法廷と十字架は、同じことを語ります。負債は支払われた、と。違いがあるとすれば、十字架は、いつか信じるすべての人のために、その人が生まれる二千年も前に支払いを済ませたということです。

赦しは、自己啓発の棚から出てきた新しい思いつきではありません。聖書の中心にある出来事です。エデンから空の墓まで、聖書全体の流れは一つの出来事へ向かって進みます。神が人類の負債を帳消しにし、この勘定は済んだと宣言される出来事です。見逃してくださったからではありません。ご自身で支払われたからです。

ただ、聖書の赦しには二つの面があります。神があなたを赦してくださること。そして、その同じ赦しが、あなたが人を赦す力になること。どちらも同じ燃料で動いています。恵みです。

この記事では、赦しについての主要な聖句を集め、ギリシア語とヘブライ語の原語を確かめ、恵みを中心に据えた赦しが現実の生活でどのような姿をとるのかを見ていきます。


聖書の赦しを解く三つのギリシア語

新約聖書は、赦しを表すのに三つの異なるギリシア語を用います。そのどれもが、十字架で成し遂げられたことを別の角度から照らしてくれます。

1. アフィエーミ ― 解き放つ、送り去る

福音書で「ゆるす」と訳される最も一般的な語は (アフィエーミ) ἀφίημι —「解き放つ、手放す、送り去る」です。イエスが十字架の上で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」ルカによる福音書 23:34 (口語訳) と言われたとき、用いられたのがこの語でした。父に、彼らを解き放ってくださいと願われたのです。負債を彼らから、まるごと遠くへ送り去ってください、と。

同じ語が、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」マタイによる福音書 6:12 (口語訳) にも現れます。思い描かれているのは、契約書を破り捨てる債権者の姿です。義務は確かにありました。記録も本物でした。それでも債権者のほうが、手放すことを選んだのです。神があなたの記録を扱われたのも、そのようにです

2. カリゾマイ ― 恵みによって帳消しにする

二つめは (カリゾマイ) χαρίζομαι —「恵みをもって、無償で負債を帳消しにする」。語根は (カリス) χάρις —「恵み」と同じです。この語は、借りた側に何ひとつ求めません。主導権はすべて、帳消しにする側にあります。

イエスはルカによる福音書 7章42節、二人の負債者のたとえでこの語を使われました。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。どちらも返す力がありません。金貸しは、条件をつけずに二人とも赦してやりました。そのギリシア語がカリゾマイです。

パウロも同じ語を用います。「わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった」コロサイ人への手紙 2:13 (口語訳)。この「ゆるす」がカリゾマイです。神は条件交渉をなさいませんでした。頭金を入れるようにとも言われませんでした。恵みによって、勘定のすべてを帳消しにされたのです

3. ヒラスモス ― あがないの供え物

三つめは (ヒラスモス) ἱλασμός —「なだめの供え物、義の要求が満たされること」。口語訳では「あがないの供え物」と訳されています。

「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりでなく、全世界の罪のためである。」
ヨハネの第一の手紙 2:2 (口語訳)

ヒラスモスは、(ヒラステーリオン) ἱλαστήριον —「贖罪所」と同じ語根から来ています。贖罪所とは、契約の箱の上にある覆いのことです。年に一度、大祭司がその上に血を注ぐとき、神の義は満たされました。血が、神の聖と人の失敗との間に立ったのです。イエスこそ、その贖罪所です。その血は罪を覆うだけではありません。永遠に取り除くのです

この三つの語を合わせると、一枚の絵が完成します。神はあなたを解き放ち(アフィエーミ)、恵みによって負債を帳消しにし(カリゾマイ)、しかもそのすべてを、義にかなった法的な土台の上で行われました(ヒラスモス)。聖書の赦しは、甘いのではありません。徹底しているのです。


神があなたを赦された ― 十の聖句

1. エペソ人への手紙 1:7 ― その血によるあがない

「わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。」
エペソ人への手紙 1:7 (口語訳)

ここで「あがない」と訳された語は (アポリュトローシス) ἀπολύτρωσις —「代価を払って買い戻し、自由にする」。奴隷市場で使われたことばです。あなたの赦しには、はっきりした代価が支払われました。イエスの血です。そして赦しの尺度は、あなたの必要ではありません。「神の豊かな恵み」です。神の供給は、いつも要求を上回ります

2. コロサイ人への手紙 1:13–14 ― やみの力からの移住

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。わたしたちは、この御子によって、あがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。」
コロサイ人への手紙 1:13–14 (口語訳)

ここでの赦しは、記録の書き換えではありません。移住です。あなたは一つの領域から別の領域へ移されました。やみの支配下から、御子の国へ。赦された人は、きれいな記録を持っているだけではないのです。その人はもう、まったく新しい国に属しています

3. 詩篇 103:12 ― 東が西から遠いように

「東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。」
詩篇 103:12 (口語訳)

南北には端があります。北極と南極です。けれども東と西は、どこまで行っても交わりません。ダビデは、無限に遠ざかる方角を選びました。神はあなたの罪を、遠い棚に移し替えられたのではありません。終わりのない線に沿って、取り除かれたのです。それこそ、神があなたに知ってほしい第一のめぐみです

4. イザヤ書 43:25 ― わたし自身のために

「わたしこそ、わたし自身のために、あなたのとがを消す者である。わたしはあなたの罪を心にとめない。」
イザヤ書 43:25 (口語訳)

この一節には、見落とされやすい細部があります。神はあなたのためだけに赦されるのではありません。「わたし自身のために」赦されるのです。神ご自身のご性質 ― その義、その愛、その契約への真実 ― が、神を赦しへと駆り立てます。それが神という方なのです。そして「あなたの罪を心にとめない」とは、記憶を失われたという意味ではありません。義なる裁判官として、その罪をもう二度とあなたに負わせないと決めておられる、ということです。

5. ヨハネの第一の手紙 1:9 ― 真実で正しいかた

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」
ヨハネの第一の手紙 1:9 (口語訳)

ヨハネが選んだのは二つの語です。「真実」と「正しい」。「あわれみ深くて大目に見てくださる」とは書きませんでした。契約に真実であり、その性質において義である方だ、と言ったのです。父に罪を告白するとき、あなたは赦しを買っているのではありません。すでに代価を払ってくださった父の前で、正直でいる赦された子どもなのです。告白は支払いではなく、会話です

6. ヘブル人への手紙 10:17 ― もはや思い出さない

「また、『もはや、彼らの罪と不法とを、思い出すことはしない』とも言われる。」
ヘブル人への手紙 10:17 (口語訳)

ここで「もはや…ない」と訳された部分は (ウー・メー) οὐ μή —「決して…ない」。否定を重ねて強める言い方で、ギリシア語学者はこれを最も強い否定形と呼びます。神は「忘れるよう努力しよう」とは言われません。「どんな事情があっても、これらの罪を二度と心にとめることはない」と言い切られるのです。これはエレミヤ書 31章34節の新しい契約の約束であり、ヘブル人への手紙は、それが今や完全に効力を持っていることを示すために引用しています。神の前に出るとき、神はあなたの書類を読み返してはおられません

7. コリント人への第二の手紙 5:19 ― 帳簿に載らない

「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任を彼らに負わせることをしないで、和解の福音をわたしたちにゆだねられたのである。」
コリント人への第二の手紙 5:19 (口語訳)

「責任を負わせる」と訳された語は (ロギゾマイ) λογίζομαι —「勘定に入れる、計算する、認める」。簿記の用語です。神はあなたの罪過を、あなたの口座につけられません。帳簿はまっさらです。そして神があなたにゆだねられた務めは、世を罪に定めることではなく、和解のことばを告げることです。

8. マタイによる福音書 18:21–22 ― 七たびを七十倍

「そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか』。イエスは彼に言われた、『わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい』。」
マタイによる福音書 18:21–22 (口語訳)

ペテロは、七回でも大盤振る舞いだと思っていました。当時のラビの基準は三回です。イエスは数を引き上げられたのではありません。上限という考えそのものを壊されたのです。七たびを七十倍とは、四百九十回という計算ではなく、信じる者にとって赦しに天井はない、という宣言です。なぜでしょうか。あなたが受けた赦しに、天井がないからです。受け取っていないものを、人に与えることはできません

9. ルカによる福音書 23:34 ― まだ罪の只中にいるうちに

「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』。」
ルカによる福音書 23:34 (口語訳)

イエスがこのことばを語られたのは、釘が主を木に留めていたときでした。兵士たちは赦しを求めていません。群衆も悔い改めていません。イエスは、彼らの罪がもっとも極まったその場で赦されました。身を整えた後ではなく。これが恵みの本質です。恵みは、あなたの最善の後ではなく、最悪のただ中に届きます

10. ローマ人への手紙 4:7–8 ― さいわいな人

「『その不法をゆるされ、その罪をおおわれた人たちは、さいわいである。主が罪を認めない人は、さいわいである』。」
ローマ人への手紙 4:7–8 (口語訳)

パウロは詩篇 32篇のダビデを引用しています。「さいわい」にあたる語は (マカリオス) μακάριος —「この上なく幸いな、恵まれた」。聖書によれば、地上でいちばん幸いな人とは、一度も罪を犯さなかった人ではありません。自分の罪がもう二度と問われないと知っている人です。その揺るがない確信が、生き方そのものを変えていきます


贖罪所 ― 赦しと義が出会う場所

旧約聖書で贖罪所 ― (カポーレト) כַּפֹּרֶת —「覆い、贖いの座」― は、契約の箱の上に置かれていました。箱の中には、人の反逆を映す三つの品が納められていました。砕かれた律法の板、マナの入ったつぼ(退けられた養い)、芽を出したアロンのつえ(退けられた指導)。どれもがイスラエルを訴える証拠でした。

ところが神は言われました。「ふたをしなさい」と。贖罪所は、その証拠を覆ったのです。そして年に一度、大祭司はそのふたの上に血を注ぎました。神のためにふたの上へ一度、民のためにその前へ七度。血が、聖なる神と罪ある民との間に立ったのです。

ヘブライ語のカポーレトは、文字ごとに分けると、その意味をさらに照らし出します。カフ(〜のように)、ペー・レーシュ(パル ― 犠牲の雄牛)、タウ(十字のしるし)。ことばそのものが前方を指しています。「十字架の上の犠牲の雄牛のように」と。

ローマ人への手紙 3章25節で、パウロはそのつながりを言い当てます。

「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。」
ローマ人への手紙 3:25 (口語訳)

ここで「あがないの供え物」と訳された語がヒラステーリオンです。七十人訳聖書が出エジプト記 25章で贖罪所を指すのに用いたのと、まったく同じギリシア語です。イエスは、いけにえであるだけではありません。贖罪所そのものです

そして、すべてを結び合わせる細部があります。復活の後、マグダラのマリヤが空の墓をのぞくと、二人の御使いが見えました。イエスのからだが置かれていた場所の、頭の方に一人、足の方に一人(ヨハネによる福音書 20:12)。両端に二つの姿、そしてその間には、からだのあった場所。それは生きた贖罪所の姿です。けれども今度は、罪を覆う血はありませんでした。からだはそこになく、罪もそこにありませんでした。墓そのものが、領収書だったのです


赦しは感傷ではなく、法廷の宣告

この区別は、多くの人が思う以上に大切です。

赦しとは、神が優しすぎて根に持てないことだ ― そう思い描く人は少なくありません。けれども聖書はそう教えていません。もし神が罪をじゅうたんの下に掃き込まれただけなら、その神は義ではなくなります。支払いのないまま犯罪者を放免する裁判官は、あわれみ深いのではなく、腐敗しているのです。

ローマ人への手紙 3章26節は、神が十字架をこう定められたと語ります。今の時に神の義を示すため、すなわち神みずからが義となり、さらにイエスを信じる者を義とされるためであった、と。

神は、義であると同時に、義とする方です。聖さを妥協されたのではありません。満たされたのです。あなたが犯したすべての罪 ― 過去も、現在も、未来も ― は、十字架でイエスの上に置かれました。さばきの一打ちごとが、主の上に落ちました。「すべてが終った」(ヨハネによる福音書 19:30)と叫ばれたとき、そのギリシア語は (テテレスタイ) τετέλεσται —「完済した」。当時の証書に記された商用語です。しかも完了形であり、完了した行為とその結果が永続することを示しています。

あなたの罪は、見逃されたのではありません。罰せられたのです ― あなたの身代わりのからだの上で。すでに罰せられた以上、同じ罪が二度裁かれることはありません。すでにキリストにおいてさばかれた罪であなたを罰するなら、神は不義になってしまいます

だからこそ、ローマ人への手紙 8章1節は、少しの迷いもなく宣言できるのです。

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」
ローマ人への手紙 8:1 (口語訳)

罪に定められることがない。「定められることが少ない」でもなく、「次の失敗までは保留」でもありません。まったくないのです。神はまだ怒っていると告げる声は、あなたの父から出たものではありません


あなたが人を赦すこと ― イエスの教え

ここで、赦しの二つの面が出会います。

赦さない僕のたとえ(マタイによる福音書 18:23–35)では、王が一万タラントの負債を負う僕を赦します。到底返しきれない額です。ところが同じ僕が外へ出て、百デナリを借りている仲間の首をしめました。自分が帳消しにしてもらった額の、ほんのひとかけらです。王のことばは厳しいものでした。「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」マタイによる福音書 18:33 (口語訳)。

主旨は、人を赦さなければ神が赦しを取り消される、ということではありません。自分がどれほど赦されたかを分かっている人は、他人に赦しを出し惜しみするのが難しくなる、ということです。二つは結びついています。条件としてではなく、結果として。

イエスはパリサイ人シモンに言われました。「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」ルカによる福音書 7:47 (口語訳)。高価な香油で主の足をぬぐった女は、赦されるために愛したのではありません。赦されていると知っていたからこそ、愛したのです。愛の深さは、赦しの啓示の深さに結ばれています

この原理は、横の関係でも同じように働きます。配偶者に、子どもに、同僚に、敵に対するあなたの接し方は、神の前での自分の立場をどう信じているかから流れ出ます。神がまだ何かを自分に対して抱えていると思えば、あなたも人に対して何かを抱え続けます。自分の勘定がきれいだと知っていれば、相手の勘定もきれいにできるのです。

パウロはエペソ人への手紙 4章32節で、単刀直入に語ります。

「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」
エペソ人への手紙 4:32 (口語訳)

基準は「正しいことだから赦しなさい」ではありません。「神があなたを赦してくださったように赦しなさい」です。十字架は、理由であると同時に、手本でもあります。神は、ご自分がまず与えていないものを、あなたに要求なさいません


ヨセフと兄たち ― 恵みの実例

創世記 37章から50章に及ぶヨセフの物語は、旧約聖書でも指折りの長い記事であり、その中心に赦しが据えられています。

兄たちはねたみから、ヨセフを奴隷に売りました。彼は異国で年月を過ごします。濡れ衣を着せられ、獄につながれ、忘れ去られて。やがてエジプトで第二の権力者として兄たちの前に立ったとき、彼には報復する法的な権利も、道義的な理由も、十分にありました。

けれども彼は泣きました。そしてこう言ったのです。

「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれをよきに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。」
創世記 50:20 (口語訳)

ヨセフは、起きたことを小さく見せませんでした。兄たちを無罪だとも言いませんでした。「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだ」と、はっきり言い切っています。ただ彼は、その悪をもっと大きな枠の中に置きました。神のご計画という枠です。その枠の中でこそ、赦しが可能になりました。

ヨセフは長男をマナセと名づけました。(メナッシェ) מְנַשֶּׁה —「神はわたしにすべての労苦を忘れさせられた」。穴のことも獄のことも記憶から消えた、という意味ではありません。痛みがもう、彼を支配しなくなったのです。神が苦い思いを実りに置き換えてくださいました。

次男の名はエフライム。(エフライム) אֶפְרַיִם —「神は悩みの地でわたしを実り多い者とされた」。ヨセフは、境遇が変わるのを待ってから実を結んだのではありません。悩みの地の「ただ中で」実を結びました。それが赦しの実です。赦しは、相手が先に悔い改めることを必要としません。それは、加害者からではなく神から来る供給によって働くからです


苦い根 ― 自分で飲む毒

ヘブル人への手紙 12章15節は、率直に警告します。

「気をつけて、神の恵みからもれることのないようにし、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。」
ヘブル人への手紙 12:15 (口語訳)

この節は「ひどい罪を犯す者がないように」とは言いません。「神の恵みから落ちる者がないように」と言います。苦い思いは、ひどい仕打ちから始まるのではありません。恵みが見えなくなったところから始まるのです。根が目に見える実 ― 恨み、壊れた関係、時には体の不調 ― を結ぶはるか前に、本当の問題があります。自分は完全に赦されていると、もう信じられなくなっている人がいる、ということです。

しかも損なわれるのは、その人だけではありません。「それによって多くの人が汚される」とあります。家庭に、職場に、教会に、苦い思いを抱えた人が一人いると、汚れは外へ広がります。個人的な恨みに見えたものが、共同体の毒になるのです。

手当ては、意志の力ではありません。歯を食いしばって赦そうと自分を追い立てることでもありません。手当ては土台に立ち返ることです。ほかならぬあなたが、多く赦されたのだと。それが頭だけでなく心に着地するとき、人を手放すことが可能になります。罪責感が住む所から、回復は去っていきます。そして赦しが住む所には、自由がとどまります。

ヘブル人への手紙 12章の次の節は、不品行に触れます(16節)。一見、無関係に思えます。けれどもこのつながりは意図されたものです。苦い思いと性の罪が同じ警告の中に並ぶのは、両方が同じ根から育つからです。恵みから落ちた人、という根です。自分の赦しに安んじていないとき、人は間違った場所に慰めを探します。本当の戦いはいつも、自分は完全に受け入れられていると信じられるかどうかにあります


忘れられた第一のめぐみ

詩篇 103篇2〜3節は、神のめぐみを、はっきりした順番で並べます。

「わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、」
詩篇 103:2–3 (口語訳)

第一のめぐみは赦しです。第二がいやしです。この順番は偶然ではありません。赦しは、ほかのあらゆる祝福を生む母だからです。赦しの問いに決着がついたとき ― 神はわたしのすべての罪を、キリストを受け入れる前のものだけでなく、すべて赦してくださったと信じられたとき ― ほかのめぐみが後に続いてきます。

イエスご自身が、屋根から吊りおろされた中風の人に対して、この順序を示されました(マルコによる福音書 2章)。すぐにいやすこともおできになりました。けれども主はまず言われます。「子よ、あなたの罪はゆるされた」マルコによる福音書 2:5 (口語訳)。それから、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」(2:11)と。赦しが、いやしの前に来ました。身分の確定が、奇跡の前に来たのです。

多くの信仰者が、ほかの約束を受け取りかねているのは、ここに理由があります。赦しを理屈としては分かっていても、心の啓示になっていないのです。自分の立場に自信のないまま御前に出て、祈りを急ぎ足で済ませ、父と本当に過ごす前に立ち去ってしまう。その一方で、友人となら二時間、時計も見ずに座っていられます。違いは何でしょうか。友人は点数をつけていないと知っているからです。まだ、神について同じことを信じられていないのです

ヘブル人への手紙 8章10〜12節の新しい契約の約束は、そのつながりを明かします。神は言われます。わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心にしるす ― 内側からの導きです。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる ― 関係です。すべての者がわたしを知るようになる ― 親しさです。そして、そのすべての理由はどこにあるのでしょう。「わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしないであろう」ヘブル人への手紙 8:12 (口語訳)。

この節の「あわれむ」にあたる語は (ヒレオース) ἵλεως —「なだめられている、恵み深い」。贖罪所を指すヒラステーリオンと同じ語根です。神はただ、あなたの罪を大目に見ようとしておられるのではありません。義にかない、法にかない、血によって買い取られた根拠の上で、あなたを一度も罪を犯さなかった者として扱うことがおできになるのです。そしてそれゆえに、神はあなたを導き、あなたと交わり、あなたに知られる方となってくださいます。

赦しは、後にしてきたスタートラインではありません。日々あなたが立つ、その地面です。


福音の答え

罪責感に対する福音の答えは、「もっとがんばりなさい」ではありません。「すでに成し遂げられた」です。

負債は支払われました。減らされたのでも、猶予されたのでも、組み替えられたのでもありません。支払われたのです。記録は消されました。隠されたのでも、封をされたのでも、書庫にしまわれたのでもありません。消されたのです。そして、あなたの記録を消したその同じ恵みが、あなたが人に対して抱えている記録を消す力を、いま与えています。

あなたは赦しに向かって登っているのではありません。赦しのほうが、すでにあなたのところへ降りてきたのです。