喜びが湧くまで食べる

多くの人は、エレミヤのこの一文を前半だけ引いて、そこで止まってしまいます。
この節には、二つの動きがあります。まず、彼は食べます。そのあとで、何かが立ち上がってくるのです。
エレミヤはここで、二つのヘブライ語を並べて置きました。(サソン) שָׂשׂוֹן — 「喜び、歓喜」、そして (シムハ) שִׂמְחָה — 「楽しみ、喜び祝うこと」。口語訳では、前者が「喜び」、後者が「心の楽しみ」と訳し分けられています。彼は言葉を重ねました。食事のあとに起こったことを言い表すには、一つでは足りなかったのです。
これは他人事ではありません。わたしたちの多くは、読むのをあまりに早くやめてしまうからです。章を読み終え、本を閉じ、今日の分は済んだ、と印をつける。けれども、読み終わったからといって、食事が終わったわけではないのです。食事が終わるのは、心の中で何かが持ち上がったときです。
ですから、喜びが湧くまで読んでください。急がず、歩みをゆるめて。足を止めさせたその一節に、とどまってください。まだ何も動いていないなら、あなたはまだ食べ終えていません。
そして、その喜びは飾りではありません。
ここでは、その場面が大切です。エズラは民全体の前で、朝から真昼まで律法を読み上げていました。民はすでに、み言葉を食べていたのです。そのうえでネヘミヤは、行って実際の食事をし、喜びなさいと告げます。主を喜ぶことこそ、彼らの (マオーズ) מָעוֹז — 「力、とりで、避け所」だからです。この語は、気分を言い表す言葉ではありません。堅く守られた陣地を指す言葉です。
喜びは、聖書に持ち込む気分ではありません。聖書が残していく力です。
しかもそれは、たましいの内だけにとどまりません。
ソロモンが喜びと骨を同じ一文に置いたのは、偶然ではありません。処方箋には、あなたのからだも書き込まれているのです。
喜びは、上手に読めた者への褒美ではありません。あなたが本当に食べた、というしるしです。
この記事が心に残りましたか。毎朝、こうした短いディボーションをメールでお届けします。
