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二度の渡り、ひとつの死
イスラエルは二度、水の中を、かわいた地の上に渡りました。 一度目は紅海。二度目はそれから四十年後、ヨルダン川。同じ神、同じ民、同じ奇跡です。水は立ち上がり、民は干上がった川底を歩いて渡りました。 ただ一点だけ、違いがあります。そして、それは小さな違いではありません。 紅海には、箱がありませんでした。ヨルダンでは、契約の箱が先に水の中へ入って行ったのです。 「見よ、全地の主の契約の箱が、あなたがたに...
検索語: “赦し”
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イスラエルは二度、水の中を、かわいた地の上に渡りました。 一度目は紅海。二度目はそれから四十年後、ヨルダン川。同じ神、同じ民、同じ奇跡です。水は立ち上がり、民は干上がった川底を歩いて渡りました。 ただ一点だけ、違いがあります。そして、それは小さな違いではありません。 紅海には、箱がありませんでした。ヨルダンでは、契約の箱が先に水の中へ入って行ったのです。 「見よ、全地の主の契約の箱が、あなたがたに...
律法は要求します。 恵みは供給します。 子どもに要求ばかりを突きつける親を思い浮かべてみてください。「どうしてもっとちゃんとできないの。なぜ怒るの。変わりなさい。やめなさい」。これが律法の声です。欠けを言い当てはしますが、それを直す力は少しも与えてくれません。 恵みは、同じ問題にまったく別の仕方で近づきます。行いを変えるために必要な「자기」ではなく、まず新しい身分を供給するのです。「あなたはこんな...
また、やってしまいました。そのとき真っ先に心をよぎったのは、失敗そのもののことではありませんでした。神のことでした。「きっと、神はわたしに失望しておられる」。 この一言は、信じる者なら誰しも、どこかの時点で胸の奥に抱えるものです。無神論者の堂々とした反論でもなく、神学者の議論でもありません。声に出さず、ひとりでしまい込んでおく恐れ——自分を救ってくださったその神が、今は自分を見て首を横に振っておら...
旧約聖書を避けている、という方は少なくありません。裁きが語られ、のろいが並び、厳しい要求が続く。読みながら胸が重くなり、自分の失敗のゆえに神に罰せられるのではないかと、心配になってしまうのです。 けれども旧い契約は、主イエスの完成した御業というレンズを通して読まなければなりません。 「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。『木にかけられる...
人類は神の御子を捕え、木の十字架に釘づけにしました。それが、主の愛と数々のみわざに対する、私たちの返答でした。私たちは主を拒んだのです。 しかし神は、復讐をもって応じられませんでした。御子を拒んだこの世を、滅ぼし尽くすことはなさいませんでした。そうではなく、私たちの憎しみの行いを、ご自身の救いのみわざへと変えてくださったのです。 「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さ...
血には、声があります。 人類最初の殺人で、カインは弟アベルを殺しました。それは宗教が起こした殺人でした。自分の手の働き、自分の畑の実りをもって神に近づこうとした兄が、小羊の血をもって神に近づいた弟を手にかけたのです。 その後、神はこう言われました。「あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます」 創世記 4:10 (口語訳)。アベルの血は、復讐を求めて叫びました。罪を犯した者への裁きを求めて...
聖書は七十四回、ある言葉をさしはさみます。節の終わりに、たいていは括弧のなかに、ぽつりと置かれています。多くの人は脚注のように見て、そのまま通り過ぎてしまいます。けれども、もしその小さな一語が、聖書のなかで最も実践的な勧めだとしたら、どうでしょうか。 その言葉が「セラ」です。 詩篇に七十一回、ハバクク書に三回。ほかの書には一度も出てきません。預言者も説明せず、使徒も定義しません。それでいて、この語...
恵みが先に来ます。栄光はそのあとに従います。神が語られる物語は、いつもこの順序です。 放蕩息子が家に持ち帰れたものは、飢えだけでした。けれども、用意してきた詫びの言葉を言い終える前に、父は最上の着物で彼を覆い、指に指輪をはめ、足にくつをはかせたのです。 「最上の着物を出してきてこの子に着せ」ルカによる福音書 15:22 (口語訳) これが恵みです。 パウロも、同じことを語っています。 「義とした者...
友人に一万ドルの借りがあると想像してみてください。この日までに返すと約束したのに、その日は過ぎ、手もとにお金はありませんでした。 そのあと、何が起こるでしょうか。その友人の顔を見るたびに、胸がちくりと痛みます。だんだん会うのを避けるようになります。話しかけずにすむように、道の反対側へ渡ったりもします。相手を嫌っているわけではありません。ただ、良心に負債がのしかかっているのです。 これが、神に対する...
多くの信じる人が、十字架を赦しだけのことと考えます。神がわたしたちのしたことを、大目に見てくださった——と。 けれども十字架は、もっと深いところにまで届いています。 「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」コリント人への第二の手紙 5:21 (口語訳) ギリシア語の (hamartian epoiēsen) ἁμαρ...
イザヤ書53章は「霊的な」いやしだけを語っているのではないか。そう思いめぐらす信仰者がいます。あるいは、限られた種類の病だけを指しているのではないか、と考える人もいます。 イザヤはこう記しました。 「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」イザヤ書 53:4 (口語訳) ここで用いられているヘブライ語に、目を留めてみたいのです。 (ホリー) חֳלִי — 「病、疾患」……...
悔改めとは、言葉づかいの問題ではありません。心が動くことです。 ペテロが罪のゆるしを語ったとき、「さあ、悔い改めなさい」とは言いませんでした。それでも聖書は、こう記しています。 「神は異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ」使徒行伝 11:18 (口語訳) どのようにして、でしょうか。福音を聞くことによって、です。 悔改め、すなわち (メタノイア) μετάνοια — 「心の向きが変わる...
アダムが堕ちたとき、この世界にあるものが入り込みました。罪に対する、神の宣告です。それは体にも、心にも、被造物そのものにも及ぶ、こわれた有り様でした。 パウロはこう書いています。 「わたしたちがさばかれるのは、この世と共に罪に定められないために、主によって懲らしめられているのである」コリント人への第一の手紙 11:32 (NKJV より私訳) この世はすでに、罪に定められた下にあります。一人ひとり...
裁判はすでに終わりました。判決は言い渡され、裁判長は席を立ち、木槌の音も鳴りやんでいます。それなのに被告席の人は、もう一度立ち上がってこう尋ねるのです。「でも、本当に確かなのでしょうか」。 これが、自分の救いを疑っている信者の姿です。 「クリスチャンは救いを失うことがあるのか」——この問いは、まじめな信者を心の病へと追い込んできました。神を愛する人々から確信を奪い、良い知らせを、細かい但し書きのつ...
法廷と十字架は、同じことを語ります。負債は支払われた、と。違いがあるとすれば、十字架は、いつか信じるすべての人のために、その人が生まれる二千年も前に支払いを済ませたということです。 赦しは、自己啓発の棚から出てきた新しい思いつきではありません。聖書の中心にある出来事です。エデンから空の墓まで、聖書全体の流れは一つの出来事へ向かって進みます。神が人類の負債を帳消しにし、この勘定は済んだと宣言される出...
苦々しさは、伝染します。 聖書は、「苦い根」がはえ出ることのないように気をつけなさい、と警告します。その根がはえ出るとき、毒がまわるのは、怒っている本人だけではありません。「それによって多くの人が汚される」と言われているのです。 苦々しさを抱えた人の言葉に耳を傾けるとき——それが顔を合わせての会話であれ、画面越しであれ——あなたはその人が調合したものを、いっしょに飲んでいます。その毒を、体の中に取...
王族であることは、冠や肩書きの話ではありません。だれも見ていないとき、自分をどう保つか——そこに現れます。 ペテロはこう書いています。 「あなたがたは選ばれた種族、祭司の国」ペテロの第一の手紙 2:9 (口語訳) ここで「王たる」と訳されているギリシア語は (basileios) βασίλειος — 「王に属する」 です。 王族は、すぐに赦します。王族は、惜しみなく与えます。王族は、持ち物も、...
多くの信者が、心のどこかに不安を抱えたまま聖餐にあずかってきました。「わたしは、ほんとうに赦されているのだろうか」「わたしの人生には、まだのろいが残っているのではないか」「神は、まだ何かをわたしに対して数え上げておられるのではないか」 けれども主イエスは、この問いに一度きりで決着をつけてくださいました。 杯を取り上げて、主はこう言われました。 「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のため...
聖餐は儀式でも象徴でもありません。聖書はそれを、思い起こすためのものだと語ります。 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。ルカによる福音書 22:19 (口語訳) ここで用いられているのは (アナムネーシス) ἀνάμνησις — 「記念、思い起こすこと」という言葉です。...
コルネリオの家の人々に聖霊が下ったのは、「罪のゆるし」という言葉を聞いたときでした。 招きの言葉もありません。音楽もありません。長い祈りもありません。 ただ、一つの言葉だけでした。 ペテロはこう語りました。 「彼を信じる者はその名によって罪のゆるしが受けられる」使徒行伝 10:43 (口語訳) すると、ただちに—— 「それを聞いている人たち一同の上に聖霊がくだった」使徒行伝 10:44 (口語訳)...