律法は切り分けられません

信じた人が「あなたは律法に対して死んだ」と初めて聞くとき、きまって顔を出す妥協があります。こう言うのです。「ええ、儀式の律法には死にました。子羊も、祭りも、祭司の清めも。けれども、十戒は別でしょう」。
慎重な言い分に聞こえます。けれども、パウロが書いたのはそれではありません。
教える側は、学びのために律法をいくつかに区分することがあります。儀式律法、民事律法、道徳律法。それは教室の道具です。学ぶ人が材料を整理するには役立ちます。けれども、神が律法を数えられるやり方ではありません。
真珠の首飾りを思い浮かべてください。糸を一か所で切れば、真珠はひとつ残らず床に散ります。失うのは一粒ではありません。首飾りそのものです。ヤコブは、律法もこれと同じ仕組みだと言います。一つの戒めを破れば、すべての戒めについて責めを負うのです。ここで「落度がある」に対応する語は (エノコス) ἔνοχος — 「責めを負う、責任を問われる」。一点でつまずけば、全体について責任を問われる、ということです。
神は律法を、ひとつの全体として扱われます。部門ごとに点をつけられることはありません。
律法がひとつの全体であるなら、それに死ぬとは、その全部に死ぬということです。どの部分に死ぬかを選ばせてはくれません。
パウロは「文字」という言い方をします。この語は (グランマ) γράμμα — 「書かれた文字、書き記された規定」。口語訳もそのまま「文字」と訳しています。ここでパウロが描いているのは、祭壇でも、獣の血でも、祭りの日でもありません。書き記されたものです。
そして、決着をつける一節が続きます。文脈がすべてを決めます。すぐ次の文で、パウロは自分が念頭に置いている律法の名を挙げるのです。
「むさぼるな」と言ったのは、どの律法でしょうか。
第十の戒めです。モーセが石の板に刻まれたまま山から携え下ったものです。子羊についての定めではありません。暦についての定めでもありません。口語訳が「むさぼり」と訳している語は (エピテュミア) ἐπιθυμία — 「欲、渇望」。十ある戒めのうちパウロが選んだのは、食べ物でも祭日でもなく、人の内側を治める一つでした。
ですから、この二つの節を並べて読んでください。六節でパウロは、わたしたちは律法から解放されたと言います。七節でパウロは、どの律法のことかを示すために十戒を引きます。文脈が告げているのは、わたしたちが十戒に対して死んだ、ということです。
これは律法を少しも侮るものではありません。
律法は聖なるものです。問題は律法の側にあったのではありません。問題はわたしたちの側にありました。聖なる基準が、それを満たせない者の手に渡されれば、生まれるのは義ではなく、罪の意識です。神はそれを、律法をお与えになる前からご存じでした。律法をお与えになったのは、罪を取り除くためではなく、罪を明るみに出すためでした。
この区分けが日々の歩みで大事になるのは、ここからです。自分は祭りといけにえにだけ死んだのだと思っているなら、十の要求はそのまま自分の肩に残ります。パウロが「あなたはこれに死んだ」と言うその戒めによって、義とされようともがくことになります。そして、欲を禁じるその戒めは、パウロの内でしたことを、あなたの内でもするでしょう。肉のうちに従順を生み出すことはありません。欲を、かえって浮かび上がらせるのです。
キリストは、あなたのために律法の半分に死なれたのではありません。そのおからだは一度だけ十字架につけられ、あなたの律法に対する死は、そこで、その全体が、一度に起こったのです。
一部だけ破ることのできない律法に、一部だけ死ぬことはできません。
この記事が心に残りましたか。毎朝、こうした短いディボーションをメールでお届けします。