十字架の究極の目的は、何でしょうか。

多くの人は「赦し」と答えるでしょう。あるいは「天国」と答えるかもしれません。けれどもヘブル書の著者は、霊的な成熟をはかる、大胆なものさしを差し出します。もはや罪の意識がない、というものさしです。

「儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の意識がなくなるのであるから」 ヘブル人への手紙 10:2 (口語訳)

宗教は、あなたが自分の汚れをたえず意識していることを望みます。年ごとに、週ごとに、集会ごとに、「罪の思い出」を仕掛けていくのです。

けれども、福音は違います。

ヘブル書で「ひとたび」と訳されているギリシア語は、こうです。(ハパクス) ἅπαξ — 「ただ一度、決定的に」

借金を抱えている人が、返済がすんだかどうか、何度も口座を確かめているとしましょう。その人は「負債を意識して」生きています。支払いはもう終わっているのに、まだ終わっていないかのように暮らしているのです。

けれども、だれかがその負債を、ただ一度、完全に払い切ってくれたなら、人はもう借金のことを考えません。考えるのは、手に入れた自由のことです。

神は、あなたが自分の心をのぞき込み、自分の脈をはかり、自分の立場を案じながら歩き回ることを望んでおられません。神が望んでおられるのは、あなたがイエスを見上げることです。

人は、二つのものを同時に見つめることはできません。罪を見つめて生きるか、御子を見つめて生きるか。そのどちらかです。

「しかし実際は、これらのささげ物によって、年ごとに罪の思い出がよみがえって来るのである」 ヘブル人への手紙 10:3 (口語訳)

イエスがすでに払い終えられた負債を、もう確かめないでください。