救いは失われるのか——恵みの本当の意味

裁判はすでに終わりました。判決は言い渡され、裁判長は席を立ち、木槌の音も鳴りやんでいます。それなのに被告席の人は、もう一度立ち上がってこう尋ねるのです。「でも、本当に確かなのでしょうか」。
これが、自分の救いを疑っている信者の姿です。
「クリスチャンは救いを失うことがあるのか」——この問いは、まじめな信者を心の病へと追い込んできました。神を愛する人々から確信を奪い、良い知らせを、細かい但し書きのついた条件つきの申し出に変えてしまいました。
けれども聖書は、この問いを宙ぶらりんにしてはいません。主イエスのことばで、パウロの手紙で、聖霊のあかしで、正面から答えています。そして原語をたどり、聖書に聖書を語らせるとき、その答えは多くの人が思っているよりもはるかに確かです。
この記事では、鍵となる箇所を調べ、原語をたどり、よく持ち出される「難しい箇所」に向き合い、聖書が立つところに立ちます。すなわち、主イエス・キリストの、永遠で、完了した、覆しようのないみわざの上にです。
「救われた」とは、そもそも何を指すのか——ギリシア語 ソーゾー
「クリスチャンは救いを失うことがあるのか」に答える前に、救いとは何かをはっきりさせておく必要があります。
新約聖書で「救う」と訳されている語は (sozo) σῴζω — 「救い出す、いやす、解き放つ、全き者とする、傷なく保つ」です。これは「地獄をまぬかれること」だけを指すのではありません。ずっと広い意味を抱えたことばです。
長血をわずらう女が主イエスの衣のふさにさわったとき、主はこう言われました。
マルコによる福音書 5:34 (口語訳)
ここで「救った」と訳されているのが sozo です。ヤイロが娘をいやしてくださいと願った場面でも同じ語が使われ、パウロが「恵みにより救われた」と書いたときも同じ語です。口語訳はこの箇所を「救った」と訳していますから、日本語の聖書でも、いやしと救いが一本の糸でつながっているのが見えます。
救いは切符ではありません。霊と心とからだの全体にわたる、丸ごとの救出です。そして、パウロがエペソ人への手紙 2:8 で用いた時制も見逃せません。ギリシア語の「救われた」は (sesosmenoi) σεσῳσμένοι — 「救われて、その状態のままである」という完了形の受動分詞です。完了形とは、完了した行為とその結果が今も残っていること。受動とは、それをしたのがあなたではない、ということ。あなたは自分を救ったのではありません。すでに与えられていたものを、受け取ったのです。
もし救いがあなたの働きしだいなら、それは sozo ではなく給料です。けれども聖書は、それを賜物と呼びます。
ローマ人への手紙 6:23 (口語訳)
報酬は働いて得るもの、賜物は受け取るものです。働かなければ報酬は消えます。けれども、すでに口座に振り込まれた贈り物を「受け取らなかったこと」にはできません。まして、振り込んだのが神ご自身であるならなおさらです。
永遠の救いを教える十の聖句
1. ヨハネによる福音書 10:28–29 — だれも奪い去ることはできません
ヨハネによる福音書 10:28–29 (口語訳)
「いつまでも滅びることがなく」にあたる部分には、ギリシア語の二重否定 (ou me) οὐ μή — 「決して…ない」が使われています。これは考えうるかぎり最も強い否定で、「どんな場合にも、決してありえない」という響きです。主は「たぶん滅びないだろう」とは言われませんでした。ありえない、と言われたのです。しかも、あなたは二つの手に抱えられています。主イエスのみ手と、父のみ手です。あなたの安心はあなたの握力ではなく、主の握る手にあります。
2. ローマ人への手紙 8:38–39 — 引き離すものは何もありません
ローマ人への手紙 8:38–39 (口語訳)
パウロは存在のあらゆる領域を並べます。時間、空間、霊的な力、人生の状況。そして「確信する」は (pepeismai) πέπεισμαι — 「確信させられて、今もその確信のうちにある」という完了形の受動です。これは希望的観測ではありません。腰の据わった、動かない確信です。
3. エペソ人への手紙 1:13–14 — 御霊の証印を押されました
エペソ人への手紙 1:13–14 (口語訳)
ここには、じっくり見つめるに値するギリシア語が二つあります。それは次の章の中心になります。
4. エペソ人への手紙 2:8–9 — 恵みにより、信仰によって
エペソ人への手紙 2:8–9 (口語訳)
救いが「行いによるのではない」なら、行いのつまずきによって失われることもありません。理屈に隙間はありません。良い行いで手に入れたのではないのですから、悪い行いで手放すこともできません。救いの土台は恵み——値なしの、当然ではない、条件のない好意です。
5. ヘブル人への手紙 10:14 — 永遠に全うされました
ヘブル人への手紙 10:14 (口語訳)
一つのささげ物。全うされた。永遠に。「全うされた」は (teteleioken) τετελείωκεν — 「完成し終えた」という完了形です。完了した行為と、残り続ける結果を表します。主イエスのただ一度の犠牲が、すべての信じる者のために、永続する完全を成し遂げました。日々の歩みではなお「きよめられつつある」者であっても、神の前での法的な立場はすでに定まっているのです。空の墓が、その領収書です。
6. ピリピ人への手紙 1:6 — 始められたかたが、完成されます
ピリピ人への手紙 1:6 (口語訳)
始められたのは神、仕上げられるのも神です。「確信している」は (pepoithos) πεποιθώς — 「すでに信頼しきって、そこに立っている」という、これも完了形です。パウロは腰の据わった確信に到達していました。救いはあなたの計画ではなく神の計画であり、神はご自分の計画をやりかけのまま置いておかれません。
7. コリント人への第二の手紙 1:21–22 — 堅くささえ、証印をおし、保証を与えてくださいました
コリント人への第二の手紙 1:21–22 (口語訳)
神の三つの行為です。堅くささえ、証印をおし、保証として御霊を置いてくださる。三つとも主語は神であって、あなたではありません。あなたは動作の対象であり、担い手ではないのです。神はあなたを、最後の失敗ではなく、イエスに従って見ておられます。
8. ローマ人への手紙 8:1 — 罪に定められることがありません
ローマ人への手紙 8:1 (口語訳)
「少なめ」でもなく、「調子の悪い日だけ」でもありません。ひとつもない、ゼロです。「罪に定めること」は (katakrima) κατάκριμα — 「刑罰を言い渡す判決」。法廷はすでに裁定を下し、その判決は動きません。キリストにある者に、罪の宣告はもう残っていません。
9. ヨハネの第一の手紙 5:13 — 知るために書かれました
ヨハネの第一の手紙 5:13 (口語訳)
ヨハネが書いたのは、あなたが期待したり、推測したり、思い悩んだりするためではありません。知るためです。ギリシア語の (eidete) εἰδῆτε — 「疑いなく認め、確かに知る」であり、口語訳はこれを「悟らせる」と訳しています。神はご自分の子どもたちに、満ちあふれる確信を持たせたいのであって、自分の立場について絶えず不安を抱かせたいのではありません。神の前でのあなたの立場は、気分で上下したりしません。
10. ヨハネによる福音書 5:24 — 死から命に移っています
ヨハネによる福音書 5:24 (口語訳)
「よくよく」と訳されているのは (amen amen) ἀμὴν ἀμήν — 「まことに、まことに」という二重の宣言です。主は、信じる者は永遠の命を「受けている」と言われました。今、現に持っているのです。「さばかれることがなく」の「さばき」は (krisis) κρίσις — 「判決、さばき」で、ヘブル人への手紙十章に出てくる語と同じです。移動はすでに済んでいます。あなたは死から命に移ったのです。過去形。完了です。
聖霊の証印——あなたには破れない保証
エペソ人への手紙 1:13–14 の二つのギリシア語は、それだけで一章を割く値打ちがあります。商取引のような正確さで、この問いに決着をつけるからです。
スフラギゾー——証印
「証印をおされた」は (sphragizo) σφραγίζω — 「封印する、証印を押す」。一世紀のローマ世界で、封印には三つの働きがありました。
所有 — 封印は、その品が誰のものかを示しました。地中海を渡る積荷には所有者の印が押され、荷に手を出すことは所有者への侵害を意味しました。
保護 — 封印は中身を守りました。主イエスの墓はローマの封印で閉じられました(マタイによる福音書 27:66)。その封印を破ることは、ローマの権威に逆らうことでした。
真正 — 封印は、それが偽物でないことを保証しました。公証された署名のような役割です。
神が聖霊によってあなたに証印を押されたとき、あなたをご自分のものと定め、ご自分の権威のもとに守り、ご自分の子であると保証されました。この封印を解くには、神にまさる権威が要ります。そのような権威は、どこにも存在しません。
アラボーン——手付金
「保証」と訳されているのは (arrabon) ἀρραβών — 「手付金、内金、全額が必ず続くことを保証する最初の分割払い」。市場から借りてきた商業用語です。
現代ギリシア語でも arrabon は婚約指輪を意味します。結婚が必ず行われるという約束のしるしです。神が聖霊を与えてくださったとき、神はあなたに婚約指輪を渡されました。相続の全額はこれからです。からだのあがない、新しい天と新しい地。けれども手付金は、すでにあなたの口座に入っています。
手付金は、売り手の側の約束を保証するものです。手付金を差し出したのは神であり、取引を完了する義務を負っておられるのも神です。そして神は、ご自分の約束を不履行になさいません。
コリント人への第二の手紙 1:20 (口語訳)
あなたには証印が押され、保証が与えられています。あの血は、のろいを何ひとつ後に残しませんでした。
ヘブル人への手紙十章の三つの証人
人はヘブル人への手紙 10:26 の「故意に罪を犯しつづけるなら」だけを抜き出して引用します。けれども、この章を最初から最後まで読むなら、聖書全体の中でも最も力強い「救いの確かさ」の宣言のひとつなのです。
この章は三つの証人を立てます。父なる神の御旨、御子イエスのみわざ、聖霊のあかしです。
父なる神の御旨(10節)
ヘブル人への手紙 10:10 (口語訳)
神の御旨は、律法という古い契約を取り去り、恵みという新しい契約を立てることでした。その御旨によって、信じる者はきよめられました。ただ一度、永遠にです。毎年ではありません。一度きりで、永続します。
御子イエスのみわざ(12、14節)
ヘブル人への手紙 10:12、14 (口語訳)
主イエスは座られました。旧約の幕屋には、いすがありませんでした。祭司は立っていたのです。その務めが決して終わらなかったからです。けれども主イエスが座られたのは、そのみわざが終わったからです。ただ一つの犠牲。永遠に有効です。あなたが失敗するたびに、主が立ち上がり直すことはありません。主は座しておられ、あなたも主とともに座しています。
聖霊のあかし(15〜17節)
ヘブル人への手紙 10:15–17 (NKJV より私訳)
聖霊はこうあかしします。神はあなたの罪をもはや思い出されない、と。この「もはや…ない」も、ギリシア語では二重否定 (ou me) οὐ μή — 「決して…ない」であり、主がヨハネによる福音書 10:28 で用いられたのと同じ形です。神はあなたの罪を赦されるだけではありません。忘れてくださるのです。復活は、あなたが赦されたという神の公の宣言です。
そしてこの章は、19節で結論を引き出します。「兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ」。三つの証人がもたらすのは恐れではなく、大胆さです。妨げのない出入りです。信仰の確信に満ちて、近づくことができます。
ヘブル人への手紙 6:4–6 はどうなのか——「不可能である」の箇所
クリスチャンが救いを失いうる、と主張するために最もよく持ち出されるのがこの箇所です。
ヘブル人への手紙 6:4–6 (口語訳)
ここには、よくある誤読を解きほぐす三つの点があります。
第一に、読者が誰かということです。ヘブル人への手紙は、ヘブル人、すなわちユダヤ人に向けて書かれました。その多くは、イエスがメシヤであると頭では認めながら、救いのためにその方に全幅の信頼を置いてはいませんでした。彼らはなお神殿の犠牲に通っていたのです。信仰を告白する者ではあっても、永遠の命を所有する者ではありませんでした。1章1節は「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られた」と始まります。アブラハム、イサク、ヤコブの子孫——ユダヤ人が読者なのです。
第二に、「光を受けて」ということばです。光を受けることと、新しく生まれることは同じではありません。人は聖書の教えのもとに座り、イエスについての知識を得、みことばの良さを味わいながら、なお救われないまま去っていくことができます。パリサイ人も光を受けていました。ユダも光を受けていました。けれども照らされることは、新生の一歩手前で止まります。この人々が受けたのは真理についての知識であって、真理そのものであるお方ではありませんでした。
第三に、「不可能である」ということばです。もしこの箇所が、救いを失った新生の信者を描いているのなら、本文は彼らを悔改めに立ちかえらせるのは不可能だと言っていることになります。ところが、この箇所を引いて信者を脅かす人ほど、その説教のあとで悔改めの招きをするのです。悔い改めることができるなら、あなたはこの範疇に入っていません。ここに描かれているのは理屈の上での不可能であって、罪と格闘している信者の姿ではありません。
この箇所が警告しているのは、信仰の入口に立ち、その恵みを味わい、それでいて十分に知ったうえで神殿の制度へ引き返していった一世紀のユダヤ人です。かっとなってしまったクリスチャン、依存に苦しむクリスチャン、疑いの季節を通っているクリスチャンのことではありません。まことの信者は罪の中にとどまり続けられません——内にある神の種がそれを許さないからです。
マタイによる福音書 7:21–23 はどうなのか——「全く知らない」
マタイによる福音書 7:21–23 (口語訳)
主のことばを注意深く読んでください。主は「かつては知っていたが、今は知らない」とは言われませんでした。ギリシア語は (oudepote) οὐδέποτε — 「一度も…ない」であり、口語訳はこれを「全く知らない」と訳しています。この人々は、ただの一度も主との関係のうちにいなかったのです。宗教的な活動はありました。預言も、悪霊の追い出しも、力あるわざも。けれども、関係はありませんでした。
そして彼らが証拠として差し出したものを見てください。自分の働きです。「わたしたちは預言したではありませんか。悪霊を追い出したではありませんか。力あるわざを行ったではありませんか」。すべての弁明が自分を指しています。「けれども、あなたはわたしのために死んでくださいました」と言った者はひとりもいません。彼らの拠りどころは、主のお人柄ではなく、自分の成績でした。義は賜物であって、勝ち取る勲章ではありません。
主が描かれたのは、救い主を受け入れないまま宗教を行っていた人々です。主は彼らを一度も知らなかった——つまり、はじめから救われてはいなかったのです。
この確かさが、生き方をどう変えるか
こう反論する人がいます。「救いを失わないと言えば、人は罪を犯す免罪符にするだろう」。けれども、聖書の証言も現実の経験も、その逆を示しています。
イタリアのパレルモで働くある精神科医は、自分が診てきたクリスチャンの大半が、神が自分を完全に赦してくださったと信じきれない人たちだったと語りました。多くはヘブル人への手紙6章や10章を文脈から切り離して読み、自分は赦されない罪を犯したと思い込んでいました。「自分の救いは永遠に確かだ」と信じていたために診察室に来た人は、ひとりもいなかったのです。
赦されたことを知っている人は、罪へ走りません。赦してくださったお方のもとへ走ります。主イエスは、姦淫の場で捕えられた女にそれを示されました。先に罪の宣告をせず、そのうえで「これからはもう罪を犯さないように」と言われたのです。順序が大切です。安心が命令に先立ちました。恵みが教えに先立ちました。多く赦されたことを知る者は、多く愛します。
パウロ自身も、この反論に正面から答えています。
ローマ人への手紙 6:1–2 (口語訳)
恵みに出会った人は、もっと罪を犯したいとは思いません。恵みは聖さを生みます。外からの圧力によってではなく、内側の変化によってです。恵みは人をより聖くします。ゆるめるのではありません。自分が安全なところに置かれていると知るとき、人は恐れから演じるのをやめ、感謝から生き始めます。
ヨハネの第一の手紙 3:9 も、これを裏づけます。
ヨハネの第一の手紙 3:9 (口語訳)
ここでの「罪を犯す」は現在形であり、「罪を生き方として習慣にする」という意味です。新しく生まれた信者もつまずき、倒れ、失敗することがあります。けれども、罪の中に腰を据えて住みつくことはありません。内にある神の種がそれを許さないからです。足もとを失うことはあっても、家族を失うことはないのです。あなたが死んだのは罪責感に対してであって、力に対してではありません。
福音の最後のことば
「クリスチャンは救いを失うことがあるのか」という問いは、より深い問いを浮かび上がらせます。あなたの救いの責任を負っているのは、いったい誰なのか、ということです。
もしあなたが責任者なら、失うことはありえます。あなたは当てにならないからです。もし神が責任者なら、失うことはありません。神は真実なお方だからです。
そして聖書は、誰がその責任を負っているかをはっきり告げています。
ピリピ人への手紙 2:13 (口語訳)
証印を押されたのは神です。御霊を手付金として置かれたのも神です。ただ一つのささげ物であなたを永遠に全うされたのも、あなたの罪をもはや思い出さないと約束されたのも、全被造物のうちの何ひとつ、あなたを神の愛から引き離せないと宣言されたのも、神です。
救いが失われるものであるなら、主イエスは今も立ち続けておられたはずです。けれども主は、座られました。
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