十分の一は、律法より先にありました

ひとりの人が、自分の持ち物すべての十分の一を、ひとりの祭司に手渡しました。モーセの律法が与えられる四百年以上も前のことです。命令もなく、義務もなく、神殿もありません。あるのはただ、自分を救い出してくださった神への、感謝のこたえだけでした。
その人がアブラハム。そして祭司がメルキゼデクです。
十分の一をめぐる話は、たいてい義務から始まります。「ささげるべきですか」「ささげなければ神に罰せられますか」「今も義務なのですか」。これらはみな律法の問いです。けれども聖書は、恵みのこたえを差し出します。
この記事では、聖書が十分の一について実際に語っていることをたどります。アブラハムの自発的な贈り物から、モーセの律法のもとでの制度、そして新しい契約における自由な惜しみなさへ。原語のヘブル語とギリシア語を確かめ、よくある誤解に触れ、なぜ恵みは律法以上に人を気前のよい者にするのかを見ていきます。
ヘブル語で「十分の一」とは
旧約で「十分の一」と訳されることばは (マアセル) מַעֲשֵׂר です。数の十を表す (エセル) עֶשֶׂר — 「十」 から生まれた語で、意味はそのまま、増し加えられたものの十分の一を指します。
ギリシア語では (アポデカトオー) ἀποδεκατόω — 「十分の一をささげる」 が対応します。この語は、主イエスがパリサイ人に語られた場面と、ヘブル人への手紙がアブラハムとメルキゼデクを論じる箇所に現れます。
しかし、多くの人が見落とす一点があります。十分の一という営みは、それを命じる戒めより先に存在していたのです。
律法の前に ― アブラハムとメルキゼデク
聖書で十分の一が初めて出てくるのは創世記 14 章です。アブラハムはおいのロトを救い出す戦いに勝ち、その帰り道に、ひとりの不思議な人物が現れます。サレムの王であり、いと高き神の祭司メルキゼデクです。
創世記 14:18-20 (口語訳)
順番に目を留めてください。まずメルキゼデクが祝福し、そのあとでアブラハムがささげました。祝福が先、贈り物があとです。アブラハムは祝福を勝ち取るために十分の一をささげたのではありません。すでに祝福を受けていたから、ささげたのです。
このときまだ律法はありません。モーセが戒めを受けるのは、それから四百三十年も後のことです(ガラテヤ人への手紙 3:17)。アブラハムの十分の一は、義務ではなく、感謝から出た自由な行いでした。だれひとり、彼に命じてはいません。恵みを受けた者は、惜しみなさでこたえるのです。
そしてメルキゼデクは、パンとぶどう酒を携えて来ました。聖餐の食卓をまっすぐ指し示す二つのものです。この祭司は取り立てに来たのではありません。仕えるために、祝福するために来たのです。恵みは要求せず、供給します。
律法のもとで ― イスラエルの十分の一
シナイ山で神がモーセの契約を立てられたとき、十分の一は制度の一部になりました。しかも律法が定めたのは、一つの十分の一ではありません。
- レビ人のための十分の一 ― 相続地を持たないレビ人に納める、産物の十分の一(民数記 18:21-24)。
- 祭のための十分の一 ― エルサレムでの年ごとの祭のために取り分ける、もう十分の一(申命記 14:22-27)。
- 貧しい者のための十分の一 ― 三年ごとに、寄留者・孤児・やもめのために集められるさらなる十分の一(申命記 14:28-29)。
合わせれば、年によって二割から二割三分あまりに達します。「十分の一とは一割のこと」という通念は、モーセの制度の全体像を映してはいないのです。
律法のもとで、十分の一は義務でした。神殿と祭司職と約束の地に結びついた、国家の税制の一部であり、礼拝であると同時に福祉でもありました。神の民が神の統治のもとに生きる国のために設けられた仕組みです。
これが大切なのは、新約がはっきりと線を引いているからです。信じる者はもはやモーセの律法の下にはいません。
ローマ人への手紙 6:14 (口語訳)
ガラテヤ人への手紙 5:18 (口語訳)
石の板は、恵みに取って代わられました。制度が変わり、祭司職が変わりました。それとともに、神の民が与える、その土台も変わったのです。
マラキ書 3 章 ― もっとも誤って引かれる箇所
十分の一の話でもっとも多く引かれるのが、マラキ書 3 章 8-10 節です。
マラキ書 3:8-10 (口語訳)
力ある言葉です。けれども、文脈を外してはなりません。マラキが語ったのは、古い契約のもとにあるイスラエルです。モーセの律法に縛られ、神殿が機能し、レビの祭司職があり、倉の制度が整っていた国です。彼らは自ら守ると約束した契約の務めを、なおざりにしていました。
この言葉をそのまま新しい契約の民に当てはめるなら、キリストが成就された、まさにその制度の下へ自分を戻すことになります。パウロはこの点を正面から扱いました。
ガラテヤ人への手紙 3:13 (口語訳)
律法ののろいは、そのすべてが、十分の一を納めなかったことへののろいも含めて、十字架の主イエスの上に落ちました。主は、あなたの負債以上を払われました。キリストがすでに負われたことで、あなたがのろわれるはずがありません。福音が運んでくるのは重荷ではなく、自由です。
では、マラキ書 3 章はもう関係がないのでしょうか。とんでもありません。原則は今も立っています。神は惜しみない方であり、ご自分に財を託す者に報いてくださいます。天の窓が開くという約束は本物です。ただ、そこへ至る道筋が変わりました。あなたは、律法を守れたかどうかで祝福とのろいが決まる制度の下にはいません。神がすべてを供給される、恵みの契約のもとに生きているのです。
イエスと十分の一
主イエスが十分の一を正面から教えられたのは、ただ一度きりです。その言葉は、思っている以上のことを明かします。
マタイによる福音書 23:23 (口語訳)
二つのことに気づきます。第一に、主が語りかけておられるのは、なお古い契約のもとにいる人々です。十字架はまだ起こっておらず、新しい契約はまだ始まっていません。その時点では律法がなお効力を持っていたからこそ、主は十分の一を認められました。
第二に、主はパリサイ人の過ちをあらわにされました。きちんと量られた十分の一と、失われた公平とあわれみと忠実。彼らは庭の香草を一割きっちり量りながら、神の心を素通りしていたのです。愛のない十分の一は、交わりのない宗教にすぎません。規則の下では実が育たない、その実こそ、彼らに欠けていたものでした。
十字架の後、使徒たちは諸教会への手紙の中で、ただの一度も十分の一を命じていません。ローマ人への手紙にも、コリント人への手紙にも。ガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ、テサロニケにも。テモテ、テトス、ピレモンにも。ヘブル人への手紙、ヤコブ、ペテロ、ヨハネ、ユダにもありません。この沈黙は重い意味を持ちます。パウロがささげることについて、あれほど多くを書いたことを思えばなおさらです。
恵みのもとで ― 新しい契約の基準
新約は惜しみなさを廃したのではありません。その動機を造り変えたのです。ささげることについてのパウロのもっとも明快な教えは、コリント人への第二の手紙 8 章から 9 章、エルサレム教会のための献金を扱った箇所にあります。
コリント人への第二の手紙 9:6-7 (口語訳)
三つの原則が浮かび上がります。
- 「自ら心で決めたとおりに」 ― 額を決めるのは本人であって、割合で指定されてはいません。
- 「しいられてでもなく」 ― 強いられて出す献げ物は、新しい契約の精神に反します。
- 「神は喜んで施す人を愛して下さる」 ― 大きさよりも、その背後にある心が問われています。
ここに定率はありません。パウロは「一割をささげなさい」と言うこともできました。けれども言いませんでした。心に決めたとおりに、自由に、進んで、喜んで、と言ったのです。恵みはあなたが良い者になるのを待ちません。恵みは、あなたを惜しみない者にする力です。
そのすぐ次の節が、理由を明かします。
コリント人への第二の手紙 9:8 (口語訳)
神が恵みを豊かに注がれるのは、あなたが富む者となるためです。かろうじて足りるのではなく、あふれるためです。豊かさは、はじめから神のご計画でした。そしてその豊かさは「すべての良いわざ」のためにあり、そこには惜しみなく与えることも含まれます。恵みに動かされた惜しみなさは、めぐる循環です。神があなたに与え、あなたは与えられたものを通して流すのです。
「喜んで施す人」のギリシア語
コリント人への第二の手紙 9 章 7 節で「喜んで」と訳された語は (ヒラロス) ἱλαρός — 「晴れやかな、喜びにあふれた」 です。重々しい義務でも、しぶしぶの従順でもありません。心が弾み、進んで差し出す、その状態を表します。口語訳が「喜んで施す人」と訳しているとおりです。
旧約のギリシア語訳である七十人訳は、箴言 22 章 8 節でこれと同じ系統の語を用いています。
箴言 22:8 (NKJV より私訳)
神が愛されるのは、このような与え手です。罰を避けるために最低限の割合を計算する人ではありません。恐れから差し出す人でもありません。内側で何かが変わってしまったから与える人です。
天にあるすべての霊の祝福が、すでに自分に与えられていると分かるとき(エペソ人への手紙 1:3)、与えることは引き出しではなく、配ることに変わります。財が減るのではありません。すでにあなたのものである供給を、流しているのです。
ヘブル人への手紙 7 章 ― 祭司が変われば
ヘブル人への手紙は、メルキゼデクをめぐって長い論証を組み立てます。それは十分の一の理解に、そのまま関わってきます。
ヘブル人への手紙 7:1-2 (口語訳)
メルキゼデクという名は (マルキ・ツェデク) מַלְכִּי־צֶדֶק — 「義の王」。そしてサレムの王という称号の (シャレム) שָׁלֵם — 「平和」。彼はキリストの型です。義の王であり、平和の王。
ヘブル人への手紙 7 章の論の運びは明快です。
- イスラエルの父アブラハムが、メルキゼデクに十分の一をささげた。
- アブラハムの子孫であるレビの祭司たちは、律法のもとで十分の一を受けていた。
- しかしメルキゼデクの祭司職はレビの祭司職にまさる。レビの先祖であるアブラハムのほうが、メルキゼデクに十分の一を納めたのであって、その逆ではないからである。
- そして主イエスは「メルキゼデクに等しい祭司」(ヘブル人への手紙 7:17)であって、レビの系統の祭司ではない。
そして結論が告げられます。
ヘブル人への手紙 7:12 (口語訳)
祭司職が変わり、律法もともに変わりました。レビの制度の全体は、それを支えていた十分の一の規定も含めて、キリストにおいて成就したのです。今あなたの大祭司は主イエスであり、その祭司職はまったく別の土台の上に立っています。律法ではなく、恵みの上に。
これはアブラハムの例が無意味になったという話ではありません。むしろ逆です。アブラハムの十分の一は律法以前のもの、義務からではなく信仰から出たものでした。それは規則と儀式ではなく、義と平和に立つ祭司職を指し示していたのです。あなたの義は勲章ではなく、贈り物です。
コイノーニア ― 新約が語る惜しみなさ
新約は、与えることの見方を造り変える一語を差し出します。(コイノーニア) κοινωνία — 「分かち合い、共にあずかること」 です。多くは「交わり」と訳されますが、その中身はもっと深く、一つの事に共に参与する結びつきを指します。
パウロはこの語を、金銭の惜しみなさを語るのに用いました。
ローマ人への手紙 15:26 (口語訳)
口語訳が「援助する」と訳しているそのことばが、コイノーニアです。この献金は税ではありませんでした。福音における共同の歩みだったのです。マケドニヤとアカヤの信徒たちは、自分たちを同じ務めの担い手と見なし、その結びつきを財をもって言い表しました。
パウロはこうも書いています。
ガラテヤ人への手紙 6:6 (口語訳)
ここで「分け合いなさい」と訳されているのは (コイノーネオー) κοινωνέω — 「共にあずかる」 です。十分の一の命令ではなく、共に担うことへの招きです。教える者を、教会を、働きを支えるとき、あなたはその実にあずかります。あなたのささげ物は支払いではなく、参与なのです。教会は建物ではなく、家族です。そして家族は、互いに分かち合うものです。
使徒行伝 2 章 42 節では、このコイノーニアが、使徒たちの教え、パンを裂くこと、祈りと並んで、初代教会の四つの柱の一つに数えられています。惜しみなさは後から付け足されたものではありません。土台に組み込まれていたのです。
十分の一とささげ物についての 10 の聖句
1. 創世記 14:20 ― アブラハムの自発的な十分の一
創世記 14:20 (口語訳)
律法が与えられる前に、アブラハムは自由にささげました。聖書で最初の十分の一は、祝福を得る条件ではなく、祝福へのこたえでした。
2. マラキ書 3:10 ― 倉の約束
マラキ書 3:10 (口語訳)
神はご自分の真実を試してみよと招かれます。天の窓が開くという約束は本物です。ただし文脈は古い契約のもとのイスラエルであり、新しい契約に生きる者にとっての道筋は、律法の順守ではなく恵みです。
3. コリント人への第二の手紙 9:6-7 ― 喜んで施す人
コリント人への第二の手紙 9:6-7 (口語訳)
新しい契約の基準は、強いられてではなく、心から与えることです。
4. コリント人への第二の手紙 9:8 ― すべての良いわざのための恵み
コリント人への第二の手紙 9:8 (口語訳)
神は有り余るほど供給されます。だからこそ、与えることはいつでも可能なのです。
5. ガラテヤ人への手紙 3:13-14 ― のろいからの贖い
ガラテヤ人への手紙 3:13-14 (口語訳)
律法を破ったのろいは、マラキ書 3 章ののろいも含めて、キリストの上に落ちました。アブラハムの祝福は、十分の一によってではなく、信仰によってあなたに届きます。神がすでに与えたものを、稼ごうとするのはやめましょう。
6. ヘブル人への手紙 7:12 ― 祭司とともに律法も変わった
ヘブル人への手紙 7:12 (口語訳)
新しい祭司職は、新しい仕組みを伴います。レビの十分の一はレビの祭司職に属するものでした。キリストの祭司職は、恵みの上に働きます。
7. ルカによる福音書 6:38 ― 返ってくる原則
ルカによる福音書 6:38 (口語訳)
主は蒔くことと刈ることの原則を教えられました。定まった割合には触れておられません。あなたが選ぶ量りが、受け取る量りを決めるのです。
8. 箴言 3:9-10 ― 財をもって主をあがめる
箴言 3:9-10 (口語訳)
原則ははっきりしています。財のことで神を第一とするなら、神があなたの倉を満たしてくださいます。あなたの山々は、新しい酒をしたたらせます。
9. ピリピ人への手紙 4:19 ― 神が満たしてくださる
ピリピ人への手紙 4:19 (口語訳)
パウロがこれを書いたのは、献金を送ってくれたピリピの人々に対してでした。彼らの惜しみなさが、一つの約束を開きます。神ご自身が、必要を満たしてくださる。いくらかではなく、いっさいをです。立ち位置が、供給に先立ちます。
10. 使徒行伝 20:35 ― 与えるほうがさいわい
使徒行伝 20:35 (口語訳)
パウロが伝え残した、主イエスご自身の言葉です。惜しみなさは重荷ではありません。よりさいわいな道なのです。
では、クリスチャンは十分の一をささげるべきでしょうか
だれもが尋ねる問いです。そして正直なこたえは、「はい」か「いいえ」だけでは足りません。
新約は十分の一を命じていますか。 いいえ。使徒たちは教会に対して、一割という規定を一度も定めていません。
十分の一をささげるのは間違いですか。 けっしてそうではありません。一割を、あるいは二割、五割をささげると決めるなら、それはあなたと神との間のことです。安全策は、管理者の務めとは違います。神は、財をもってご自分をあがめる者を重んじてくださいます。
十分の一は出発点としてよいものですか。 多くの信徒がそう感じています。アブラハムは律法の前にささげました。初代教会は徹底した惜しみなさに生きました。割合を定めておくことは、神の供給への信頼を形にする、実際的な道になり得ます。
では、恵みは何を変えるのでしょうか。 恵みは動機を変えます。律法のもとでは、ささげなければならないからささげます。恵みのもとでは、ささげたいからささげます。律法のもとでは額が定まっています。恵みのもとでは、あなたが心に決めます。律法のもとでは、のろいへの恐れが人を動かします。恵みのもとでは、父への愛が人を押し出します。律法の厳しい務めは、救い主が必要だと知らせることでした。恵みは、与えるための新しい理由をあなたに与えます。
十分の一と祝福について語るある教えの中に、こんな言葉がありました。「最初の一割は主のもの、それが十分の一です。主より多く与えることは、だれにもできません」。そこにあったのは義務ではなく、信頼でした。その教会はまた「ヨセフの原則」を実践し、収入の二割を賢い備えとして取り分けていたといいます。その余剰がよく用いられて増し加わり、何年にもわたって成長を支えました。苦しい努力が神の祝福に何かを足すことはできませんが、神が備えてくださったものを賢く管理するなら、それは必ず増えていきます。
本当の問いは「いくら出さなければならないか」ではありません。「神は私にどれほど与えてくださったか」です。受け取ったものから始めるとき、惜しみなさは自然なこたえになります。豊かさの経済こそ、神の常態です。限界があるのはあなたの側であって、神の側ではありません。
十分の一をめぐる議論は、しばしばここを取り落とします。恵みは基準を下げません。恵みは基準を上げるのです。律法は一割を求めました。恵みはあなたの心のすべてを求めます。そして心が神のものとなるとき、財布はおのずとついていきます。脅しによってではなく、喜びとともに。不安が供給をふさぐ、それこそが本当の経済問題です。恐れが閉ざすものを、信頼が開きます。
恵みは、あなたをけちにするために来たのではありません。自由にするために来たのです。そして自由にされた人こそ、この地上でもっとも惜しみなく与える人になるのです。
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