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検索語: “罪の意識”

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律法は切り分けられません

信じた人が「あなたは律法に対して死んだ」と初めて聞くとき、きまって顔を出す妥協があります。こう言うのです。「ええ、儀式の律法には死にました。子羊も、祭りも、祭司の清めも。けれども、十戒は別でしょう」。 慎重な言い分に聞こえます。けれども、パウロが書いたのはそれではありません。 教える側は、学びのために律法をいくつかに区分することがあります。儀式律法、民事律法、道徳律法。それは教室の道具です。学ぶ人...

人に気に入られたい心の正体

サウルは人を恐れて、王座を失いました。ダビデは神に愛されていることを知っていたので、王座を保ちました。この二人の王を分けたものは、人の承認の上に築かれた人生と、神の受け入れの上に築かれた人生の違いです。 人に気に入られようとすること――それは性格の問題ではありません。霊のありようの問題であり、聖書はそこに正面から触れています。「人に取り入る者」を指すギリシア語から、世論に膝を折った王の物語まで、聖...

神はわたしに失望しているのか

また、やってしまいました。そのとき真っ先に心をよぎったのは、失敗そのもののことではありませんでした。神のことでした。「きっと、神はわたしに失望しておられる」。 この一言は、信じる者なら誰しも、どこかの時点で胸の奥に抱えるものです。無神論者の堂々とした反論でもなく、神学者の議論でもありません。声に出さず、ひとりでしまい込んでおく恐れ——自分を救ってくださったその神が、今は自分を見て首を横に振っておら...

聖書は不安について何を語るか

精神医学の教科書と福音書が、同じことを語っています。今この瞬間を生きなさい、と。違いは、福音書がそれを二千年も前に語っていたことです。 不安は新しいものではありません。SNSと二十四時間流れ続けるニュースが生んだ現代病でもありません。ダビデは詩篇にそれを書き残しました。エリヤは生涯最大の勝利の直後にそれを味わいました。パウロは日々それを背負っていました。主イエスさえ、ゲツセマネの園でその重みの下に...

すべてを変える切り替え

信じる者は誰でも、二つの霊的な法則のどちらかの下に生きています。努力によってではなく、自覚によってです。 パウロはその両方をこう語ります。 「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。」ローマ人への手紙 8:2 (口語訳) 二つの法則は、いつも同時に働いています。罪の意識が、一方のスイッチを入れます。罪に定められていないという自覚が、もう一...

罪を見るか、御子を見るか

十字架の究極の目的は、何でしょうか。 多くの人は「赦し」と答えるでしょう。あるいは「天国」と答えるかもしれません。けれどもヘブル書の著者は、霊的な成熟をはかる、大胆なものさしを差し出します。もはや罪の意識がない、というものさしです。 「儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の意識がなくなるのであるから」 ヘブル人への手紙 10:2 (口語訳) 宗教は、あなたが自分の汚れをたえず意...