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17件の記事が見つかりました

聖書は「考えすぎ」に何と言うか

頭が止まってくれません。夜、床に入ると、思いの群れが口々に叫び出します。交わした会話を何度も巻き戻し、まだ起きてもいない災いを予行演習し、存在してもいない問題を解こうとする。そして止めようとすればするほど、頭の中の音量は上がっていきます。 聖書には、この状態を指す言葉があります。いいえ、二つあります。 ギリシャ語の (メリムナオー) μεριμνάω — 「いくつにも分けられる」。十の方向へ引き裂...

救は、いつも「今」

神は「おできになる」と信じることに、私たちはあまり苦労しません。難しいのは、「してくださる」と信じること、しかもそれを今信じることです。 けれども主イエスは、救を遠い未来に置かれたことがありません。いつも、その人の「今」の中に踏み込んでこられました。 足もとで震える女に向かって、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」マルコによる福音書 5:34 (口語訳) 木の上のザアカイに向かって、「きょ...

この約束は携挙の話ではありません

約束を読み違えた時制で受け取ると、しまい込む引き出しまで間違えてしまいます。 多くの信者が、ローマ人への手紙 8:11 でそれをしています。読んで、一瞬希望がわいて、それからその約束をまるごと未来へ押しやってしまう。「それは携挙のときの話でしょう」と。こうして、この御言葉は「いつの日か」と書かれた引き出しに眠り、火曜日の現実には指一本触れないままになります。 けれども、この節をよく見てください。...

病は罰ではなく、落ちた穴です

病に倒れたとき、多くの人はまず自分を問いつめます。「わたしは何か間違ったのだろうか」「どうしてもっと気をつけなかったのか」「神はわたしに失望しておられるのではないか」 けれども主イエスは、病をまったく別の言い方で語られました。 水腫をわずらっている人をいやされたとき、主はこう問われました。「あなたがたのうちで、自分の息子または牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない...

恵みの幾何学

私たちはしばしば、苦しみと喜び、つまずきと祝福を、同じ一本の時間軸の上に並べて眺めます。どちらも同じ重さを持つかのように。けれども聖書は、私たちの人生にもう少し違うかたちを——別の幾何学を描いています。 「悪しき日」と「さいわいな日々」。この二つには、はっきりとした違いがあります。 「それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」 エペ...

幕屋を出る日

わたしたちが死を恐れるのは、それを「終わり」と見ているからです。冷たい部屋、止まった心臓、意識の消失——思い描くのはそんな光景でしょう。けれども聖書は、まったく別の絵を見せます。わたしたちの体を、仮に張られた一つの幕屋にたとえるのです。 「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。」 コリ...

贖いが創造にまさる理由

創造は輝かしいものでした。けれども、贖いはそれにまさります。 創造には、神の力が必要でした。贖いには、神のみ心が必要でした。 創造は、世界をかたちづくりました。贖いは、その世界を救いました。 神がアダムを造られたとき、そこには美しさがありました。けれども、主イエスが人を贖われたとき、そこには勝利がありました。 聖書は、この順序をこう告げています。 「世の初めからほふられた小羊」ヨハネの黙示録 13...

魚に水を問うな

中国のことわざに、「魚に水のことを問うな」というものがあります。 なぜでしょうか。魚は水にひたりきっているために、水を語ることができないのです。ほかを知らないので、比べるものがないのです。 わたしたちとこの世との関わりも、それによく似ています。請求書を払い、子どもの試験に備え、休暇の予定を立てる——そうした地上の暮らしに閉じこめられているために、これよりも good なものがあるとは、どうしても思...

悪しき日は、ただ一日

苦しい季節の只中にいると、それが永遠に続くように思えます。痛みや不安の中では、時間はいつもより重く、ゆっくりと流れていきます。 けれども聖書は、時について、まったく別の見方を差し出します。 エペソ人への手紙で、パウロは霊の戦いについてこう語ります。 「それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。」 エペソ人への手紙 6:13 (口語訳...

探さなくてよい出口

自分で脱出路を引かなくてもよい——そう気づいたとき、肩の力がすっと抜けました。わたしに求められているのは、すでに「のがれる道」そのものであるお方に信頼することだけなのです。 パウロはこう書いています。 「試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」コリント人への第一の手紙 10:13 (口語訳) ギリシア語の原文で、この「のがれる道」には定冠詞がついています。(tēn...

失敗は失格ではありません

失敗は、人があなたを見る目を変えます。けれども、主イエスがあなたを見るまなざしは変わりません。 復活のあと、ペテロは思いがけないことをしました。漁に戻ったのです。 忠誠を誓った人でした。決して主を知らないとは言わない、と約束した人でした。そして、人々の目の前で失敗した人でした。 それなのに聖書は、ヨハネによる福音書21章を叱責からではなく、朝の食事から始めます。 「イエスが岸に立っておられた」 ヨ...

み言葉は、食べるもの

落胆には、境遇から来るものもあります。けれども多くは、内側の空しさから来ます。 エレミヤは、そのことを知っていました。人生が音を立てて崩れていくただ中で、彼はこう言いました。 「わたしはあなたの言葉を見いだして、それを食べました。あなたの言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました」 エレミヤ書 15:16 (NKJV より私訳) 彼は「学びました」とは言いませんでした。「食べました」と言っ...

うつと聖書——あなたは信仰の失格者ではありません

火曜日、エリヤは天から火を呼び下ろしました。その翌日には、木の下に座り込み、神に「もう死なせてください」と願ったのです。 これは信仰の弱さの物語ではありません。生身の体を持ち、限界を抱えた、ひとりの本物の預言者の物語です。聖書はその一部始終を書き残しました——エリヤに恥をかかせるためではなく、神の民が底を打ったとき、神が何をなさるかを見せるためです。 神は説教をなさいません。みことばを投げつけて叱...

いやしの川

預言者エゼキエルは、宮の敷居の下から水が流れ出る幻を見ました。その水はやがて川となり、何ものも生きることのできない死海へと下って行きます。ところが、その川の行く所では水がいやされ、いのちが群れをなして満ちはじめたのです。 「川の流れて行く所では、すべて動く生き物は生きる」 エゼキエル書 47:9 (NKJV より私訳) 主イエスは、この川が何であるかを明かされました。わたしを信じる者の腹から、生け...

カリスとは何か——「恵み」の意味を一変させるギリシア語

多くの人は「恵み」を、受けるに値しない者への好意、と説明します。間違いではありません。けれども、まだ足りません。ローマを訪れて噴水をひとつ眺め、これが街のすべてだと言うようなものです。 新約聖書で「恵み」と訳されている言葉は (カリス) χάρις — 「恵み、好意、賜物」です。新約に百五十六回、百四十七の節に現れます。パウロが用い、ヨハネは福音書の序文をこの語を軸に組み立て、ルカはイエスの口から...

救いは失われるのか——恵みの本当の意味

裁判はすでに終わりました。判決は言い渡され、裁判長は席を立ち、木槌の音も鳴りやんでいます。それなのに被告席の人は、もう一度立ち上がってこう尋ねるのです。「でも、本当に確かなのでしょうか」。 これが、自分の救いを疑っている信者の姿です。 「クリスチャンは救いを失うことがあるのか」——この問いは、まじめな信者を心の病へと追い込んできました。神を愛する人々から確信を奪い、良い知らせを、細かい但し書きのつ...

その嵐は、あなたの物語ではありません

世界の出来事や政治、日々流れてくる見出しを眺めていると、何もかもが崩れていくように思えることがあります。 けれども、カイロス——(カイロス) καιρός — 「神が定めた時」、すなわち神が備えられた恵みの時——は、この世に約束されたものではありませんでした。それは神の民に約束されたものです。 主イエスは言われました。 「わたしの国はこの世のものではない。」ヨハネによる福音書 18:36 (口語訳...