検索結果

検索語: エレミヤ

12件の記事が見つかりました

孤独に、聖書はどう答えるか

人でいっぱいの部屋にいながら、ひとりだと感じることがあります。人の行き交うオフィス、席の埋まった礼拝堂、家族が囲む食卓。それでも、隣の席だけがぽっかり空いているように思えるのです。孤独は、まわりに何人いるかで決まるものではありません。いま自分が立っている場所と、自分が本当に知られていると感じられる場所との、その隔たりのことなのです。 聖書はこの主題を避けません。詩篇にも、預言者の書にも、主イエスの...

喜びが湧くまで食べる

多くの人は、エレミヤのこの一文を前半だけ引いて、そこで止まってしまいます。 「わたしはあなたの言葉を見いだして、それを食べました。あなたの言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしはあなたの名をもってとなえられている者です」 エレミヤ書 15:16 (口語訳) この節には、二つの動きがあります。まず、彼は食べます。そのあとで、何かが立ち上がってくるのです。 エレミヤ...

荒野の低木と、水辺の木

皮肉屋は、美しい部屋に通されると、まず埃を見つけます。 エレミヤ書は、二種類の人を並べて描きます。のろわれた人は、荒野に立つ乾いた低木のようだ、と。 「彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地におる。」 エレミヤ書 17:6 (口語訳) この人の悲劇がどこにあるか、心に留めてください。良いものは、ちゃんと届いているのです。ただ、それ...

み言葉は、まず食べる

エレミヤは重圧の中を生きた人でした。国は崩れていき、友は背を向けました。その只中で彼は、自分を立たせ続けた唯一のものを語っています。 「あなたのみ言葉が見いだされたとき、わたしはそれを食べました。あなたのみ言葉は、わたしにとって心の喜び、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしはあなたの名をもって呼ばれている者です。」 エレミヤ書 15:16 (NKJV より私訳) エレミヤは「あなたのみ言...

怒りの根にある飢え

お腹がすくと、人は不機嫌になります。それは誰もが知っている体の道理です。ところが、たましいの飢えとなると、私たちはなかなか気づきません。慢性的な怒り、気分の落ち込み、漠然とした不安に苦しむ人は多いのですが、その原因が、霊を飢えさせたままにしていることにある場合は少なくありません。 その飢えを、娯楽や SNS や食べもので満たそうとします。けれども、どれも効きません。心は空いたままです。 エレミヤは...

あなたの価値を決めたのは、十字架です

肩書きは、一度の面談で変わります。関係は、一度の会話で終わります。積み上げた読者も、アルゴリズムが一度変われば消えてしまいます。自分の値打ちがそのどれかに乗っているなら、足もとの土台は動き続けていることになります。 聖書は、人の価値という問いを宙ぶらりんにしません。いちばん初めに——創世記1章で答え、そしてもう一度、十字架で答えます。あなたが何かを成し遂げるより先に、神はあなたの値打ちを宣言され、...

シャローム——「平和」では足りない

多くの人は、シャロームを「平和」と訳します。それは「家庭」を「建物」と訳すようなものです。間違いではありません。けれども、まだ足りません。 シャロームは、ヘブライ語聖書のなかでもっとも豊かな言葉のひとつです。旧約聖書に二百五十回以上あらわれます。日々のあいさつとして交わされ、軍勢の上に宣言され、預言者たちによって約束され、神ご自身の名にまで刻まれました。御使たちがイエスの誕生を告げたとき、ただ気分...

み言葉は、食べるもの

落胆には、境遇から来るものもあります。けれども多くは、内側の空しさから来ます。 エレミヤは、そのことを知っていました。人生が音を立てて崩れていくただ中で、彼はこう言いました。 「わたしはあなたの言葉を見いだして、それを食べました。あなたの言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました」 エレミヤ書 15:16 (NKJV より私訳) 彼は「学びました」とは言いませんでした。「食べました」と言っ...

うつと聖書——あなたは信仰の失格者ではありません

火曜日、エリヤは天から火を呼び下ろしました。その翌日には、木の下に座り込み、神に「もう死なせてください」と願ったのです。 これは信仰の弱さの物語ではありません。生身の体を持ち、限界を抱えた、ひとりの本物の預言者の物語です。聖書はその一部始終を書き残しました——エリヤに恥をかかせるためではなく、神の民が底を打ったとき、神が何をなさるかを見せるためです。 神は説教をなさいません。みことばを投げつけて叱...

もう力まなくていい――聖書が語る安息

神はすべてのわざを終え、造られたものをことごとく見渡し、それから思いがけないことをなさいました。休まれたのです。疲れたからではありません。すべてが完成したからです。 このひとつの出来事――第七日の安息――が、聖書に記されたあらゆる平安の約束、供給の約束、守りの約束の土台になりました。それなのに、多くの信仰者は今も、安息を「余裕のある人にだけ許された贅沢」のように扱っています。 聖書は安息を付け足し...

聖書が語る赦し ― 恵みが与える自由

法廷と十字架は、同じことを語ります。負債は支払われた、と。違いがあるとすれば、十字架は、いつか信じるすべての人のために、その人が生まれる二千年も前に支払いを済ませたということです。 赦しは、自己啓発の棚から出てきた新しい思いつきではありません。聖書の中心にある出来事です。エデンから空の墓まで、聖書全体の流れは一つの出来事へ向かって進みます。神が人類の負債を帳消しにし、この勘定は済んだと宣言される出...

ヘセド ― 追いかけてやまない神の愛

ヘブライ語聖書には、日本語のどの一語にも収まりきらない言葉があります。「あわれみ」「いつくしみ」「変わらない愛」「誠実」「真実」。訳者たちはさまざまに訳し分けてきました。どの訳語も、その一面はとらえています。けれども、すべてをとらえた訳語はひとつもありません。 その言葉が (ヘセド) חֶסֶד — 「契約に根ざした、絶えることのない愛」です。 旧約聖書に二百五十一回現れます。詩篇を満たし、ルツの...