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検索語: “義認”

7件の記事が見つかりました

恵みの法的根拠

恵みとは、神が私たちを気の毒に思ってくださることだ——そう考える人は少なくありません。神は私たちの過ちをご覧になり、ため息をつき、まあ今回は見逃してやろうと決めてくださる。そんな絵を思い描くのです。 しかし神は、完全な裁判官です。完全な裁判官が、哀れに思ったからといって罪ある者を無罪のまま帰すことはできません。あわれみが正義を飛び越えることはできないのです。もしそれが起こるなら、神の御座はその正し...

律法の下ではなく、恵みの下に

律法は、何をすべきかを告げます。恵みは、何がすでに成し遂げられたかを告げます。一方はあなたから取り立て、もう一方はあなたに供給します。そして聖書は、わたしたちが今どちらの下に生きているのかを、少しもあいまいにしていません。 ローマ人への手紙6章14節を耳にしたことのある方は多いでしょう。けれども、その一節が何を宣言しているのかに立ち止まった方は、そう多くありません。パウロは「律法と恵みのつり合いを...

恵みは、栄光へと続く

恵みが先に来ます。栄光はそのあとに従います。神が語られる物語は、いつもこの順序です。 放蕩息子が家に持ち帰れたものは、飢えだけでした。けれども、用意してきた詫びの言葉を言い終える前に、父は最上の着物で彼を覆い、指に指輪をはめ、足にくつをはかせたのです。 「最上の着物を出してきてこの子に着せ」ルカによる福音書 15:22 (口語訳) これが恵みです。 パウロも、同じことを語っています。 「義とした者...

墓の石が動く前に、宣告は下っていました

レビ記には、心に留めておきたい一つの絵があります。一羽の鳥は、らい病の人が清いと宣告されるまで、放たれることがありませんでした。 それは、主イエスのあがないのわざの影です。 キリストは死から解き放たれることができませんでした。あなたが義と宣告されるまでは。 パウロはこう書いています。 「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」ローマ人への...

よみがえられたキリストと同じ義に立つ

長く信じてきた人でも、ふと立ち止まって思うことがあります。わたしは今、神の前でどこに立っているのだろうか、と。 パウロはこう書いています。 「信じる者はことごとく、この人によって義とされるのである」使徒行伝 13:39 (口語訳) そのうえで、彼はこう問いかけます。 「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んだかた、否、よみがえったかたであって……」ローマ人への手紙 8:34...

神はあなたの敵ではありません

多くの人が、神はいまも自分を値踏みしておられると思いながら生きています。もっとよくなるのを待たれ、できばえを測られている、と。 けれども聖書は、それよりもはるかに強いことを告げます。 「わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」ローマ人への手紙 5:1 (口語訳) ここで「平和」と訳されている語は (エイレーネー) εἰρήνη — 「平和、戦いの終わった和解の状態」です。敵...

イエスは、負債以上を払われた

返しきれない借りを、だれかに負っているところを思い浮かべてみてください。その人の顔を見るたびに、負っているものの重さが胸に迫ります。 そこへ、だれかが割って入り、その全額を払ってくれる。いいえ、それどころか、余りあるほど多く払い、貸していた人が前よりも豊かになってしまう——そんな光景を思い描いてみてください。 主イエスがなさったのは、まさにそれです。 帳尻を合わせてくださったのではありません。払い...