恵みの法的根拠

恵みとは、神が私たちを気の毒に思ってくださることだ——そう考える人は少なくありません。神は私たちの過ちをご覧になり、ため息をつき、まあ今回は見逃してやろうと決めてくださる。そんな絵を思い描くのです。
しかし神は、完全な裁判官です。完全な裁判官が、哀れに思ったからといって罪ある者を無罪のまま帰すことはできません。あわれみが正義を飛び越えることはできないのです。もしそれが起こるなら、神の御座はその正しさを失ってしまいます。
堕落する前のルシファーは、油そそがれたケルビムでした。その務めは、御座と神の義を守ることでした。彼は規則を知っています。神が正義を曲げずに罪人を受け入れることはできない、と知っているのです。だから悪魔は、絶えずあなたを訴えます。あなたの記録を指さしながら。
けれども、十字架を見上げてください。
イエスは刑罰を負われました。律法が要求した死を、そのまま身に受けて死んでくださいました。そしてイエスの血が、(kapporet) כַּפֹּרֶת — 「贖罪所(あわれみの座)」 をおおったのです。口語訳では「贖罪所」と訳されていますから、出エジプト記 25:17 あたりを開いて確かめてみてください。
神があなたを義と認めるとき、神はご自身の正義を曲げてはおられません。むしろ、正義を示しておられるのです。負債は完全に支払われました。同じ代価を二度取り立てること——一度はイエスから、もう一度はあなたから——それこそが神にとって不正なのです。
訴える者には、もう訴えの根拠がありません。彼は神の前であなたを訴えることができません。イエスが父の右に座しておられるからです。悪魔にできるのは、あなた自身に向かってあなたを訴えることだけ。あなたの良心を、あなたを打つ道具に使うのです。
良心があなたを責めるとき、指さすのは自分の善い行いではありません。血潮を指さすのです。血は、その場でただちにあなたをきよめます。
旧約において、祭司は血を耳に、親指に、足の指に塗りました。そしてその直後、血の上から油を塗ったのです。油は聖霊を表します。聖霊は、血のあとに続いて来られるのです。血のきよめに信頼するとき、歩みを助ける聖霊の力が、そこに到来します。
神はあわれみであなたを天へ通すのではなく、法にかなって、あなたを義と認めてくださるのです。
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