目の分まで神が備えてくださると信じられるか。マナが腐らないと信じられるか。試されたのは「何もしないでいられるか」ではなく、「ほかのだれかに任せられるか」でした。

安息とは、目に見えるかたちになった信仰です。働きがないのではありません。働きの中に、自分の力みがないのです。あなたは今日も現場に立ちます。準備もします。仕えもします。けれども内側の原動力が変わりました。あなたはもう供給する者ではありません。あなたは枝です


今日、神の安息にはいるために

安息は、生み出すものではありません。お方を受け取るのです。

イエスは「わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書 11:28 口語訳)と言われました。「何とか工夫しなさい」とも「もっと上手にくつろぎなさい」とも言われません。「きなさい」と言われたのです。原語のギリシア語はさらに直截で、「わたしが、わたし自身が、あなたを休ませる」と響きます。安息は技法ではありません。安息はお方であり、その名はイエスです。

今日の安息は、こういう姿をしています。

1. わざは終わっていると見ること。 症状が現れたとき、締切が迫るとき、関係にひびが入ったとき、自分にこう言い聞かせてください。みわざは世の初めにでき上がっていた、と。神はあなたが生まれる前にこの瞬間を見ておられ、すでに答えを備えておられます。

2. 問題ではなく、神について語ること。 詩篇 91:2 はこう言います。「わたしは主に言うであろう、『わが避け所、わがとりで、わが信頼しまつるわが神』と」。状況についてどう感じるかより、神についてどう語るかのほうが、はるかに大きな力を持ちます。あなたの口は、安息への入口です

3. 手を放して、供給を流すこと。 金の管を握りしめるのをやめてください。ある領域で心配を手放した瞬間、その領域に恵みが流れ込みます。供給はいつもそこにありました。ふさいでいたのは、あなたの握る手でした

4. ぶどうの木につながっていること。 みことばを聞き、礼拝し、聖餐にあずかり、マリヤのように主の足もとに座ってください。無くてならぬものはひとつ――それは、主のご臨在を喜ぶことです。ほかのすべては、その座から流れ出ます

5. 安息にとどまるために戦うこと。 アマレクの霊は、必ず試しにきます。締切は迫り、悪い知らせも届きます。あなたの唯一の戦いは、安息にとどまることです。手を上げ、岩の上に座り続けるなら、戦いは主のものです

力みに対する福音の答えは、「もっと頑張って休みなさい」ではありません。福音の答えは、「すでに完成したものを受け取りなさい」です。

あなたは安息に向かって登っていくのではありません。安息のほうが、すでにあなたのもとへ降りてきたのです。