また、やってしまいました。そのとき真っ先に心をよぎったのは、失敗そのもののことではありませんでした。神のことでした。「きっと、神はわたしに失望しておられる」。

この一言は、信じる者なら誰しも、どこかの時点で胸の奥に抱えるものです。無神論者の堂々とした反論でもなく、神学者の議論でもありません。声に出さず、ひとりでしまい込んでおく恐れ——自分を救ってくださったその神が、今は自分を見て首を横に振っておられるのではないか、という恐れです。

けれども、その神のイメージが、そもそも間違っているとしたらどうでしょう。聖書が描く父が、失敗から遠ざかる父ではなく、失敗へ向かって走り寄る父だとしたら。キリストのものとされた者に対して、「失望」という語そのものが神の辞書に載っていないとしたら。

この記事では、ギリシヤ語とヘブル語の原語をたどり、12の聖句を見ながら、イエスの完成された御業が、神の失望という考えの土台そのものを取り除いたことを見ていきます。


目次

  1. なぜ「神は失望しておられる」と思ってしまうのか
  2. 「罪に定められることがない」とは、原語で何を意味するのか
  3. この問いに答える12の聖句
  4. 放蕩息子——父の心を映す一つの証拠
  5. 罪定めと聖霊の示し——その見分け方
  6. 支払われた負債のたとえ
  7. 否認のあとのペテロ——恵みの下での失敗
  8. 完成した御業が、失望の土台を取り除く
  9. 「神に失望されている」と感じたときに、どうするか

なぜ「神は失望しておられる」と思ってしまうのか

その思いには、はっきりした出どころがあります。ふいに湧いてくるのではありません。神との関係を自分の出来栄えで測る——そういう考え方の仕組みが生み出したものです。

その仕組みの下では、よい一日は神に喜ばれた証し、悪い一日は神が退かれた証し。失敗すれば神は失望し、失敗を重ねれば、神はもう自分を見限って先へ行ってしまわれた、ということになります。

この仕組みには名前があります。聖書はそれを律法と呼びます。そして律法は、もともと神との関係を生み出すために与えられたのではありません。その関係が必要だと気づかせるために与えられたのです。

使徒パウロは、これをはっきりと言い切りました。

「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」
ローマ人への手紙 3:20 (口語訳)

律法が得意とすることは一つだけです。あなたがどこで的を外したかを示すこと。診断はできても、治療はできません。律法の仕組みの中に生きているかぎり、あなたはいつまでも神に失望されているように感じ続けるでしょう。律法はいつでも、何かしら欠けを見つけ出すからです。

しかし、あなたはもう、その仕組みの下にはいません。

「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。」
ローマ人への手紙 6:14 (口語訳)


「罪に定められることがない」とは、原語で何を意味するのか

「神はわたしに失望しておられるのか」という問いへの最も直接的な答えは、たった一行の中にあります。

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」
ローマ人への手紙 8:1 (口語訳)

ここで「罪に定める」と訳されている語は、(カタクリマ) κατάκριμα — 「有罪判決と、それに伴う刑の執行」です。これは気分や感情を表す語ではありません。法廷の語です。有罪の評決のあとに続く刑罰——判決と、それがもたらす一切、すなわち罰、恥、断絶、喪失——を指します。

パウロは、キリストにあってその判決がまるごと取り消された、と言うのです。罪責感という感情だけではありません。法的な刑罰そのもの。その一切の帰結が、消えたのです。

この節の否定の語は、ギリシヤ語で (ウーデン) οὐδέν — 「何一つない」。例外をいっさい残さない強い否定で、逃げ道という逃げ道を閉ざします。口語訳が「罪に定められることがない」と言い切っているとおりです。キリスト・イエスにある者には、どんな種類の、どんな形の、いつの、どんな理由による罪定めも、ありません。

あなたに対する判決が存在しないなら、失望の土台も存在しません。完全に無罪とされた人に向かって、裁判官が失望を語ることはないのです。審理は、すでに終わっています


この問いに答える12の聖句

1. ローマ人への手紙 8:33–34 ——だれも訴えることができない

「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」
ローマ人への手紙 8:33–34 (口語訳)

神ご自身があなたを義と宣言されたのなら、だれ一人——悪魔も、人々も、あなた自身の良心さえも——訴える法的な根拠を持ちません。そして今このとき、イエスはあなたの失敗の一覧を手に父の右に座っておられるのではありません。あなたのために、そこにおられるのです。

2. ゼパニヤ書 3:17 ——神はあなたを喜ばれる

「あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新たにし、喜びの歌をもってあなたのために楽しまれる。」
ゼパニヤ書 3:17 (口語訳)

ここに描かれているのは、失望した父ではありません。あなたのことを歌う父です。「喜び楽しむ」と訳された語は (ヤーシース) יָשִׂישׂ — 「喜び躍る」。花婿が花嫁を見て湧き上がる喜びに使われる語です。神はあなたを我慢しておられるのではありません。あなたを祝っておられるのです。

3. ヘブル人への手紙 10:17 ——罪をもはや思い出さない

「わたしは、もはや、彼らの罪と不法とを思い出すことはしないであろう。」
ヘブル人への手紙 10:17 (口語訳)

思い出しもしないことで、人に失望することはできません。神が「もはや思い出さない」と言われるとき、それは「それをあなたの責めとして数えない」と決めておられるということです。夜中の二時にあなたを身もだえさせるあの罪は、神の帳簿ではすでに「完済」と記されている罪なのです。

4. 詩篇 103:8–12 ——東が西から遠いように

「主はあわれみに富み、恵みふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。主は常に責めることをせず、また、とこしえに怒りをいだかれない。主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられることはない。天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい。東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。」
詩篇 103:8–12 (口語訳)

ダビデがこれを書いたのは古い契約の下、動物のいけにえが罪を一時的に覆うだけの時代でした。まして今、イエスの血が罪を永遠に取り除いた新しい契約の下では、どれほどそうでしょうか。

5. 哀歌 3:22–23 ——朝ごとに新しく

「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。」
哀歌 3:22–23 (口語訳)

ここで「いつくしみ」と訳されている語は (ヘセド) חֶסֶד — 「契約に基づく、決してやめない愛」。「あわれみ」と訳されている語は (ラハミーム) רַחֲמִים — 「母が胎の子に注ぐような、やわらかな情愛」です。これは失望した神の感情ではありません。約束に身を委ねた父の感情であり、そのあわれみは来る日も来る日も、新しく満たし直されるのです。

6. ヨハネの第一の手紙 3:20 ——神はあなたの心よりも大きい

「なぜなら、たといわたしたちの心が責めても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。」
ヨハネの第一の手紙 3:20 (口語訳)

あなたの心はあなたを責めます。感情は「神はもうあなたを見限った」と告げるでしょう。けれども神は、あなたの心よりも大きいかたです。あなたの感情よりも多くをご存じです。支払われた代価をご存じであり、言い渡された評決をご存じです。そして神の評決は、あなたの感情を覆します。

7. ローマ人への手紙 5:8 ——まだ罪人であった時に

「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」
ローマ人への手紙 5:8 (口語訳)

神は、あなたが身ぎれいになるのを待ってから愛し始めたのではありません。最悪のときのあなたを愛されたのです。神を知りもしない罪人だったあなたを愛されたかたが、時につまずくご自分の子となった今、愛をやめられるはずがありません。

8. ローマ人への手紙 8:38–39 ——引き離せるものは何もない

「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」
ローマ人への手紙 8:38–39 (口語訳)

この一覧には「現在のもの」が入っています。今のあなたの失敗も、まさしく現在のものです。それは神の愛からあなたを引き離せません。最悪の一日も、何度も繰り返してしまうあの罪も、だれにも打ち明けられないあのことも

9. イザヤ書 54:9–10 ——神の平和の誓い

「このことはわたしにはノアの時のようだ。すなわち、わたしはノアの洪水を再び地にあふれさせないと誓ったように、わたしは再びあなたを怒らない、再びあなたを責めないと誓った。山は移り、丘は動いても、わたしの慈しみはあなたから移ることなく、わたしの平和の契約は動くことがない」と、あなたをあわれまれる主は言われる。
イザヤ書 54:9–10 (NKJV より私訳)

神は、あなたへの約束を、創造との契約と同じ高さに置かれました。あなたに向かって怒らないと誓われたのです。これは提案ではありません。誓いです。神のいつくしみが去るより先に、山のほうが崩れます。

10. ヘブル人への手紙 4:15–16 ——同情してくださる大祭司

「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」
ヘブル人への手紙 4:15–16 (口語訳)

イエスは、あなたの弱さに驚いて御座に座っておられるのではありません。あなたが受けたあらゆる試みを、ご自身も通られました。失敗のあとにあなたが近づく御座は、さばきの御座ではありません。恵みの御座です。しかも「はばかることなく」来なさいと言われています。自分を立て直してからではなく、助けが必要なそのとき、すなわち失敗したその瞬間に、です。

11. ミカ書 7:18–19 ——いつくしみを喜ばれる神

「だれか、あなたのように、不義をゆるし、その嗣業の残れる者のために、とがを見過ごす神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをいつまでも保たず、再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れられる。」
ミカ書 7:18–19 (口語訳)

預言者は、答えの与えられるべき問いを投げかけます。こんな神が、ほかにあるだろうか、と。神は怒りをいつまでも抱えません。いつくしみを喜ばれる——楽しみとされるのです。そして罪を海の深みに投げ入れられます。あとで参照するための書棚にではなく、海の底に、です。

12. ローマ人への手紙 5:9–10 ——怒りから救われる

「わたしたちは、キリストの血によって今や義とされたのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もしわたしたちが、敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。」
ローマ人への手紙 5:9–10 (口語訳)

パウロの論理には隙がありません。敵であったあなたを神が和解させてくださったのなら、子とされた今、なおさら守り抜いてくださらないはずがあるでしょうか。「なおさら」——ギリシヤ語で (ポッロー・マッロン) πολλῷ μᾶλλον — 「はるかにまさって」——という言い方は、ローマ人への手紙に五度出てきます。そのどれもが同じ方向を指しています。イエスがなさったことは、あなたが壊しうるものより、つねに大きい、と。


放蕩息子——父の心を映す一つの証拠

神が自分に失望しておられるかどうかを知りたいなら、ルカによる福音書15章を開いてください。イエスがこの物語を語られたのは、ある非難に答えるためでした。「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」(ルカによる福音書 15:2 口語訳)。

弟息子は財産の分け前を求め、家を出て、放縦な生き方ですべてを使い果たしました。行き着いた先は豚の飼葉桶のそば——ユダヤ人の男にとって、これ以上ない底です。彼は口上を用意しました。「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」(ルカによる福音書 15:18–19 口語訳)。

この口上は、失敗したあと多くの信者が神に近づくときの姿そのものです。理屈はこうです。しくじったのだから、戻る資格を自分で稼がなければならない。まず一番下から。自分を証明して。いつかまた、信頼してもらえるかもしれない。

ところが、父がしたことを見てください。

「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、あわれに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。」
ルカによる福音書 15:20 (口語訳)

「その首をだいて」と訳された語は (エピピプトー) ἐπιπίπτω — 「その上に身を投げかける、抱きつく」。使徒行伝10章44節で、赦しの知らせを信じた人々に聖霊が「くだった」と言われるときと同じ語です。要するに、愛のこもった抱擁です。父は腕を組んで待ってはいませんでした。全速力で駆け寄り、愛情ごと息子に飛びついたのです。

息子は用意した口上を切り出します。「罪を犯しました……」。けれども父は、それをさえぎりました。「雇人のひとり同様に」という部分を、最後まで言わせなかったのです。代わりに、父は三つのものを持って来させました。

  1. 最上の着物 — 父自身の衣であり、誉れと身分の回復です。
  2. 指輪 — 家の印章の指輪であり、権威の回復です。
  3. くつ — 家の中でくつをはくのは息子だけ。僕たちは素足でした。

そして父は、「神は失望しておられる」という思い込みを打ち砕く一言を口にします。

「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」
ルカによる福音書 15:24 (口語訳)

父が「むすこ」と呼んだその語は (ヒュイオス) υἱός — 「一人前の、成人した息子」です。僕ではありません。仮採用の家族でもありません。息子です。息子の失敗は、その身分を変えませんでした。父は一度も、彼が何者であるかを呼ぶことをやめなかったのです。

この物語には、説教も、謹慎期間も、勤務評定も、罰もありません。父は「半年ほど様子を見て、それから話そう」とは言いませんでした。すべてを回復させたのです。ただちに、余すところなく、しかも祝宴つきで。

それが、今このときのあなたに向けられた、父の心です。


罪定めと聖霊の示し——その見分け方

信じる者にとって最も大切な区別の一つが、罪定めと聖霊の示しの違いです。感じ方は似ています。どちらも失敗の自覚を伴います。けれども出どころは正反対であり、行き着く先も正反対です。

罪定めはこう言います。「おまえは有罪だ。資格を失った。神はおまえを見限った。もう戻る道はない」。

聖霊の示しはこう言います。「それはあなたの本当の姿ではありません。あなたはキリストにあって神の義です。真実のところへ帰りなさい」。

イエスはこのことをヨハネによる福音書16章8〜11節で説明されました。聖霊は世の人に、罪について、義について、さばきについて、明らかにされると言われたのです。しかも、それぞれがだれに向けられているかを、はっきり示しておられます。

  • 罪について — 「彼らがわたしを信じないからである」(9節)。これは未信者に向けられています。聖霊は、キリストに信頼しないという罪を未信者に示されます。
  • 義について — 「わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである」(10節)。これは信じる者に向けられています。聖霊は、あなたがキリストにあって義とされていることを思い出させてくださいます。
  • さばきについて — 「この世の君がさばかれるからである」(11節)。これはサタンを指します。彼はすでにさばかれ、敗れています。

聖霊は、信じる者に罪を突きつけるかたではありません。信じる者に義を示すかたです。失敗したとき、「あなたはキリストにあって神の義です」と語る声があるなら、それは聖霊です。失敗したとき、「おまえは偽物だ、神はうんざりしている」と語る声があるなら、それは訴える者——すでに敗れた者の声です。

罪定めはあなたを神から遠ざけ、聖霊の示しはあなたを神へ引き寄せます。その声が隠れたくさせるなら、それは罪定め。その声がイエスのもとへ走りたくさせるなら、それは聖霊の示しです。ペテロはそれを身をもって示しました。主を否んだあと、彼は海に飛び込み、イエスから離れるのではなく、イエスのもとへ向かったのです。彼は主について、あることを知っていました。「確かにわたしは自分を知っている。しかし自分を知る以上に、わたしは主を知っている。良心はわたしの罪を告げるが、信仰はわたしの救い主を告げる」。


支払われた負債のたとえ

誰かに一万ドルの借りがあり、返せないでいると想像してみてください。その人の顔を見るたびに、うしろめたさが込み上げます。避けるようになります。遠回りをします。店先で鉢合わせすることを恐れます。負債は、重しのように良心の上に居座り続けます。

そこへ誰かが来て、あなたに代わって一万ドルではなく、百万ドルを支払ったとしましょう。債権者はあなたのおかげで得をしたことになります。次に顔を合わせるとき、うしろめたさはありません。避ける必要も、恐れもありません。まっすぐ目を見て話せます。

それが、十字架でイエスがなさったことです。最低限の支払いではありません。払いすぎるほど払われました。ただ一度のいけにえの価値は、あなたが犯した罪も、これから犯す罪も、そのすべての負債を超えています。聖書は主を (ヒラスモス) ἱλασμός — 「完全に満たすもの」と呼びます。神の義があなたに対して持っていた請求のすべてを、余すところなく満たすかた。口語訳では「あがないの供え物」と訳されています。

「彼は、わたしたちの罪のためのあがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」
ヨハネの第一の手紙 2:2 (口語訳)

イエスは神の義を部分的に満たされたのではありません。完全に満たされました。未払い残高はありません。良心に罪責感を生み出す負債は、もはや一銭も残っていないのです。

負債が支払われ——いや、払いすぎるほど払われたなら、債権者に請求権はありません。請求権がないなら、失望の土台もありません。神があなたに失望しておられないのは、イエスがすでに勘定を清算されたからです。


否認のあとのペテロ——恵みの下での失敗

ペテロは三度、イエスを知らないと言いました。のろいまで口にして、主を知らないと誓ったのです。そして鶏が鳴いたとき、イエスは振り向いて彼を見つめられました。ペテロは外に出て、激しく泣きました(ルカによる福音書 22:61–62)。

「神は失望しておられる」と思う理由を持っていた者がいるとすれば、それはペテロです。最も個人的な警告を受けていました。最も大胆な誓いを立てていました。そして、最も人目にさらされた失敗を犯しました。

ところが復活のあと、ヨハネによる福音書21章で、ペテロは岸に立つイエスを見ます。そして彼は、恵みの働き方を余すところなく示す行動に出ました。

「シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとってから、海にとびこんだ。」
ヨハネによる福音書 21:7 (口語訳)

ペテロは反対方向へ泳ぎませんでした。ほかの弟子たちの陰に隠れもしませんでした。水に飛び込み、まっすぐイエスのもとへ向かったのです。なぜでしょう。ペテロは主について知っていたからです。最悪の失敗のあとでさえ、イエスは安心して近づける方だ、と。

ではイエスは何をなさったでしょう。説教をされませんでした。謝罪行脚を求めもしませんでした。朝food——いえ、朝の食事を用意し、ペテロに給仕されたのです。そして彼を回復されました。三度の否認に対して、三度。

「わたしの小羊を養いなさい……わたしの羊を飼いなさい……わたしの羊を養いなさい。」
ヨハネによる福音書 21:15–17 (口語訳)

弟子たちの中で、最も公然と失敗した者に、最も重い務めが託されました。イエスが誰よりも愛しておられる人々を世話することです。罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれました(ローマ人への手紙 5:20)。ペテロの失敗は、彼の資格を奪いませんでした。むしろほかの者には届かない深さで恵みを知る場所へ、彼を立たせたのです。


完成した御業が、失望の土台を取り除く

失望が成り立つには、満たされなかった期待が要ります。ある人があなたに何かを期待し、あなたがそれに届かなければ、失望が生まれます。けれども、信じる者はここで一つの問いに答えなければなりません。神はあなたに何を期待しておられるのか、という問いです。

古い契約の下では、神は律法への従順を期待されました。その期待に届いた者は一人もいません。新しい契約の下では、神は「遣わされた者を信じること」を期待しておられます(ヨハネによる福音書 6:29)。期待はまるごと、あなたの成し遂げからキリストの成し遂げへと移されたのです。

「律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰しられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。」
ローマ人への手紙 8:3–4 (口語訳)

神は基準を下げられませんでした。御子を通して、ご自身でそれを満たされたのです。律法の要求は「わたしたちにおいて」満たされました。わたしたちの手によってではなく、キリストを通して、わたしたちのうちに。神の期待はすでに満たされています。あなたの努力によってではなく、イエスの完成された御業によって。

だからこそイエスは十字架で「すべてが終った」と叫ばれたのです。その語は (テテレスタイ) τετέλεσται — 「完全に成し遂げられた、支払い済み」。商取引で「完済」を意味する語であり、負債が完全に消えたとき、領収書に押された言葉でした。律法のあらゆる要求。聖さのあらゆる条件。義のあらゆる請求。そのすべてが、完済です。

請求が支払われたなら、商人に失望する理由はありません。律法が満たされたなら、裁判官に判決を下す根拠はありません。そして神ご自身が「終った」と宣言されたのなら、あなたがそこに付け加えるものは、何一つ残っていないのです。


「神に失望されている」と感じたときに、どうするか

その感覚は、必ずやって来ます。どれほど教えを知っていても関係ありません。良心と肉と敵とが手を組んで、「神はもうおまえに愛想を尽かした」と告げてくるでしょう。そのときにどうするかを、五つに分けて見ておきます。

1. 声の出どころを見分ける

自問してください。この声は、わたしを神のもとへ走らせるのか、それとも神から遠ざけるのか。遠ざけるなら、それは罪定めであり、罪定めは聖霊から出たものではありません。聖霊が示されるのは、失敗ではなく義です。

2. 真実を口に出す

口を開いて言ってください。「わたしはキリストにあって神の義です」。そう感じられなくてもかまいません。それでも言うのです。聖書は信仰の歩みを「大いなる告白」と呼びます。あなたの宣言が現実をつくるのではありません。すでに真実であることに、同意するのです。

「なぜなら、人は心に信じて義とせられ、口で告白して救われるからである。」
ローマ人への手紙 10:10 (口語訳)

3. 失敗したときこそ、受け取る

ローマ人への手紙5章17節は、「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たち」は、いのちにあって支配する、と言います。この「受ける」は、ギリシヤ語で現在形・能動態です。つまり、今このときも、こちらから積極的に、受け取り続けるということ。何年も前の決心のときだけではありません。今日、です。とりわけ失敗したその瞬間に

4. 自分ではなく、十字架を見る

自分を見つめれば、絶望する理由がいくらでも見つかります。十字架を見つめれば、礼拝する理由がいくらでも見つかります。コーリー・テン・ブームの言葉が、そのつぼを突いています。「周りを見れば、心はかき乱される。内を見れば、心は沈む。キリストを見上げれば、安らぎがある」。

5. 一二〇パーセントの回復を思い出す

レビ記6章の愆祭では、とがを負った者は一二〇パーセント——元の価値に五分の一を加えて——償うことが求められました。イエスは十字架で、あなたの愆祭となってくださいました。その犠牲のゆえに、敵に奪われたどの領域も、満ちあふれるほどの回復の対象となっています。あなたの失敗は、物語の終わりではありません。失ったものを上回る回復への、始まりの一歩です。


神はあなたに失望しておられません。あなたの弱さに驚いてもおられません。あなたを愛するという決断を、考え直してもおられません。あなたが生まれるよりも前に、エルサレムの城外の十字架で、ただ一言をもって、あなたの立場の問題は決着していました。「終った」という一言です。

「神は失望しておられる」と語る声は、二千年前に幕を閉じた仕組みの言葉を借りているにすぎません。あなたを自由にする真実は、もっと単純です。あなたは裁かれる席に立ってはいません。評決はすでに出ています。そしてそれは、「無罪」です。

神は、あなたが何かを成し遂げることを求めておられるのではありません。御子がすでに成し遂げてくださったことを、あなたが信じることを求めておられます。