多くの人は、シャロームを「平和」と訳します。それは「家庭」を「建物」と訳すようなものです。間違いではありません。けれども、まだ足りません。

シャロームは、ヘブライ語聖書のなかでもっとも豊かな言葉のひとつです。旧約聖書に二百五十回以上あらわれます。日々のあいさつとして交わされ、軍勢の上に宣言され、預言者たちによって約束され、神ご自身の名にまで刻まれました。御使たちがイエスの誕生を告げたとき、ただ気分の穏やかさを指すあいまいな言葉を使ったのではありません。シャロームを告げたのです——人類全体に及ぶ、土台からの全き回復を。

この記事では、シャロームという言葉を語根からたどり、それが覆う領域を一つひとつ確かめ、旧約の主要な箇所を歩き、新約で用いられるギリシア語と結び、そしてイエスがシャロームの約束のすべてをその身に体してくださったことを見ていきます。


目次

  1. ヘブライ語の言葉——ストロング番号 H7965
  2. 語根シャーラムと「完了」という思想
  3. シャロームの五つの面
  4. 旧約におけるシャロームの主要な箇所
  5. シャロームとギリシア語エイレーネー
  6. イエス——シャロームの全き体現
  7. 義の結ぶ実はシャローム
  8. 今日、シャロームを受け取るために

ヘブライ語の言葉——ストロング番号 H7965

(シャローム) שָׁלוֹם — 「平和、全き状態」。ストロング番号 H7965。ヘブライ語聖書でもっとも多く用いられる名詞のひとつです。口語訳はこの一語を、文脈に応じて「平和」「平安」「無事」「安らか」「繁栄」などと訳し分けています。

この訳語の幅そのものが、大切なことを教えてくれます。日本語の一語では、シャロームが担うものを受けとめきれないのです。ヘブライ語を話す人が「シャローム」と言うとき、聞く人が思い描いたのは静かな部屋ではありませんでした。壊れているものが何ひとつなく、欠けているものが何ひとつない暮らしです。体の健やかさ。関係の和らぎ。食卓の備え。国境の安全。人の存在のすみずみにまで行きわたる全きいのち

現代のイスラエルでも、この言葉は同じように生きています。人々が「シャローム」とあいさつを交わすとき、それは気持ちの静けさを願っているのではありません。健康も、全きことも、繁栄も、関係の和らぎも、まとめてひといきに願っているのです。


語根シャーラムと「完了」という思想

シャロームは、動詞 (シャーラム) שָׁלַם — 「完全にする、全うする、終える、回復する」(ストロング番号 H7999)から来ています。同じ語根から形容詞 (シャーレーム) שָׁלֵם — 「完全な、全き、欠けのない」(H8003)が生まれます。

そしてシャーラムは、「支払う」という意味のヘブライ語動詞でもあります。今日のイスラエルでも、店で代金を払うときには「アニ・メシャレム(わたしが払います)」と言います。シャロームと同じ語根です。

この結びつきは偶然ではありません。シャロームは、負債が清算されたところに生まれます。全きことは、支払いのあとに来ます。平安は、終わった取引のあとに続きます。レビ記のいわゆる和解のいけにえ——(シェラーミーム) שְׁלָמִים、シャロームの複数形で、口語訳では「酬恩祭」と訳される犠牲——が、平安を手に入れるためのささげ物ではなかったのは、そのためです。それは、すでに与えられた平安を祝うためのささげ物でした。負債は払われた。関係は全きものとされた。だから祝宴が始まるのです。

エルサレムという都の名——(エルシャライム) יְרוּשָׁלַיִם — 「平和の礎、全きことの都」——にも、この語根が宿っています。そして創世記十四章でアブラハムを迎えた祭司であり王であったメルキゼデクは、(シャーレーム) שָׁלֵם、すなわちサレムの王、平和の王でした。ヘブル人への手紙の著者は、メルキゼデクからイエスへと一本の線を引きます。

「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司であったが、王たちを撃破して帰るアブラハムを迎えて祝福した。アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えた。その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。」
ヘブル人への手紙 7:1-2 (NKJV より私訳)

順序に目を留めてください。まず義の王、それから平和の王です。義はいつでも平安に先立ちます。この順序は偶然ではありません。あとでもう一度戻ってきます。


シャロームの五つの面

シャロームは一枚板の言葉ではありません。旧約聖書は少なくとも五つの領域でこの語を用います。そのどれもが、おろそかにできません。

1. からだの健やかさ

旧約が体についてシャロームと言うとき、それは健全さを意味します。すべての器官、すべての働き、すべての部分があるべき姿で動いていることです。民数記六章の祝福が「平安を賜わるように」と願うとき、その平安には体の健康も含まれています。

息子を失ったシュネムの女のもとへ、エリシャが僕ゲハジを走らせた場面を見てください。託された問いはこうでした。「あなたは無事ですか。あなたの夫は無事ですか。あなたの子供は無事ですか」 列王紀下 4:26 (口語訳)。この「無事」がシャロームです。エリシャは気分を尋ねたのではありません。彼女の体の状態を、夫の健康を、子の様子を尋ねたのです

2. 関係の和らぎ

シャロームは、敵意の消えた、全きものとされた関係を表します。ヤコブとラバンが契約を結んだとき、そこに生まれたのはシャロームでした。争いの終わり、二者のあいだの決着です。サムエル記下十一章七節でダビデがヨアブと軍勢の安否を尋ねたときも、用いられているのはこの語です。

この面は、家庭でも、職場でも、地域でも生きて働きます。シャロームとは、争いが表面に出ていないというだけの状態ではありません。善意が満ち、信頼が取り戻されている状態です。まず自分の心に受け取った神の平安が、まわりのすべての関係へとあふれ出していきます

3. 物質の備えと繁栄

意外に思われるかもしれませんが、ヘブライ語聖書はシャロームを物質的な豊かさと直接に結びつけます。エレミヤ書二十九章七節は、バビロンにいる捕囚の民にこう告げます。

「わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。」
エレミヤ書 29:7 (口語訳)

町のシャロームには、その経済も、農作も、商いも、安定も含まれていました。神がシャロームを約束されるとき、それは内なる静けさだけの約束ではありません。備えが届くこと、必要が満たされること、供給が絶えないことの約束でもあります

4. 安全と守り

レビ記二十六章六節で、神はこう約束されます。

「わたしは国に平和を与えるから、あなたがたは安らかに寝ることができ、あなたがたを恐れさすものはないであろう。」
レビ記 26:6 (口語訳)

ここでのシャロームは、外からの脅威からの安全です。門に敵はなく、野に獣はいない。恐れずに身を横たえ、眠ることができる。詩篇九十一篇が描くあの安息と同じです——危険の入り込めない住まい

5. 霊の全きこと

もっとも深いところで、シャロームは神のもともとの設計にかなった人生を描きます。欠けたものがなく、壊れたものがなく、狂ったところがない。堕落の前のエデンで、アダムとエバはシャロームのうちにいました。神との、互いとの、被造物との、満ち足りた交わりです。罪がそのシャロームを砕きました。贖いの物語のすべては、それを回復するための神のご計画です。

だからこそ、シャロームは気分以上のものなのです。それは構造そのものの現実です。町にシャロームがあり、体にシャロームがあり、国にシャロームがあり、結婚にシャロームがあります。神がシャロームを回復されるとき、気分がよくなるだけではありません。壊れていたものが建て直されるのです。


旧約におけるシャロームの主要な箇所

民数記 6:24-26 ——祭司の祝福

「願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように。」
民数記 6:24-26 (口語訳)

聖書に記された最も古い祝福です。神はアロンとその子らに、この言葉をそのままイスラエルの民の上に語れと命じ、こう言われました。「彼らがこのようにして、わたしの名をイスラエルの人々に与えるならば、わたしは彼らを祝福するであろう」 民数記 6:27 (口語訳)。

この祝福の最後の言葉がシャロームです。守り、恵み、輝く御顔——祝福全体がそこへ向かって積み上がり、頂にシャロームが置かれます。神が御顔をあなたに向けられるとき、そこから出てくるのは責めではありません。全きいのちです

士師記 6:24 ——主は平安

主の使に出会ったギデオンは、自分は死ぬと恐れました。神は彼に語られます。

「安心せよ、恐れるな。あなたは死ぬことはない。」
士師記 6:23 (口語訳)

ギデオンはそこに祭壇を築き、こう名づけました。

「そこでギデオンは主のためにそこに祭壇を築いて、それを『主は平安』と名づけた。」
士師記 6:24 (NKJV より私訳)

その名は (ヤハウェ・シャローム) יְהוָה שָׁלוֹם — 「主は平安」。神が何を与えてくださるかの説明ではありません。神が何であるかの宣言です。平安は、神が外から生み出す産物ではありません。平安は神のご性質そのものであり、その方が近づかれるところに、シャロームがついて来るのです。

イザヤ書 9:6 ——平和の君

「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。」
イザヤ書 9:6 (口語訳)

ヘブライ語では (サル・シャローム) שַׂר שָׁלוֹם — 「平和の君」。気分の穏やかさの君ではありません。一時しのぎの慰めの君でもありません。全体にわたる、土台からの、余すところのない全きいのちの君です。シャロームのすべての面——健康も、和らぎも、備えも、安全も、霊の完全も——この方の統治のもとにあります。まつりごとはその肩にあるのであって、あなたの肩にあるのではありません

イザヤ書 53:5 ——われわれの平安のための懲らしめ

「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」
イザヤ書 53:5 (口語訳)

ここで「平安」と訳されているのがシャロームです。あなたのシャロームを生み出す懲らしめ——その罰が、この方の上に落ちました。あなたの全きいのちは、十字架で代価が払われたのです。健康も、関係の和らぎも、備えも、安全も、霊の完全も、すべてはイエスが担われた苦しみによって買い取られました。シャロームとシャーラムが同じ語根を分け合っているのは、そのためです。平安は、いつも支払いのあとに続きます。

詩篇 29:11 ——その民に力と平安を

「主はその民に力を与え、主は平安をもってその民を祝福されるであろう。」
詩篇 29:11 (口語訳)

大水の上に、荒野の上に、レバノンの香柏の上に響く主の声を歌いあげたあと、詩の最後の一節は神の民へと向き直ります。地を震わせる声の主が、同じ口でご自分の民をシャロームによって祝福されるのです。自然を従える力と、あなたの平安とは、ひとつにつながっています。その力と、あなたの安らぎは別々ではありません

イザヤ書 32:17 ——義の結ぶ実

「正義は平和を生じ、正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である。」
イザヤ書 32:17 (口語訳)

この一節は、原因と結果の鎖を描いています。義がシャロームを生み、シャロームが静けさと (ベタハ) בֶּטַח — 「安らかさ、信頼、確かさ」をもたらす。ベタハとは、不安をすっかり追い出してしまうほど深い信頼のことです。シャロームを求めるなら、出発点は努力ではありません。すでにキリストにあって受けている義の賜物です


シャロームとギリシア語エイレーネー

ヘブライ語聖書がギリシア語に訳されたとき(七十人訳)、訳者たちはシャロームを表すのに (エイレーネー) εἰρήνη — 「平和、平安」(ストロング番号 G1515)という語を選びました。この語はギリシア語新約聖書に九十二回あらわれ、そのほとんどの箇所で、ヘブライ語の原語と同じだけの広がりを担っています。

エイレーネーは、(エイロー) εἴρω — 「つなぐ、結び合わせる」という動詞から来ています。文字どおりの絵は、引き裂かれていたものを再びひとつに結ぶ動作です。それはシャロームを一枚の絵にしたようなものです。砕けた破片がふたたび全きものとされ、分かたれていたものが一つに戻される

だからパウロはこう書くことができました。

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、」
エペソ人への手紙 2:14 (口語訳)

ここの「平和」がエイレーネーです。イエスは平和をもたらしただけではありません。この方こそが平和なのです。分かたれていたもの——ユダヤ人と異邦人、神と人、天と地——を、この方が結び合わせました。あなたと神を隔てていた壁は、十字架で打ち壊されました。残っているのは、何ものにもさえぎられない父への道だけです

復活のあと、イエスが弟子たちの前に立って最初に語られた言葉は、こうでした。

「安かれ。」
ヨハネによる福音書 20:19 (口語訳)

ヘブライ語、あるいはアラム語でなら「シャローム」と言われたことでしょう。けれども、これは軽いあいさつではありませんでした。その手には釘の跡がありました。支払いはすんだ。負債は清算された。だからこそ、シャロームを願いとしてではなく、事実として宣言できたのです。成し遂げられたみわざが、平安を現実にしました


イエス——シャロームの全き体現

シャロームのどの面も、イエス・キリストという方のうちに成就しています。

からだの健やかさ。 イエスが行かれるところ、病は去りました。らい病人は清められ、盲人の目は開かれ、歩けない足は立ち上がりました。その働きは、体に現れたシャロームの生きた実演でした。この方があなたの病を負われたからこそ、あなたは健やかさのうちを歩めるのです

関係の和らぎ。 イエスは敵同士を和解させました。取税人や罪人と食卓を囲まれました。ユダヤ人と異邦人を隔てる壁を取り除かれました。十字架の血によって、神と人とのあいだに平和をつくられました(コロサイ人への手紙 1:20)。苦い思いが立っていた場所に、この方は食卓を据えられます

物質の備え。 イエスはパンと魚を増やされました。ペテロに網を下ろす場所を告げられました。弟子たちを何も持たせずに遣わし、それでも彼らには何ひとつ欠けませんでした(ルカによる福音書 22:35)。シャロームには供給が含まれ、その供給は状況に縛られないことを、イエスは示されました。あなたの備えは、この方にあるあなたの立場につながっています。

安全と守り。 イエスはガリラヤ湖の嵐のただ中で眠っておられました。殺気立った群衆のあいだを、そのまま通り抜けて行かれました(ルカによる福音書 4:30)。そして弟子たちに言われました。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」 ヨハネによる福音書 16:33 (口語訳)。この方の平安は、危険がないことを条件にしません。嵐のただ中で働く平安です

霊の完全。 十字架の上でイエスは (テテレスタイ) τετέλεσται — 「すべてが終った、完済された」と言われました(ヨハネによる福音書 19:30)。負債は全額支払われました。神と人を隔てるものは取り除かれました。律法の求めはことごとく満たされました。エデンで失われたシャロームが、カルバリで回復されたのです。あなたはもう、全きいのちを目指してよじ登る必要はありません。全きいのちのほうが、あなたのところへ降りて来ました

最後の晩餐の部屋で、イエスはそれをはっきりと言葉になさいました。

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」
ヨハネによる福音書 14:27 (口語訳)

「わたしの平安」と言われました。嵐の中で眠っておられたときの、ピラトの前に黙って立たれたときの、十字架から処刑人をゆるされたときの、あの同じシャロームです。それは観念ではありません。ご自分の持ち物を、あなたに譲り渡すという出来事です。


義の結ぶ実はシャローム

イザヤ書三十二章十七節は、聖書全体を貫く順序を示しています。まず義、それからシャロームです。

この順序は、メルキゼデクの称号にあらわれています。まず「義の王」、そののちに「サレムの王」、すなわち平和の王です(ヘブル人への手紙 7:2)。この並びは意図されたものです。

レビ記のささげ物にもあらわれています。キリストの義との一体を表す燔祭が、和解のいけにえ(酬恩祭)より先に置かれました。シェラーミームは燔祭の上に載せられ、平安の脂肪は義の土台の上で焼かれたのです(レビ記 3:5)。シャロームはいつも、成し遂げられたみわざの上に置かれます

パウロの手紙にもあらわれています。

「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。」
ローマ人への手紙 5:1 (口語訳)

まず義とされること、次に平和。キリストへの信仰によって義の賜物を受け取ったその瞬間に、シャロームはあなたのものとなりました。いつか手に入れる目標としてではなく、今持っている財産としてです。

そしてペテロのあいさつにもあらわれています。

「神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。」
ペテロの第二の手紙 1:2 (口語訳)

ここの「平安」がエイレーネー、シャロームに当たる語です。ペテロは、それが「豊かに加わる」と言います。あなたのシャローム——健康も、全きことも、安らかさも、備えも、守りも——は、増し加わっていくものなのです。そして増し加わる道筋は、イエスを知ることです。この方を見れば見るほど、この方から受け取るものは増えていきます

「わたしはキリストにあって神の義とされている」と告白するたびに、シャロームがついて来ます。健康が流れ、関係が繕われ、備えが現れ、恐れが去ります。それが義の結ぶ実です。あなたの出来ばえの結果ではなく、キリストにあるあなたの立場の結果です。


今日、シャロームを受け取るために

レビ記の和解のいけにえは、平安を勝ち取るためのささげ物ではありませんでした。すでに与えられた平安を味わうためのささげ物でした。同じように、シャロームも努力でこしらえるものではありません。イエスがすでに成し遂げてくださったことへの信仰によって、受け取るものです。

実際に受け取るための道を、三つ挙げます。

1. 神が宣言されることを、あなたも口にする。 祭司の祝福は、平安を求める祈りではありませんでした。平安の宣言でした。神はアロンに言われました。「この言葉をわたしの民の上に語れ。そうすればわたしは彼らを祝福する」。主について何を語るかは、決して小さなことではありません。健康の危機のただ中で、経済の重圧の中で、関係のこじれの中で、こう言ってください。「主はわたしのシャローム。わたしの全きいのち。わたしの備え」。あなたの言葉が、キリストにあってすでに真実であることへとあなたを重ねていきます

2. 聖餐にあずかる。 パンと杯は、成し遂げられたみわざのしるしです。パンは、あなたが全きものとなるために裂かれた御体を表します。杯は、あなたの罪が取り除かれるために流された血を表します。あずかるたびに、シャロームの代価がすでに払われたという現実を、あなたは身をもって確かめているのです。それは感謝の祝宴であって、罪責感の儀式ではありません

3. 成し遂げられたみわざの中に憩う。 イエスは「心を騒がせるな」と言われました。この平安の取引において、あなたに任されている役目はそれだけです。シャロームはこの方が供給されます。あなたは、心が不安と争いへ引き戻されるのを拒むことによって、それを受け取ります。努力によってではなく、信頼によって。意志の力によってではなく、与えられた立場によって。

世界中が探しているのは、シャロームが描くもの、そのものです。健康、全きいのち、安全、備え、修復された関係、そして深い内なる静けさ。あらゆる幸福の追求、あらゆる健康法の流行、あらゆる自助の技術は、ただひとりの方だけが与えられるものを、どうにか見つけようとする試みなのです。

シャロームは、あなたが旅して行き着く場所ではありません。すでにあなたのもとへ旅して来てくださった方です。