サウルは人を恐れて、王座を失いました。ダビデは神に愛されていることを知っていたので、王座を保ちました。この二人の王を分けたものは、人の承認の上に築かれた人生と、神の受け入れの上に築かれた人生の違いです。

人に気に入られようとすること――それは性格の問題ではありません。霊のありようの問題であり、聖書はそこに正面から触れています。「人に取り入る者」を指すギリシア語から、世論に膝を折った王の物語まで、聖書はこの心の根をただ一点に見ています。すでに受け入れられていることを知らない、そのことです。


ギリシア語が語る「人に気に入られる」

パウロはエペソ人への手紙 6:6 とコロサイ人への手紙 3:22 で、この問題をひと言で言い当てる語を使いました。(アントローパレスコス) ἀνθρωπάρεσκος です。(アントローポス) ἄνθρωπος —「人、人間」と、(アレスコー) ἀρέσκω —「喜ばせる、意に沿う」が結ばれた合成語です。

アントローパレスコスとは、神よりもまず人に合わせることが体にしみついてしまった人のことです。この語は新約に二度だけ現れます。どちらもパウロの手紙で、どちらも仕える働きの文脈です。

「人にきげんを取ろうとして、目先だけの勤めをするのではなく、キリストの僕として、心から神の御旨を行い、」
エペソ人への手紙 6:6 (口語訳)

パウロは「人の機嫌をとる者」と「キリストの僕」を向かい合わせに置きます。悪い働き手と良い働き手の対比ではありません。誰に向かって生きているか、その相手の違いです。人の機嫌をとる者は、見ている人のために演じます。キリストの僕は、落ち着いた心から働きます。その相手は、すでにその働きを受け入れてくださっているからです。

同じ語根の名詞 (アレスケイア) ἀρεσκεία は「人に気に入られたいという思い」を意味します。古典ギリシア語では否定的な響きを帯びていました。へつらい、追従、相手の聞きたい言葉なら何でも口にする心です。

道理はいたって簡単です。判決がすでに下っているなら、演じる必要はなくなります。


人に気に入られたい心をめぐる十二の聖句

1. ガラテヤ人への手紙 1:10 ――わたしは人の承認を求めているのか

「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」
ガラテヤ人への手紙 1:10 (口語訳)

パウロははっきりと線を引きます。キリストに仕えながら、同時に人の承認のために生きることはできません。「僕」と訳された語は (ドゥーロス) δοῦλος、ひとりの主人に属する者のことです。ドゥーロスが二人の主人に答えることはできません。自分の立場を自分で作り出すのではなく、受け取るのです。

2. 箴言 29:25 ――人を恐れることは、わなである

「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」
箴言 29:25 (口語訳)

「わな」と訳されたヘブライ語は (モーケーシュ) מוֹקֵשׁ —「わな、仕掛け」。鳥を捕らえるために仕掛ける猟師の罠です。人への恐れはあなたを守りません。あなたを捕らえます。この節は「人を恐れると気まずくなる」とは言いません。わなに陥ると言うのです。動けなくする仕掛けです。そのわなの反対にあるのが信頼であり、信頼は安らかさへと導きます。

3. コロサイ人への手紙 3:23 ――人にではなく、主に対して

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」
コロサイ人への手紙 3:23 (口語訳)

「心から」と訳された語は (エク・プシュケース) ἐκ ψυχῆς —「魂から」。これは「もっと頑張れ」という命令ではありません。向き合う相手を変えなさい、という促しです。主があなたの相手であるとき、働きは承認を勝ち取るための入札ではなく、安息のわざになります。誰に属しているかを知るとき、働きはあなたを縛らなくなります。

4. ヨハネによる福音書 12:42-43 ――人のほまれを好んだ

「しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。」
ヨハネによる福音書 12:42-43 (口語訳)

この役人たちはイエスを信じていました。信仰は本物でした。それでも告白しなかったのは、神の評価より人の承認を重く見たからです。「ほまれ」と訳された語は (ドクサ) δόξα —「栄光、誉れ、評判」。彼らは神の栄光を、人の世論という席と引き換えにしてしまいました。

5. 使徒行伝 5:29 ――人間に従うよりは

「ペテロと他の使徒たちとが答えて言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。」」
使徒行伝 5:29 (口語訳)

ペテロが立っていたのは議会の前、使徒たちを捕らえ、むち打った当の場所です。かつて女中ひとりの前でイエスを知らないと言ったあのペテロが、今やイスラエルの最高法廷の前で微動だにしません。何が変わったのでしょうか。ペテロは恵みを知ったのです。赦されていることを知り、判決がすでに下っていることを知っていました。

6. サムエル記上 15:24 ――サウルは民を恐れた

「サウルはサムエルに言った、「わたしは罪を犯しました。わたしは主の命令とあなたの言葉にそむきました。わたしは民を恐れて、その声に聞き従ったからです」。」
サムエル記上 15:24 (口語訳)

聖書全体の中で、これほど率直な告白はありません。サウルは主の声ではなく、民の声に聞き従ったのです(後ほど詳しく見ます)。

7. マタイによる福音書 6:1 ――人に見られるために

「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。」
マタイによる福音書 6:1 (口語訳)

主が問われたのは動機でした。「見られるために」。行いそのものが問題なのではありません。誰に向けた行いかが問題なのです。人の前での評判を築くための施しは、神の前での報いを手放してしまいます。真に良いわざの背後にあるのは、すでに受け入れられていることを知っている心です。

8. テサロニケ人への第一の手紙 2:4 ――神に認められて

「むしろ、わたしたちは神に認められて福音を委ねられた者として語るのです。人を喜ばせるためではなく、わたしたちの心を見分けられる神を喜ばせるためです。」
テサロニケ人への第一の手紙 2:4 (NKJV より私訳)

パウロが人の顔色から自由でいられたのは、意志の力によるのではありません。判決が定まっていたからです。神が彼を認めておられました。承認がすでに済んでいるなら、人前で演じる必要はおのずと消えていきます。

9. ヨハネによる福音書 5:44 ――どうして信じることができようか

「互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしない者たちよ。あなたがたは、どうして信じることができようか。」
ヨハネによる福音書 5:44 (口語訳)

主は、人に気に入られようとする心を、そのまま不信仰と結びつけられました。人からの誉れの上に自分を立てるなら、信じることはできない、と。人の承認という仕組みと、信仰という仕組みは、別の回路で動いています。一方は実績で動き、もう一方はすでに与えられたものを受け取ることで動きます。

10. ローマ人への手紙 8:31 ――神がわたしたちの味方であるなら

「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」
ローマ人への手紙 8:31 (口語訳)

この一節は、人に気に入られようとする心の土台そのものを取り除きます。宇宙を造られた方が味方であるなら、造られた者の評価がそれに立ち向かえるはずもありません。神はあなたを、最後の失敗によってではなく、イエスによって見ておられます。

11. エペソ人への手紙 1:6 ――愛する者にあって受け入れられた

「これは、その愛する御子によって賜わった恵みの栄光が、ほめたたえられるためである。」
エペソ人への手紙 1:6 (口語訳)

「受け入れる」と訳された語は (カリトオー) χαριτόω —「恵みを注ぐ、深く慈しむ」。御使ガブリエルがマリヤに挨拶したときと同じ語です(ルカによる福音書 1:28)。口語訳はこの節を「御子によって賜わった恵み」として訳しており、手元の聖書でも確かめられます。神はあなたを、しぶしぶ家族に加えられたのではありません。深く慈しんで迎え入れられたのです。あなたは思っているよりずっと神に近いところにいます。

12. コリント人への第二の手紙 5:9 ――主に喜ばれる者となる

「そういうわけで、肉体を宿としているにしても、それを離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。」
コリント人への第二の手紙 5:9 (口語訳)

パウロの願いは神に喜ばれることでした。ただしそれは、不安からではなく、安心から出た願いです。彼はすでに属していることを確信していました。神を喜ばせたいという思いは、受け入れへ向かう努力ではなく、受け入れから流れ出た愛でした。


サウルとダビデ――二人の王、二つの土台

サウルとダビデの対比は、人に気に入られようとする心を映す、旧約でも屈指の鮮やかな鏡です。

サウル――人を恐れた王

神はサウルに、アマレクびとを滅ぼし尽くすようにお命じになりました。ところがサウルは、上等の家畜を生かしておきました。サムエルが問いただすと、サウルはまず自分を弁護します。「わたしは主の命令を守りました」(サムエル記上 15:13 参照)。しかし追い詰められたとき、本音がこぼれ出ました。

「わたしは民を恐れて、その声に聞き従ったからです。」
サムエル記上 15:24 (口語訳)

サウルは背が高く、力もあり、見目も王にふさわしい人でした。けれども彼の土台は群衆の上にありました。民が家畜を欲しがれば、サウルは折れました。王座が世論に寄りかかっていたのです。そして世論ほど、足場のあやういものはありません。

治世の初めにも、同じ型が現れています。サムエル記上 13 章で、彼は祭司にのみ許された燔祭をささげました。兵が散り始めていたからです。人が離れていくことを恐れて動いたのです。サウルの生涯はまるごと、人の承認の上に自分を置くとどうなるかの記録でした。

ダビデ――愛されていることを知っていた王

ダビデという名は、ヘブライ語で (ダーウィド) דָּוִד —「愛される者」という意味です。巨人を倒す前に、戦いに勝つ前に、詩の一編を書く前に、彼の名そのものが彼の何者であるかを告げていました。愛されている者、と。

ゴリアテの前で、イスラエルの全軍が――王サウルまでもが――足をすくませていたとき、ダビデは巨人に向かって走りました。その大胆さは戦歴から来たのではありません。羊と神とだけで過ごした野原で定まった、自分という土台から来たのです。

「わたしを、ししのつめ、くまのつめから救い出された主は、また、このペリシテびとの手からも、わたしを救い出されるでしょう。」
サムエル記上 17:37 (口語訳)

ダビデは兵士たちの承認を必要としませんでした。サウルのよろいも要りませんでした。人から何も要らなかったのは、神からすべてを受け取っていたからです。

後に契約の箱の前で踊ったとき、妻ミカル――サウルの娘――は彼を心の内で蔑みました(サムエル記下 6:16)。そのときのダビデの答えに、人の顔色から自由な人の心が見えます。

「わたしは主の前で踊ったのだ。あなたの父よりも、その全家よりも、このわたしを選ばれたその主の前で。だから、わたしは主の前で楽を奏でよう。」
サムエル記下 6:21 (NKJV より私訳)

ダビデは群衆のために踊ったのではありません。主の前で踊ったのです。ミカルに責められても縮こまらず、ただひとつ意味のある相手を指し示しました。すでに自分を選んでくださった神です。

サウルとダビデを分けたのは、才能でも、腕力でも、機会でもありません。自分という存在を何の上に置いたか、その土台です。サウルは人の承認の上に置き、ダビデは神の受け入れの上に置きました。一方の王座は崩れ、もう一方は永遠に続きます。ダビデの子であるイエスが、今もそこに座しておられるからです。


根にあるもの――アイデンティティの欠乏

人に気に入られようとする心は、表面の問題ではありません。もっと深いところにある状態の症状です。すなわち、キリストにあって自分が何者かを知らない、ということです。

道筋を見てみましょう。受け入れられている実感のない人は、受け入れを勝ち取ろうと人一倍働きます。自分の値打ちを知らない人は、それを他人に決めさせます。定まった土台を持たない人は、群衆から借りてきます。けれども群衆は、毎週のように気が変わるのです。

主はこの根を、ヨハネによる福音書 5:44 で言い当てられました。

「互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしない者たちよ。あなたがたは、どうして信じることができようか。」
ヨハネによる福音書 5:44 (口語訳)

「受ける」と訳された語は (ラムバノー) λαμβάνω —「取る、つかみ取る」。彼らは人からの誉れをつかみ、お守りのように握りしめていました。それを握っているかぎり信じられない、と主は言われるのです。信仰とは、一方の手を放して、もう一方から受け取ることだからです。

同じ原理は、逆向きにも働きます。自分の行いによってではなく、キリストのなさったことのゆえに、神が自分を受け入れておられる――そう知るとき、人の受け入れを買い求める衝動は溶けて消えます。意志の力より、自分が何者かを知ることのほうが強いのです。

だからこそパウロは、ガラテヤの人々にこう書きました。

「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」
ガラテヤ人への手紙 2:20 (口語訳)

パウロは「世を愛された御子」とは言いませんでした。「わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた」と、自分のこととして語ったのです。そう言える人は――キリストの愛を、他ならぬ自分への現実として知っている人は――足を踏み入れる部屋ごとに承認を集めて回る必要がありません。

「人を助けるためには、人の意見から自由でなければなりません。人の評価に寄りかかったままでは、だれひとり助けることはできないのです。」 人の意見への依存は自由の反対であり、恵みは依存の反対にあります。


恵みの答え――愛する者にあって受け入れられている

福音の答えは「人の目を気にするのをやめなさい」ではありません。代わりのものがなければ、その助言は空回りするだけです。福音の答えはこうです。あなたはすでに、いちばん大切な方に受け入れられています。

エペソ人への手紙 1:6 はそれをはっきりと語ります。

「これは、その愛する御子によって賜わった恵みの栄光が、ほめたたえられるためである。」
エペソ人への手紙 1:6 (口語訳)

ギリシア語の (カリトオー) χαριτόω はここでアオリスト形、完了した一度の行為を表します。神はあなたを試用期間に置かれたのではありません。惜しみない恵みをすでに注がれました。済んだこと、終わったことです。

しかも「その愛する者にあって」と言われています。あなたの受け入れは、愛する御子イエス・キリストに基づいています。イエスが父に受け入れられているかぎり、あなたも父に受け入れられているのです。神の前でのあなたの立場は、感情とともに上下しません。

父の承認とはどういうものか。イエスがバプテスマの水から上がられたとき、父はこう言われました。

「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」
マタイによる福音書 3:17 (口語訳)

このときイエスは、まだ一つの奇跡も行っておられません。一度の説教もしておられません。ひとりの病人も癒しておられません。それでも父は「わたしの心にかなう」と宣言されました。承認は働きに先立ったのです。

その宣言の直後、悪魔が荒野でイエスに近づき、「もしあなたが神の子であるなら」と言いました(マタイによる福音書 4:3)。父が「愛する子」と呼ばれたところから、悪魔は「愛する」を落として「神の子」とだけ言ったのです。悪魔は知っていました。イエスが父の愛を握っているかぎり、どの誘惑も通じないことを。あなたにおいても同じです。自分が愛されている者だと知るとき、誘惑は握力を失います。

父の承認は、圧力の前でも折れない力を与えます。人を恐れて屈したサウルと、愛されていることを知って立ったダビデ――その違いです。懲らしめが実は恵みであるとき、それは罪の意識ではなく確信を生みます。

道筋は単純です。福音を聞きます。義の賜物を受け取ります。稼ぐのではなく、与えられるのです(ローマ人への手紙 5:17)。そして、神がキリストにあって自分を見ておられることに気づきます。受け入れられ、恵みを受け、愛されている者として。判決が定まっているのですから、人という観客のために演じる必要はもうありません。何ひとつ求めずに人を愛する自由が与えられるのです。

この最後の一歩が鍵です。人に取り入ることは愛に似ていますが、愛ではありません。寛大さの衣をまとった、必要なのです。 まことの愛は演じません。惜しみなく与えます。すでに受け取っているからです。


人に取り入ることと、愛することの違い

人に気に入られようとする心と、ほんとうの愛は、見た目がよく似ています。どちらも人に仕えます。どちらも相手の望みに心を配ります。けれども、出どころがまるで違います。

人に取り入る心はこう言います。「受け入れてもらうために、これをします。」
愛はこう言います。「すでに受け入れられているから、これをします。」

人に取り入る心はこう言います。「断ったら拒まれるかもしれないから、断れません。」
愛はこう言います。「わたしの値打ちはあなたの反応で決まらないから、断ることができます。」

人に取り入る心はこう言います。「あなたの期待に合わせて、信じることも調整します。」
愛はこう言います。「あなたにどう思われるかより、あなたの幸いのほうが大事だから、本当のことを言います。」

パウロはガラテヤ人への手紙 2:11-14 で、それを身をもって示しました。周囲の圧力に押されて異邦人の兄弟から身を引いたペテロを、公然といさめたのです。あれは愛の行為であって、へつらいの正反対でした。パウロはペテロの気持ちを慮って言葉を和らげはしませんでした。福音がかかっていたからです。

主イエスも同じ自由を生きられました。取税人や罪人と食卓を囲み、宗教の中枢を仰天させました。パリサイ人の評判を見て予定を組み替えることはなさいません。人の顔色から自由な人は、あらゆる見え方を管理しなくてすみます。真理そのものに働いてもらえばよいのです。


人に気に入られたい心から自由に歩むために

1. 最初に聞く声を、父の声にする

主イエスは公の働きに出る前に、父の承認を聞かれました。悪魔が攻めてくる前に、父の言葉を手にしておられました。順序ははっきりしています。父の声が先に来て、その後のすべてを落ち着かせるのです。

一日の始まりに、神があなたについて語っておられることを聞いてください。受信箱の言い分でもなく、画面の向こうの声でもなく、批判の言葉でもなく。最初に聞く声が、その日全体の調子を決めます。

2. 足りなさではなく、自分が何者かを告白する

「わたしは愛する者にあって受け入れられている」と告白するとき、あなたは自信を一から組み立てているのではありません。二千年前に十字架で据えられた土台の上に立っているのです。宣言が現実を作るのではなく、すでにある現実を認めるのです。恵みはあなたに触れるとき、たじろぎません。

3. わなが来たら、わなと見抜く

箴言 29:25 は、人への恐れをモーケーシュ、猟師のわなと呼びました。わなが効くのは、獣にそれが見えないからです。人に気に入られたい心は、しばしば「謙遜」「協調」「波風を立てない」といった言葉の陰に隠れます。それら自体は、しかるべき場所では美しい徳です。けれども愛からではなく恐れから動くとき、それはわなに変わります。

自分に問うてみてください。わたしは今、この人への愛からしているのか、それとも拒まれる恐れからしているのか。答えが、根を明るみに出します。

4. 神はすでにあなたを調べ、認めておられる

パウロは、神が自分を調べ、確かな者と認めてくださったと語りました(テサロニケ人への第一の手紙 2:4)。同じことが、信じるすべての人に言えます。神はあなたを見きわめ、キリストのうちに置き、恵みを注ぎ、良しと宣言されました。その判決は、直近の評価――人からのものであれ何であれ――で変わることはありません。うまくいかなかった一週間も、神を驚かせはしません。

5. 完成したみわざのうちに憩う

人に気に入られようとする生き方が消耗するのは、その仕事に終わりがないからです。満足させるべき人がまた現れ、管理すべき評価がまた増え、応えるべき期待がまた積み上がります。福音が差し出す土台は違います。すでに完成したみわざです。

「なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分のわざを休んだからである。」
ヘブル人への手紙 4:10 (口語訳)

あなたの唯一の戦いは、安息にとどまることです。キリストの完成したみわざに憩うとき、承認を稼がねばという強迫は――神からのものも、人からのものも――その手を離します。


福音の答え

福音は「人のことなど気にするな」とは言いません。福音は「あなたはすでに神に心をかけられている」と言います。

この真理が頭から心へ下りてくるとき、何かが動きます。演じることをやめ、与えはじめます。その場に合わせて言葉を曲げるのをやめ、真実を優しく語りはじめます。群衆の反応の上に自分を築くのをやめ、父の宣言の上に築きはじめます。

サウルは人を恐れて王座を失いました。ダビデは愛されていることを知って、王朝を築きました。

問いはいつも「人はわたしをどう思うか」ではなく、「神がわたしをどう見ておられるかを、わたしは知っているか」でした。