頭が止まってくれません。夜、床に入ると、思いの群れが口々に叫び出します。交わした会話を何度も巻き戻し、まだ起きてもいない災いを予行演習し、存在してもいない問題を解こうとする。そして止めようとすればするほど、頭の中の音量は上がっていきます。

聖書には、この状態を指す言葉があります。いいえ、二つあります。

ギリシャ語の (メリムナオー) μεριμνάω — 「いくつにも分けられる」。十の方向へ引き裂かれた心のことです。もう一つは (トリュバゾー) θορυβάζω — 「騒ぎ立てる」。頭蓋骨の内側で起きている暴動のことです。主イエスは、台所に立つひとりの女性に語られたとき、この二つの言葉を使われました。そしてその答えは、「もっと頑張って考えるのをやめなさい」ではありませんでした。答えは、ひとりのお方でした。

この記事では、考えすぎについて聖書が何を語っているのかをたどり、ヘブライ語とギリシャ語の原語を確かめ、引き裂かれた心を、神がすでに与えてくださった健やかな心に取り替えるとはどういうことかを見ていきます。


聖書が描く「考えすぎ」

聖書に「考えすぎ」という単語は出てきません。けれども聖書は、その状態を、どんな心理学の教科書よりも精確に描き出しています。

マルタは台所に立っていました。主イエスは部屋に座っておられました。神ご自身が人となってご自分の家の屋根の下におられるのに、彼女はその時間を献立の心配に費やしたのです。そしてついに主に食ってかかりました — 「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか」。そのとき主は、福音書の中でも最も的確な診断のひとつを口にされました。

「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」
ルカによる福音書 10:41-42 (口語訳)

二つの言葉です。「心を配って」と「思いわずらっている」。ギリシャ語では、この二語が並ぶことで、考えすぎる人の頭の中の光景がそのまま一枚の絵になります。

主はマルタの働きを責められたのではありません。彼女の内側で起きていることを言い当てられたのです。そして処方箋は、思考のテクニックではありませんでした。姿勢でした。座ること。マリヤは主の足もとに座っていました。受け取っていました。それが「無くてならぬもの」でした。


ギリシャ語を見る:メリムナオーとトリュバゾー

メリムナオー — 分けられた心

ルカによる福音書 10:41 で「心を配って」と訳されている語が (メリムナオー) μεριμνάω です。語源は (メリゾー) μερίζω — 「分ける、いくつかの部分に配分する」。

文字どおりの絵は、断片に割れた心です。一つの思いを手に持っていられません。ほかの十の思いが注意を奪い合うからです。机の前に座っていても、心は診察室にあり、銀行にあり、先週の火曜日の会話の中にあります。しかも同時にです。

これは、主が山上の説教で使われたのと同じ語です。

「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか」
マタイによる福音書 6:25 (口語訳)

主が次に語られたのは問いでした。「命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか」。神経をなだめておられるのではありません。いのちの質を指しておられるのです。分裂した心は、気分を悪くするだけではありません。からだを損ない、主が約束された豊かないのちを盗みます。ここで「命」と訳されている語は (プシュケー) ψυχή — 魂の全体、存在まるごとの健やかさです。

トリュバゾー — 思いの暴動

「思いわずらっている」と訳されている語が (トリュバゾー) θορυβάζω です。語源は (トリュボス) θόρυβος — 暴動、騒乱、公の秩序を乱す騒がしい群衆。

二つを重ねてみてください。マルタの内側には、あらゆる方向へ引っぱられる思いの群れがあり、しかもその群れは大声でした。低いうなりではありません。れっきとした暴動です。「あれがまだ済んでいない。早くこれを。パンはどうする。どうして誰も手伝ってくれないの。主はわたしを気のきかない女主人だと思っておられないだろうか」。

これが考えすぎです。深い思索ではありません。丁寧な分析でもありません。叫ぶばかりで決して結論に至らない、思いの群衆です。

主は同じ語根から出た語 — (トロエオー) θροέω — を、終わりの日のしるしを語られたときにも使っておられます。

「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない」
マタイによる福音書 24:6 (口語訳)

同じ語族、同じ診断です。引き金が台所であれ世界的な危機であれ、かたちはまったく同じです。心はいくつにも分けられ、その間ずっと、思いの暴動が注意を要求し続けるのです。


「慎みの心」が原語で意味するもの

パウロはローマの獄中からテモテに書きました。テモテは若く、気後れしやすく、重圧の下にいました。パウロの処方はこうです。

「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」
テモテへの第二の手紙 1:7 (口語訳)

口語訳が「慎み」と訳しているのが (ソープロニスモス) σωφρονισμός です。この語は立ち止まって眺める値打ちがあります。メリムナオーとトリュバゾーの状態の、ちょうど正反対だからです。

ソープロニスモスは二つの語根から成っています。(ソーゾー) σῴζω — 「救う、まるごとにする」。そして (プレーン) φρήν — 「心、思いの座」。救われた心。まるごとにされた心。救い出され、本来の働きへと回復された心です。

これは自制でも意志の力でもありません。この語は、暴走をやめるよう自分を訓練した心を指してはいません。外から働きかけを受けた心 — 救われ、まるごとにされ、回復された心を指しています。働かれたのは神です。あなたはその結果を受け取ったのです。

パウロは対比を描きました。「神がわたしたちに下さったのは考えすぎではなく、考えすぎをやめる能力である」とは言っていません。神が三つの賜物をくださったと言ったのです。(デュナミス) δύναμις — 力。(アガペー) ἀγάπη — 愛。(ソープロニスモス) σωφρονισμός — 救われた、健やかな心。これらは達成ではなく、預けられたものです。キリストにあって、すでにあなたのものです。

考えすぎる人の本当の問題は、考えすぎることではありません。すでに持っているものを知らないことです。あなたはあなたの思いではありません。あなたにはキリストの心があります。


考えすぎについての聖書の12の言葉

1. ピリピ人への手紙 4:8 — 置き換えるという戦略

「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」
ピリピ人への手紙 4:8 (口語訳)

パウロは「悪い思いを考えるのをやめなさい」とは言いませんでした。取り替えなさい、と言ったのです。しかも六つの項目からなるふるいを渡しています。真実。尊ぶべきこと。正しいこと。純真。愛すべきこと。ほまれあること。これは前向き思考ではありません。神が「これが現実だ」と言われるものへ、注意を向け直すことです。

2. イザヤ書 26:3 — 支えられた心

「あなたは全き平安をもって心をあなたに寄せる者を守られる。彼はあなたに信頼しているからである」
イザヤ書 26:3 (口語訳)

「全き平安」にあたるヘブライ語は (シャローム・シャローム) שָׁלוֹם שָׁלוֹם — 重ねられた平安、倍にされた平安です。そして「寄せる」と訳された語は、据えられる、支えられる、体重を預けるという意味を持ちます。神に寄りかかった心は暴走しません。重みを受け止める壁を見つけたからです。考えすぎる心には錨がありません。この心には、それがあります。

3. コリント人への第二の手紙 10:5 — 思いをとりこにする

「わたしたちは、さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立てられたあらゆる障害物とを打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、」
コリント人への第二の手紙 10:5 (口語訳)

「思弁」と訳された語は (ロギスモス) λογισμός — 計算、推論、自分の立場を固めるために心が築き上げる理屈の構築物です。考えすぎが要塞に変わるのは、まさにここです。心は「心配して当然だ」という緻密な論証を組み立てます。パウロは、それを取りこわせと言いました。ただし、とりこにして服従させる先は「キリスト」です。あなた自身の従順ではありません。基準はご自身の完成されたみわざであって、あなたの出来ばえではないのです。

4. テモテへの第二の手紙 1:7 — 慎みという賜物

「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」
テモテへの第二の手紙 1:7 (口語訳)

ここで「臆する」と訳されているのは、よく使われる (フォボス) φόβος ではありません。(デイリア) δειλία — 人を凍りつかせる、臆病さのことです。慎みの心 (ソープロニスモス) とは、思いが消えた状態ではありません。まるごとにされた心のことです。

5. ローマ人への手紙 12:2 — 新しくされる心

「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」
ローマ人への手紙 12:2 (口語訳)

「新たにする」と訳された語は (アナカイノーシス) ἀνακαίνωσις — 改装、全面的な造り直しです。「心」は (ヌース) νοῦς — 認識し、理解し、判断する働きのこと。神は古い心に継ぎをあてられません。建て直されるのです。新しくされることは、神の言葉に同意するところから始まります。

6. 詩篇 94:19 — 騒ぎの真ん中に届く慰め

「わたしの心に思いわずらいの多いとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます」
詩篇 94:19 (口語訳)

詩人は、不安な思いが去ったふりをしませんでした。思いはむしろ増えていました。そしてそのただ中で — 片づいた後ではなく — 神の慰めが届いたのです。神に会っていただくために、すべての思いを整理し終える必要はありません。神は、その群れの真ん中であなたに会ってくださいます。

7. 箴言 3:5-6 — 自分の知識にたよらない

「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」
箴言 3:5-6 (口語訳)

考えすぎとは、動き出す前にすべてを解き明かそうとする心の試みです。ソロモンは逆を言いました。まず信頼せよ、道はその後に示される、と。「たよる」にあたる語は (シャーアン) שָׁעַן — 寄りかかる、全体重を預けて休む。自分の分析に寄りかかるのをやめ、主に寄りかかってください。

8. マタイによる福音書 6:27 — むなしさを突く問い

「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」
マタイによる福音書 6:27 (口語訳)

主は、考えすぎる人が鏡に貼っておくべき問いを投げられました。考えすぎて、寿命が一日でも延びたことがあるでしょうか。背丈が一センチ伸びたでしょうか。口座の残高が一円でも増えたでしょうか。思いわずらいは結果を約束しておいて、疲れと失われた平安のほかは何も渡してくれません。

9. 詩篇 139:23-24 — 神はあなたの思いをご存じです

「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪い道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください」
詩篇 139:23-24 (口語訳)

ダビデは自分の思いを自分で仕分けようとはしませんでした。神を招いたのです。内省と招きは別物です。内省は、さらなる考えすぎへ連れて行きます。招きは、神の判決へ連れて行きます。そしてその判決はいつも恵みです。

10. ペテロの第一の手紙 5:7 — 重さごと投げる

「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」
ペテロの第一の手紙 5:7 (口語訳)

「ゆだねる」にあたるギリシャ語は (エピリプトー) ἐπιρρίπτω — 上に投げつける、荷物をまるごと放る。しかもアオリスト形です。一度きりの、決定的な移し替えです。その理由は、あなたの強さではありません。神の情愛です。「かえりみていて下さる」— 現在形、途切れることなく、一度もやむことのないまなざしです。

11. ヨハネによる福音書 14:27 — 世が与えるものではない平安

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」
ヨハネによる福音書 14:27 (口語訳)

主は「わたしの平安」と言われました。湖の嵐の中で眠っておられたとき、主が生きておられたその同じ平安です。主は技法を教えられたのではありません。ご自分の持ち物を譲り渡されたのです。世の平安は状況の良し悪しに左右されます。主の平安は、困難のただ中で働きます。

12. ピリピ人への手紙 4:6-7 — 守る平安

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」
ピリピ人への手紙 4:6-7 (口語訳)

「守る」にあたる語は (フルーレオー) φρουρέω — 守備隊が見張りに立つという軍事用語です。考えすぎを神に手渡すとき、神の平安は、あなたの心の門に立つ兵士のように配置されます。守るのは平安のほうです。あなたが生み出すのではありません。受け取るのです。


考えすぎと安息のつながり

イスラエルがレピデム — 「休む所」を意味するヘブライ語 — に着いたとき、アマレクが攻めてきました(出エジプト記 17:8)。アマレクという名は (アマル) עָמָל という語根から出ています。骨の折れる労苦、人を疲れ果てさせる働きという意味です。

この型は聖書全体を貫いています。安息に近づくたびに、労苦の霊が抵抗するのです。恵みの下でのあなたの唯一の戦いは、安息にとどまることです。

モーセは丘の上で手を上げていました。手が下がるとアマレクが勝ちました。アロンとフルが助けたとき — 彼らはまずモーセを座らせました — イスラエルが勝ちました。戦いの最中に腰を下ろす者はいません。けれども、それが神の戦術です。まず座る。勝利はその後についてきます。

「あわてる」にあたるヘブライ語は (フーシュ) חוּשׁ — 突風の音をそのまま写したような語です。イザヤ書 28:16 はこう言います。

「信ずる者はあわてることはない」
イザヤ書 28:16 (口語訳)

ペテロはこの同じ言葉をペテロの第一の手紙 2:6 で引用し、「決して恥じることがない」と訳しました。聖霊は二つのことを結び合わせられたのです。信じる者は急がない。急がない者は恥を見ない。考えすぎとは、内側に向かった焦りです。急いでいるのは、心なのです。

ヘブル人への手紙 4:11 は、それを信じる者に与えられたただ一つの務めとして語ります。

「したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちる者が出るかもしれない」
ヘブル人への手紙 4:11 (口語訳)

神が求めておられる唯一の努力は、あがくのをやめるための努力です。


心にはかぶとが要ります(そのかぶとは希望です)

パウロはエペソ人への手紙 6章で神の武具を並べました。どの一つも、人の努力ではなく福音の真理に対応しています。心を守る一片はこれです。

「また、救のかぶとをかぶり、」
エペソ人への手紙 6:17 (口語訳)

テサロニケ人への第一の手紙 5:8 で、パウロはそれを「救の望みのかぶと」と呼んでいます。あなたの救いは確かで、完全で、覆されないという確信のことです。「望み」にあたるギリシャ語 (エルピス) ἐλπίς は、良いことへの確信に満ちた期待を意味します。願望ではありません。将来についての落ち着いた保証です。

考えすぎる人にとって、これは大切です。救いの望みを見失うとき — 神はまだ自分の味方だろうかと疑い始め、自分の未来はまだ良いものだろうかと揺れ、完成されたみわざは自分まで届いているだろうかと迷い始めるとき — かぶとは外れ、心は野ざらしの原っぱになります。

武具はどれも、行いではなく教理です。胸当ては、achieved ではなく受け取った義。盾は、自分の努力ではなくキリストの完成されたみわざへの信仰。そしてかぶとは、自分の救いは確かに封印されているという確信の望みです。その望みが無傷であるとき、心は守られます。その望みにひびが入るとき、考えすぎが一気に流れ込みます。

ある信者が突然、重苦しい思い、時には冒涜的な思いに襲われるのは、これで説明がつきます。何かが確信を揺さぶったのです。誤った教え。責め立てる声。神の受け入れは条件つきだという思い込み。処方は意志の力ではありません。正しく信じることです。かぶとを、もう一度かぶってください。


思いの反すうを御言葉に置き換える

ヘブライ語には、多くの人が見落とす細部があります。「パン」を意味するヘブライ語は (レヘム) לֶחֶם。「戦う、戦い」を意味するヘブライ語は (ラーハム) לָחַם。語根の文字は同じ、出どころも同じです。

言い換えれば、戦い方は食べることなのです。イスラエルがレピデムでアマレクと戦ったとき、「戦った」に使われている語が (ラーハム) לָחַם — 「パン」を生んだのと同じ語です。この結びつきは偶然ではありません。考えすぎは、歯を食いしばって沈黙にたどり着くことで打ち負かすものではありません。神の言葉を食べることによって打ち負かすのです。

詩篇 1篇は、幸いな人をこう描きます。

「このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う」
詩篇 1:2 (口語訳)

口語訳が「思う」と訳しているヘブライ語は (ハーガー) הָגָה — つぶやく、口ずさむ、小声で語ること。聖書の言う黙想は、心を空にすることではありません。口を満たすことです。一節を読む。声に出して言う。転がしてみる。もう一度言う。神の言葉の響きが、不安な思いの暴動に取って代わるのです。

ダビデは、はっきりこう言っています。

「わたしが思いめぐらしていると、火が燃えた」
詩篇 39:3 (NKJV より私訳)

「思いめぐらす」は、「黙想する」と語根を同じくする語です。ダビデが神の言葉を噛みしめているうちに、内側で何かが点火したのです。考えすぎの騒音は、御言葉で満たされた心の中では生き延びられません。御言葉と敵とを、同時に相手にすることはできないのです。

これは自己啓発の技法ではありません。押し出しの戦略です。暗い思いを力ずくで追い出すのではありません。もっと良いもので席を埋めてしまうのです。ピリピ人への手紙 4:8 がふるいを与え、詩篇 1:2 が方法を与えました。声に出す。つぶやく。燃え出すまで、口の中で転がす。


働きすぎる心への福音の答え

考えすぎに対する福音の答えは、「考えを減らしなさい」ではありません。「もっと受け取りなさい」です。

力はすでに与えられました。愛はすでに与えられました。慎みの心 — (ソープロニスモス) σωφρονισμός、救われ、まるごとにされた心 — も、すでに与えられました。人知を超えた平安は、すでにあなたの心の門に配置されています。

考えすぎる人は、休む前にすべてを解き明かさなければならないと思い込んでいます。福音は言います。まず休みなさい、明晰さはその後についてくる、と。主イエスが終えられた所から始めてください。

あなたは健やかな心を目指してよじ登っているのではありません。健やかな心のほうが、すでにあなたのところまで降りてきています。