荒野の低木と、水辺の木

皮肉屋は、美しい部屋に通されると、まず埃を見つけます。
エレミヤ書は、二種類の人を並べて描きます。のろわれた人は、荒野に立つ乾いた低木のようだ、と。
この人の悲劇がどこにあるか、心に留めてください。良いものは、ちゃんと届いているのです。ただ、それが見えない。健やかな家族がいるのに、その欠けばかりを探してしまう。安心して住める家があるのに、間取りの不満を数えてしまう。目の前にある恵みに、まったく目が開かれないまま生きているのです。
祝福された人は、そうではありません。エレミヤは、その人を水のほとりに植えられた木にたとえます。暑さが来ても、その人は気温を気にしません。暑さとは、重圧であり、緊張であり、危うさのことです。祝福された人も、のろわれた人とまったく同じ暑さの中に立っています。けれども、その目は水につながれたままなのです。感謝することに忙しくて、気温に取り乱している暇がありません。
人は、自分の目が見るように慣らしたものを、そのとおりに見つけ出します。
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