エレミヤは重圧の中を生きた人でした。国は崩れていき、友は背を向けました。その只中で彼は、自分を立たせ続けた唯一のものを語っています。

「あなたのみ言葉が見いだされたとき、わたしはそれを食べました。あなたのみ言葉は、わたしにとって心の喜び、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしはあなたの名をもって呼ばれている者です。」 エレミヤ書 15:16 (NKJV より私訳)

エレミヤは「あなたのみ言葉が見いだされたので、わたしはそれに従いました」とは言いませんでした。食べました、と言ったのです。

この順番が大切です。わたしたちの多くは、ペンを手にし、一つの問いを胸に聖書を開きます。わたしは何をすべきか。 それはいかにも誠実で、いかにも真剣な態度に見えます。けれども、それは食事の前に課題を置くことなのです。

ここでエレミヤが使う動詞は (akal) אָכַל —「食べる、食い尽くす」です。パンを前に腰を下ろす人の、ごく普通の、飾りのない言葉です。神秘めいたところは何もありません。食べ物を体に入れれば、あとは体がしてくれます。

モーセもまた、同じことを語りました。四十年のあいだ、毎朝地に降りてくるもので養われてきた民に向かってです。

「それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを、あなたに知らせるためであった。」 申命記 8:3 (NKJV より私訳)

神はまず食べさせられました。教えはそのあとに来たのです。

成果を出すために読むとき、人は疲れて本を閉じます。すべきことの一覧は長くなり、力は小さくなっています。食べるために読むとき、まず力が来て、従順はあとからついてきます。朝の食卓のあとに一日の働きが続くように。

律法の心は、聖書を検査の場とします。恵みは、それを食卓とします。

ですから明日の朝、最初の問いを変えてみてください。神は何を求めておられるのか、ではなく。神は今、何を差し出しておられるのか、と。

従順とは、養われた者がすることであって、飢えた者が絞り出すものではありません。