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検索語: “神の言”

20件の記事が見つかりました

三十倍は、負けではない

最初の刈り入れを終えた農夫が、畑を歩いてまわります。まいた種一粒につき、実った粒は三十。それでも彼は、畑を掘り返したりはしません。もう一度、種をまくのです。 種まきのたとえを読むとき、私たちの多くは一足飛びに百倍を望みます。三十倍はびりのように聞こえ、六十倍は「あと一歩」のように聞こえます。 マタイは収穫を大きい数から並べています。マルコは小さい数から並べています。 「ほかの種は良い地に落ちた。そ...

成分表を読んでから食べる人はいない

今日のお昼に何を食べたか、思い出してみてください。 では、そこに含まれていたビタミンを挙げてみてください。鶏肉のアミノ酸の組成は。あの温度で、油は米に何をしたのでしょうか。 答えられないはずです。そして、答えられないことが食事の邪魔をしたことは一度もありません。あなたは席につき、おいしくいただき、体のほうは、あなたの許可を待たずに化学を引き受けてくれました。 ところが聖書を開いたとたん、私たちはこ...

自分探しは、イエスを仰ぐことから

多くの人が、聖書を自己改善の手引きのように読んでいます。よりよい人間になるための規則や公式、段取りを求めてページを開く。そうして本文の中に、自分自身を探そうとするのです。 けれども、自分を見つめることで本当の自分が分かることはありません。自分が何者かは、イエスを仰ぐときに分かるのです。聖書のいちばんの目的は、イエス・キリストを明らかにすることにあります。主を見るために——その麗しさ、そのみわざ、そ...

文脈を離れた一節は、口実になる

1535年、マイルズ・カヴァデールが、英語で初めての完全な聖書を印刷しました。その序文で、彼は読者にたったひとつの心得を残しています。「聖書を理解するのに大いに助けとなるのは、何が語られ、何が書かれているかだけでなく、だれによって、だれに向かって、どのような言葉で、いつ、どこで、何のために、どのような状況のもとで語られたのかに心を留め、その前に何があり、その後に何が続くのかを考えることである」 長...

啓示を火に入れなさい

ある人が、御使が自分に現れたと語ります。終りの日にあって死に打ち勝つ鍵を、その御使から授かったのだと言います。 その言葉を信じるべきでしょうか。 いいえ。 御使が実在しないからではありません。御使は確かにいます。けれども神は、ご自身の言葉を飛び越えてお働きになる方ではありません。パウロは二千年前に、この問いに決着をつけています。 「しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたし...

死を見ない世代

テサロニケ人への第一の手紙 4 章で、パウロは同じことを二度言います。わずか三節のうちに、同じ言葉が繰り返されるのです。「生きながらえて残る」。聖書における繰り返しは、書き手の不注意ではありません。強調です。神が一つの箇所で二度言われるとき、それは立ち止まって、よく見なさいという合図です。パウロはこう書いています。 「わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたち...

神は一語まで選ばれた

わたしたちはしばしば、聖書を大まかな思想の集まりのように扱ってしまいます。神は大筋を示されたけれども、細かい言い回しは人間の書き手に委ねられたのだろう、と。けれども、聖書を書いた人々自身は、そのようには考えていませんでした。彼らは、神が一語一語、一文字に至るまで霊感を与えられたと信じていたのです。 これが、いわゆる完全霊感の教理です。聖霊が、本文のことばそのものを導かれた、ということです。 使徒パ...

聖書は「考えすぎ」に何と言うか

頭が止まってくれません。夜、床に入ると、思いの群れが口々に叫び出します。交わした会話を何度も巻き戻し、まだ起きてもいない災いを予行演習し、存在してもいない問題を解こうとする。そして止めようとすればするほど、頭の中の音量は上がっていきます。 聖書には、この状態を指す言葉があります。いいえ、二つあります。 ギリシャ語の (メリムナオー) μεριμνάω — 「いくつにも分けられる」。十の方向へ引き裂...

三つの門、ひとつの薬

古代の町は、門で生き、門で滅びました。番兵は門に立ち、商人は門から入り、敵は門をねらいました。門を通り抜けたものが、そのまま町の通りを支配したのです。 ソロモンは門というものをよく知っていました。そして箴言4章で、人の体にも門があるのだと、自分の子に語ります。 「わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。これをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。それは、これを得る者...

頭で読むか、心で読むか

聖書を開き、山のような知識を積み上げながら、その著者にはついに出会わない——そういうことが起こり得ます。神学校を優秀な成績で卒業し、頭は満ち足りているのに、心は空っぽのまま、ということも。 聖書は「知識は人を誇らせ」ると告げます(コリント人への第一の手紙 8:1 口語訳より)。誇らせるのが知識なら、人を建て上げるのは啓示です。その違いは頭の良し悪しにあるのではありません。心の姿勢にあるのです。 「...

孤独に、聖書はどう答えるか

人でいっぱいの部屋にいながら、ひとりだと感じることがあります。人の行き交うオフィス、席の埋まった礼拝堂、家族が囲む食卓。それでも、隣の席だけがぽっかり空いているように思えるのです。孤独は、まわりに何人いるかで決まるものではありません。いま自分が立っている場所と、自分が本当に知られていると感じられる場所との、その隔たりのことなのです。 聖書はこの主題を避けません。詩篇にも、預言者の書にも、主イエスの...

喜びが湧くまで食べる

多くの人は、エレミヤのこの一文を前半だけ引いて、そこで止まってしまいます。 「わたしはあなたの言葉を見いだして、それを食べました。あなたの言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしはあなたの名をもってとなえられている者です」 エレミヤ書 15:16 (口語訳) この節には、二つの動きがあります。まず、彼は食べます。そのあとで、何かが立ち上がってくるのです。 エレミヤ...

正しく分ける力

聖書が何と言っているかを知ることと、聖書がだれに向かって語っているかを知ることとは、別のことです。 主イエスは、その働きの初めに、弟子たちを遣わすにあたって、はっきりとした指示をお与えになりました。 「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け」 マタイによる福音書 10:5-6 (口語訳) もし、この主ご自身のことばを、そのまま今日のわたし...

み言葉は、まず食べる

エレミヤは重圧の中を生きた人でした。国は崩れていき、友は背を向けました。その只中で彼は、自分を立たせ続けた唯一のものを語っています。 「あなたのみ言葉が見いだされたとき、わたしはそれを食べました。あなたのみ言葉は、わたしにとって心の喜び、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしはあなたの名をもって呼ばれている者です。」 エレミヤ書 15:16 (NKJV より私訳) エレミヤは「あなたのみ言...

みことばの畑を守る

旧約の時代、イスラエルの敵は収穫の時を待ち構えていました。作物が実ると、ミデアンびとが押し寄せて食糧を奪っていったのです。ギデオンが夜、酒ぶねの中で麦を打たなければならなかったのも、ただそれを隠すためでした。 ダビデには、自分たちの食糧を敵に渡すまいとした勇士たちがいました。その一人、シャンマという人は、レンズ豆の畑のただ中に立ちました。 「しかし彼はその地所の中に立って、これを防ぎ、ペリシテびと...

怒りの根にある飢え

お腹がすくと、人は不機嫌になります。それは誰もが知っている体の道理です。ところが、たましいの飢えとなると、私たちはなかなか気づきません。慢性的な怒り、気分の落ち込み、漠然とした不安に苦しむ人は多いのですが、その原因が、霊を飢えさせたままにしていることにある場合は少なくありません。 その飢えを、娯楽や SNS や食べもので満たそうとします。けれども、どれも効きません。心は空いたままです。 エレミヤは...

からだを見ず、約束を見る

多くの信仰者が、自分のどこが悪いのかを調べることに、たくさんの力を注いでいます。検査の数値。症状。痛みの度合い。調べれば調べるほど不安をあおる検索結果や、ChatGPT への問いかけ。 アブラハムは、違う生き方をしました。 「彼は信仰が弱らず、すでに死んだも同然の自分のからだを、じっと見つめることをしなかった。不信仰によって神の約束を疑い、ぐらつくことはなかった。」ローマ人への手紙 4:19–20...

ふたりの子、ふたつの生き方

人生の歩み方には、二つの道があります。そしてその二つは、はるか昔に生まれたふたりの子によって示されています。 使徒パウロは、アブラハムの家族の物語は単なる歴史ではないと語ります。それは象徴であり、比喩です。(allēgoreō) ἀλληγορέω — 「比喩で語る」という言葉が、そこで用いられています。 すなわち、アブラハムにふたりの子があり、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた、と書...

落ち込む心に、御言葉を

望みがないという状態は、心だけでなく体にも及びます。望みを失うと、朝、目覚めた時点ですでに疲れています。何をするにも気力が湧かず、重たいものが胸の底に残ります。仕事を見ても、夫婦の間を見ても、家族を見ても、目に映るのは暗い色ばかりです。 こうした心の状態は、多くの場合、自分が何を取り入れてきたかの結果です。暗い報道や、この世の悲観的な見通しばかりで心を満たせば、心は沈みます。処方箋は、神の言に日ご...

悪魔が省いた一語

ヨルダン川で、父なる神がイエスを「わたしの愛する子」と呼ばれた、そのすぐあとのことでした。イエスは荒野に導かれ、悪魔が試みるために近づいてきます。表向きは、飢えのこと、力のことのように見えます。けれども戦いの芯にあったのは、「あなたは何者か」という問いでした。 悪魔が使った言葉を、よく見てみてください。 「すると試みる者がきて言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じ...